暫く療養と入院、更に手術をしまして映画ブログは更新を怠っておりました。作品は鑑賞してますので、徐々に復帰させていただきます。今後共、よろしくおねがいします。


by turtoone
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カテゴリ:映画(は行)( 72 )

b0046687_23173179.jpg筆者のように最近ジョニー・デップのファンになった人間のデップ評は、以前から彼の大ファンである人間にとっては、甚だおかしいらしい。特にこの時期まで「ネバーランド」今年度のマイベストにあげていることなど、もっての他だそうだ。あの作品はデップの映画ではなく、フレディハイモアの作品だと豪語して聞かない、Keenanもその一人で、日中半径2メートル以内に居ることの多い彼女に対し、作品内でそのハイモアが「ピーターパンはこの人だ」と言っているではないかと意味の無い反撃をしている。以前にも書いたが、デップの事を知らなかった訳でも評価が低かった訳でも無い。敢えていえば衝撃的な出会いが無かったのかもしれない。なぜなら、彼に関連する人達の評価は至って高いし、好き嫌いで言っても、好きに分類される。親友だったリバー、フィアンセだったウィノナ、弟役でブレイクしたディカプリオ、同期のブラピ、それに、ベストコンビとも言えるティム。これらは、すべて筆者のテリトリー内に所属する固有名詞なのである。そして、筆者の衝撃的な出会いとは、「パイレーツ・オブ・カリビアン」であり、「ネバーランド」であった。出会いというより再会なのかも知れないが、特に「ネバーランド」は個人的にも大変興味があったジェームス・バリ役であったことも大きい。筆者の場合、どうしても、文化的、芸術的(自分がそういう素養のある人間ではないからかもしれないが・・・)、更に歴史物に関しては、何度もいうようであるが必然的に評価が高い。誰もが知っているピーターパンの切り口を変えて、なるほど、こういう描写もあるじゃないかって再確認させて功績は大きいし、印象度として作品の中で大きなパーセンテージを占めているデップを評価しなくて、一体何を評価すれば良いのだろうかと思う。そんな訳だ。

さて、そのデップの出演作品としては、丁度、この表題作品の時代が筆者の認識に欠落していると自己を振り返る。この前後だと、「エド・ウッド」は観ているし、「ブレイブ」も観た記憶がある。そして、「スリーピーホロウ」は当然観ている。しかし、「エド~」は別として、実は余り印象に残っていない。映画作品との出会いというのも、人間のそれと同じで、実際に筆者の様な一映画好きのブロガーというのは、評論家と名の着く方々のように確固とした基準軸を持っているものでなく、1st.impressionで評価をしてしまうものが多いのであろう。それに、その間の作品、例えば、「デッドマン」、「ドンファン」、「ラスベガスをやっつけろ」等という辺りは、全く記憶が無い。尤も家内と観にいった映画も忘れて、後々に2日ぐらい口を利いて貰えなかったこともあるくらいだから、本当のところ、余り当てにならないが。

「フェイク」とは、「偽造する」とか「~のフリをする」という意味であるが、原題は"DONNIE BRASCO"、つまりデップ演じる役の潜入名である。そういえば、keenanは「原題」に五月蠅い(というか良く知っている)。原題が主人公の名前というのも多く、そのタイトルを原題以外で表現するのに英語でタイトルをつけるというのも、又、この外来語文化の持つ面白い国の一面だ。"ERIN BROCKOVICH"は「エリン・ブロコビッチ」で良いのであって、何も"JERRY MAGUIRE"を「ザ・エージェント」にする必要はないのである。この作品だって、それを言うなら"Fake"より"Sneak"なんじゃないかと思う。まぁ語呂は前者の方が良いが・・・。この作品も実話だそうで、「ヴェロニカ・ゲリン」でもそう思ったが、どうして人間というのは、時としてこんな恐怖のどん底に自らを叩き落としてまで、任務と正義感を全うするのであろうかと思ってしまう。又、デップはその中にあって適度な「影」のある演技が絶妙である。最初に髭を生やしているがそれに拘りがなく、あっさりと剃ってしまうと浮かび上がる精悍な顔つきと、物語の進行として、彼の素性を明らかにしていくコンビネーションが堪らないほど観客を嵌め込んでいる。このストーリー展開は見事だった。彼のこの時代の作品をもう一度、観なおしてみる良い機会になった。当分、keenanのコレクションにお世話になるかもしれない。


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by turtoone | 2005-11-07 23:37 | 映画(は行)
b0046687_12565851.jpgこの作品にあるシチュエーションは、東京ではあるが筆者の高校時代の経験からも多少fは理解できる内容である。但し、1968年の京都という舞台設定とは可也かけ離れたものである。「イムジン河」という名曲が放送禁止になっていた(というか、当時この河が37度線を示すということも)とか、朝鮮半島に関する考え方も現代の北朝鮮問題と比較すると然程過剰な関心も無かったと思う。ノンポリだったのかなと不振り返る。筆者が通っていた学校に一番近いターミナル駅付近の一区画は、彼らのエリアであり、迷い込んだ学友がカツアゲされて帰って来ることが多かったが、日本の不良高校生には殴る蹴ると暴力を奮った警察も、そのエリア内の事件には不介入であった。その点、やはり、関西は作品で見る限りフランクだ。日本人女子高生が朝鮮人を殴ったり、恋もあり、異国の兄弟分もありと、映画だからかも知れないが、日頃の関係がはっきりしているところが違う。だから筆者の体験とは全く異次元の世界の出来事として鑑賞するとこの映画の本質が良く理解できるのである。

過去の井筒作品よりも強く感じたのは台詞の面白さだった。いつもながら日本の映画はMCが悪く(撮影隊の腕が悪い訳ではないから、収録の際の拘りか、ボリューム設定が甘い)そこがシアターで観ているのと違い、台詞を落としたときの違和感(最悪は再生しなおすという)が大きいが、例えば当時の高校生が「明日、戦争に行けと言われたらどうする」と聞かれて「学校があるから」と、筆者を含めて60年代以降生まれの軟弱な精神の持ち主とは違い、戦争に行く行かないの論点が自分の身近に置き換えられるという辺りの台詞回しは面白い。確かにこの時代にはまだ「鬼畜米英」とまでは行かなくても、「対外」という感覚の第一にアメリカがあり、国内の左翼活動や全共闘も対米であり、彼らのイデオロギーがイコール、若い人間の活動源であり世相を引っ張ったと国中が勘違いしていた嫌いがある。その環境下であれば、朝鮮半島の人たちには「同胞」とはいえないが、同じ戦争の被害者(同じという言い方は御幣があるかな?日本は戦争を起こした国であるから・・・)という共通観念があったということも考えられる。

さて、作品に関してであるが全般的にはプラスとマイナスの両面があった。まずは美術。いつも言うように外国作品とは予算が違うから過去の風景を作るのは難しいがかなりロケハンには力が入っていた。一方でバスの表示だったり、信号機だったり、川土手の風景、細かいところは電気のスイッチなど、1968年よりも後の時代の物があったのは残念。重箱の隅をつつく積りはないが、多分編集時には気がついていた場面なので、カットしても良かったシーンもあった。もうひとつは役者である。ご存知の様にこの朝鮮人役も日本の俳優さんがやっている。しかしながら残念だったのは、若い高校生役の面々は朝鮮人になりきっていたのに、ベテラン陣の方が大変物足りないというか、全く役つくりに工夫がなかった。(工夫したとしたら全く足りなかった)。これは本当に残念だ。役者という文化・芸術の場に長いこと身を置いている人間の方が、きちんと異国の文化を学ぼうとしないあの年代に多い、大陸・半島への偏見が諸に出てしまったということである。その点、高岡蒼佑、沢尻エリカ、波岡一喜などは、普段の小さな仕草から朝鮮の文化に精通した所作を研究していた。この点は脱帽。適応性というだけでなく、「ワールド・カップ」の効果もあるのか、若い世代の人間の方が対アジアの偏見が無いのだと思う。こういう部分は筆者の世代からみれば学ぶ点が多い。

基本的にバイオレンスのシーンは嫌いである。但し、井筒は実にこの点の表現は上手い。殴り合っていても妙に裏に信頼感があるという部分が伝わってくるのは、作品の延長上や脚本の過程上にあるバイオレンスでなく、そこから何を井筒自身が監督として得たいかが明確に示されているからである。「こういう映画を作りたかったんや、ええやろ」と鑑賞者に問いかける、大変正直な監督なのである。

残念だったのは、川を渡るシーンにクライマックスを持って来れなかったのが失敗。ここでエモーショナルが切れてしまったのも事実。低予算で努力賞というところか?


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by turtoone | 2005-09-03 13:00 | 映画(は行)
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すごい体験だった。予告編を何度も観ているから、「泣き」のポイントが何処だか分かっていて、しかもその場所の直前でも「キタ━━━━(゚∀゚)━━━━ッ!!」と分かっていたにも係わらず、涙だけでなく鼻水まで止まらなくなった。すごい、常盤貴子って一体何者なんだろう。以前から彼女の演技力は日本女優でダントツなのは分かっていた。分かっていて、しかも、繰り返すようだが、この作品は何処で泣かされるかも分かっていたのに、そして精神的に張り巡らした防御シールドは殆ど完璧だったのに。そう、言い換えれば邦画でこんなに泣いた作品はないだろうな。

以前にプーケットにバカンスで滞在したときに、毎朝、朝食が終わった頃に必ずホテルに現れるのが、子像と象使いとその小僧。当時、小僧の年が5歳で長女と同じ、子像は18ヶ月で次女と同じ、象使いの年は不明の何処か境遇に親近感が漂うトリオが、やはり、ハーモニカを首を振り振り吹きながら踊ったり、客の鞄を鼻で取り上げて周囲を歩いてから持ち主に返したりという芸をやっていた。長女は子象の背中に乗って得意満面、次女は象が怖くて狂喜乱舞。序ながら言えば、彼等の生活に密着してなくてはならない象を神聖な動物として尊重しているこの国のお土産といえば、被服類は殆どの物に象がデザインされている。かくいう筆者も象のネクタイを記念に買った。子象と象使いとその小僧に出会った記念。ではなく旅行の記念に。

その象使いが小僧ではなくて子象の方に、芸の合間に人影で額をつけていたりしたが、そうかあれが象と会話している姿なのかとこの作品を観て理解した。

しかし、トキワには泣かされることは予定内だったので、これはこれで良いのだが、驚いたのは、柳楽優弥という俳優に関してである。筆者は「誰も知らない」は観ていないので、カンヌを感嘆させた演技というのは知らない。だが、この作品の彼の演技でそれは十分理解できた。彼はどうして「素」で演技が出来るのだろうか? よく舞台から映画に転向した俳優が、オーバーアクションだと演出家に注意され、「自然体」を強調されるのはこの世界の常であるが、柳楽くんはまったく「自然体」である。しかも、台詞が自分のものになっている。多分、彼は台詞が入るのも早いのだろうと推測するし、ちょっとの台詞違いでも誰も気づかなかったりするだろう。これがホントの「誰も知らない」、なんて冗談ではなく、彼の持つ天性の役者勘に感服してしまった。不思議と、トキワさんも高橋氏も、ある意味くさーい相島氏も、彼と絡んでいるときは、芝居が自然体だった。武田鉄矢は象を仕込んだことでなく、彼の演技を褒め称えるべきだとつっこんだりしてみた。

さらにいえば、この作品にはもうひとつ「真の家族とは何か」を考えさせられる。少年の家庭もしかり、象使いとして集団生活している姿もしかり。そして何より、芸を演じる象たちは、母親象から親離れさせられ、海をわたり異国の地に訪れ、更には破産したサーカス団や、移転した動物園などから寄せ集めにされた「偽りの家族」(そう、ここが「誰も知らない」の設定に似ている)である。であるが、芸をしているときの象たちは「真の家族」以上の信頼感と連帯感を漂わせている、と、これは柳楽くんの作品中台詞の受け売りであるが、この作品の主題が、最後のシーンまでその緊張感を引っ張り続けた構成は見事であった。これが、トキワに泣かされると分かっていて、さらに張り巡らせた防御シールドを突き破って号泣した所以である。

「涙は心の汗だ」なんて青春番組があったが、連日真夏日が続く今日この頃に、心の汗をありったけだすには最高の作品である。

最後に我が家では「象になった少年」と半分ふざけて間違いていたが、あながち間違いではなかったことを付加させて頂く。


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by turtoone | 2005-08-06 23:26 | 映画(は行)
b0046687_143029.jpgバットマンシリーズの3作目は、大きなキャスティングの変更があった。バットマン自身であるこの変更に、これだけの人気シリーズの配役変更というのを結構簡単にやってしまうという感覚には正直驚きだ。全く関係ないかもしれないが、MLBと日本のプロ野球を比べると、FA制度が出来たとはいえ、略終身雇用と、もしくは一部の優秀な人材を札束で引っぱたくヘッドハンティングという感覚が強い日本と、シーズン中でも何処へでもあっさりを移籍をする大リーガーとのプロスポーツ文化の違いにはびっくりする。ハリウッドの感覚も分からないが、正直なところ、マイケル・キートンが何故降板したのかという理由すら今となっては覚えていない。更に言えば、ティム・バートンが監督から製作に周り、監督には、「セント・エルモス・ファイアー」のジョエル・シューマカーが担当した。彼の監督作品としては、この作品の前まででは直前の「依頼人」が、もっともインパクトのある作品だと思ったし、当時はその勢いもあって監督を引き受けたのかとも思っていた。バットマンを引き継いだヴァル・キルマーは、筆者が「映画作品で最高の敵役」と太鼓判を押す、「トップ・ガン」のアイスマンである。この印象が強すぎて(「ウィロー」等で正義の役もやっているが)どうも、バットマンには遠いのではないかと思っていたら、それ以外の配役が実に見事であった。トミー・リー・ジョーンズ、ジム・キャリーである。しかし、上には上がいるというか、ヴァル・キルマーが「正義」に見えてしまうから恐ろしい。そして、敵役のにくにくしさだけでなく、演技的にも、正義の味方をこのふたりが見事に支えた点も高い評価に繋がると思う。

この作品では、今まで少しずつ描いてきた、バットマンの精神面を本格的に分析・研究しようとする輩が現れる。直接的な立場でニコール・キッドマン演ずるチェイス博士と、間接的な部分でクリス・オドネル演じるロビンである。(尤も、この作品にニコールが出演すると最初に聞いたとき、シリーズで未登場のキャラだとバット・ガールかポイズンだと思っていたので)ニコールのキャスティングは正直、驚いた。そして、大方の予想通り、それは精神分析というよりも、単純に男女の恋愛感情へと走る。ストーリーとしてはその方が面白いから、これはこれで構わない。寧ろ、復讐をあせるロビンの方に、バットマンが自身の生い立ちを重ね合わせていくところで間接的に、スーパーヒーローの心理描写が解き明かされていく手法を取った部分は、過去2作と違い斬新的な試みで興味深かった。もしかしたら、この心理描写効果を側面から見るために、ティム・バートンが監督から製作に回ったのではないかという余計な憶測までしてしまう。

監督が変わったことでもうひとつ大きな変更は、ゴッサム・シティーである。リターンズ迄はダークな悪の巣窟という世界観が強かったが、今回は然程そのイメージが脱しただけでなく、全体的に住みよい都市に変わっている。ダウンタウンには様々な日常の欲望がひしめいているシーンをわざわざ織り込んでいるのも、この2作品の間に、正義の味方が相当この町を浄化しているという含みを受けとることが出来る。同時にこのゴッサム・シティーがアカデミックになったことと、ブルースの恋愛が成就しそう(それは毎回そうなのであるが・・・)な部分で、この作品は一気に娯楽作品へと変貌した。これも作品の狙いだとしたらやはり、ティム・バートンとは類い稀な才能である。

タイトルが「フォーエヴァー」と言っているので、これで終わりなのかと思ったら、次回作があった。しかし、その作品には既にティム・バートンが全く絡んでいない。「フォーエヴァー」はティムに対してだったのであろうか?

余談だが、この作品にドリュー・バリモアが出ていたなんて、今回久々に自宅鑑賞するまで気がつかなかった・・・。


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by turtoone | 2005-08-05 15:44 | 映画(は行)

亡国のイージス

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今年は本当に良く邦画を鑑賞していると思う。逆に言うと、洋画に期待外れが多くなって来ているのかもしれない。かといって、邦画が然程「期待通り」であったという訳ではないが。ただ、出来、不出来という範疇から考えると、洋画の場合は、「字幕スーパー」という余計な視覚を使っている分だけ、外れた作品を観た後の疲れは洋画の方が大きい。おっと、こんな書き出しだと、まるでこの作品が期待外れだった様ではないか??? というか、原作を未読のまま鑑賞に入った筆者は、鑑賞後映画館から隣接している書店に直行したくらいである。

福井晴敏氏の作品は、今年3作も映画化されている。筆者が氏を存じ上げたのは、「終戦のローレライ」である。文体から感じたのはもっと年上の作家だと思ったこと。ファンには失礼であるが筆者の好みではない。そういう理由で今春封切られた「ローレライ」は映画鑑賞を見送っていた。本作鑑賞後に書店に駆け込んだのもそんな理由もある。しかし、驚いたのは原作の長いこと。更に言えば、どこからが映画の原作になったのかが分からないまま、諦めて本を閉じた。(しかし、相当読んだけど、映画よりずっと面白かった。余談であるが筆者の特技のひとつに速読がある。殆どは立ち読みできる)

そもそもこの作品は、期待ランキングも高かったが、それは原作というより主役級3人が筆者と同世代でもあり且つ、邦画界を背負って立つ3人の共演だからである。真田広之は殆どテレビに出ることはないが、佐藤浩市と中井貴一はNHK大河の常連でもあるのでスクリーン以外で観る事も多い。特にこのふたり、佐藤は昨年の芹沢鴨、中井は今年の源頼朝等の演技で分る通り、演技力では世代を問わず群を抜いている。そういう期待が先んじていたので、やはり鑑賞の中心はその部分になっていたが、にも係わらず(多分・・・)原作に対してのこの大幅な割愛は、映画が進むにつれて気になりだし、引いては全くスクリーンに没頭できなくなってしまう程、「げ、げ、原作はどうなのだろう・・・。この部分は原作にあるんじゃないか? この人って本当はあの人と関係があるんじゃないのか?」という謎・なぞ・ナゾのオンパレードになってしまった。そう、重要な部分の説明不足がとてつもなく多過ぎたのであった。

それと、国家論である。佐藤浩市の台詞に「国家とは?」という問いかけがあるが、これは大事な視点である。以前、米テレビドラマで大統領補佐官が「所詮、国民の大半は、暖かい寝床と、安いガソリン、それに良く当る天気予報があれば満足している連中だ。彼等に国家という意識はない」という台詞があったが、これは名台詞だと思うし、実際に国家という枠組みで物を考える一般市民など皆無に近い。そして、こういう台詞が出てくるシチュエーションというのは、「国家存亡の危機」という必要条件に対しであれば大変分りやすい表現である。国家の危機という状況は、19世紀以降、残念ながら「戦争」という状況下を前提にしないと考えられなくなった。逆の言い方をすれば国家というのは、戦争の果てに出来上がった欧米の勝手な「線引き」であるし、その中に住んでいる民族がその線引きで国家を考えろというのが所詮無理な理屈なのであろう。更に言えばその「線引き」にすら該当しない、わが島国に「国家論」などは初めから存在しないも同然なのである。佐藤浩市は前述の大河ドラマ芹沢鴨役でも、新撰組筆頭局長として、当時尊皇攘夷に揺れていた幕末の世相に対して「国家」という言葉は用いなかったが、同じ趣旨の台詞を吐いている。そう、この国が国家を意識するためには、この時代まで遡らないと不可能なのである。

戦後60年の今年、「平和呆け」が叫ばれて既に20年以上、最早この言葉すら死語である。そのタイミングにこの作品が公開されたのだとしたら、それは作品化の段階の何処かで大きな間違いが生じたに違いない。少なくとも、この密室会議に列席していない国民は、イージスの砲弾が首都に向いているかどうかでなく、その艦船の中に自分の家族が乗っているか否かで、対岸の火事という程度にしか思えない民族だからである。そう、国家とは、国の家族であるという本質を物心ついた時分から教育されていない国民に、必然的にその認識は生まれることは無い。つまりは、そこに主題を於いてしまった本作品の映像表現からは、危機感は愚か、その感動も伝わることはわかったのである。

第二次世界大戦後60年、ドイツは「ヒトラー 最後の12日間」で、戦争責任を改めて謝罪し主張した。この国も必要なのは悪戯な謝罪でなく、平和理念に基づいた世界への方向性だと思うのだが?


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by turtoone | 2005-08-04 21:17 | 映画(は行)
b0046687_22464876.jpgバットマン・シリーズの第2弾は、前作「バットマン」よりも一段と登場人物の内面に踏み込んだ作品である。特に、主人公である、バットマン、及びブルース・ウェインの人物像をより明確に描写した。結果論かも知れないが、それでも、主人公の全貌を明らかにしなかった点は、次作への継承も含まれているという様に公開当時予想された人も多かったと思う。筆者に関していえば、この作品の敵キャラである、ペンギン(ダニー・デヴィート)には出生の秘密から現代に至るまでの悲しいおいたちと、この人物の成り立ちが良く分かるストーリー構成になっている一方で、バットマンに関しては、まだ、そのあたりを小出しにしている点が大変気になり、前述の「次回作」への期待となったのである。又、ペンギンと蝙蝠という「鳥人間」同士の比較も大変面白い。ペンギンの方は生まれながらにしてその風貌がペンギンであったがために、親に捨てられ、地底で人目を阻んで暮らすペンギンに育てられるという「狼少年」的な性を背負う。一方の蝙蝠は、まだこの作品では何故蝙蝠なのかは明らかにされていないが、(「バットマン・ビギンズ」迄おあずけ)実際には鼠でありながら、こちらも本物は人目のない夜を中心に、空を飛ぶことから、鼠よりも鳥に近い生物とされている蝙蝠のスーツに身を隠した悲しい男の性を描いている。この対比的なキャラの存立はとても興味深い。

更に、キャット・ウーマンである。1992年の公開時点で「グリース2」を観損ねていた筆者にとって、ミシェル・ファイファーは勿論、初めての遭遇である。このキャット・ウーマンはその後映画界における「猫女」の総称になるくらい見事でセクシーでインパクトの強い存在であった。観るところこのキャット・ウーマンのコスチュームからすると、「黒猫」である。蝙蝠にしても、ペンギンにしても黒猫にしても、共通点は「黒色」。ティム・バートンはゴッサム・シティーの「暗=黒」の部分に敢えて、黒いキャラばかりを登場させた。但し、ベンギンは「白い腹」を持っているだけに、如何にもこの都市の様々な汚れた部分で生い立ちと共に黒く染まり、僅かに白い部分(これが良心なのか、それとも生を受けた時には純粋無垢であった名残りなのかは分からないが・・・)に希望を見出すことが出来るのだが、黒猫は再生した存在であるし、蝙蝠は持って生まれたのか、それとも不幸な出来事から、現社会の光明から遮断をしているのかは不明だが、いずれにしても黒い部分が多く、この作品の中では何れも「処置無し」を表現していると思わせる点も興味深い。この作品の中で最も悪役とされているペンギンよりも、精神的根本的に問題のあるキャラは実はこっちだと言わんばかりである。それが証拠に、この主要キャラに比較すると、例えば、サーカスを捩った盗賊団等はとてもカラフルである。そして、前作もそうであったが、スターウォーズに毎回色々なエイリアンが登場するのと同じくらい、このゴッサム・シティーの「悪キャラ」たちは中々興味深い衣装と格好をした連中である。

思うに、ティム・パートンも「色」表現を大事にする監督である。この作品もまず舞台であるゴッサム・シティーの景観は前作同様に、その中で主要3人の心情を描いていく。その中にあって、やはりゴッサムと統一した色使いをすることによって、一段と3人の心境を描写した冒険は拍手に値する。

マイケル・キートンは、残念ながら、この作品でバットマンを降りることになる。覆面をまとっているバットマンはともかくも、ブルース役には、後の3人の誰よりも適任だけに残念だった。しかし、彼の降板の本当の理由は不明だが、第3作目のブルースの役どころは残念ながら彼では無理だったというのも、結果論であるが、そう思う。その辺りのことについては、続編のレビューのところで触れたいと思う。

前作で随分この世界観に慣れたから、然程、斬新さは感じなかったが、シリーズ2作目としては価値のある及第点に達していると評価したい。


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by turtoone | 2005-08-03 23:38 | 映画(は行)
b0046687_2113435.jpg筆者はひとつ勘違いしていたのかも知れないが、「バットマン・ビギンズ」は、このシリーズの第5作という観点で鑑賞し、レビューも書いてしまったが、どうも関係者や専門家の間でもこの見解は分かれてしまっている様だ。勿論、配給はWBだから、シリーズと言えば一連のシリーズなのかも知れない。しかし、新シリーズという言い方をすれば、一応、「ビギンズ」は、これまでに無い新しいバットマンの側面を描写した。精神的なバットマンという人格の構築である。バットマンは人間であること。バットマンスーツを着用することによって特別な才能や技術を身につけられる訳ではないこと。つまり、レビューでも書いたが、バットマンの能力は、SWシリーズの根底にある「フォース」に類似している。

さて、この「バットマン」は(旧シリーズという言い方をしたくはないが・・・)それまでのアメコミや「バットマン・ザ・ムービー」とは全く違う、斬新な部分を見せてくれた。ひとつはティム・パートンの数々のアイデア、もうひとつは、それまでの作品に描かれていなかったゴッサム・シティーの世界観である。筆者の場合は余りにもこの二つが強烈で斬新だったために、暫くの間(というか、つい最近まで)この二つは常に同居してしまっていた。つまりは、ゴッサムとティムの世界観を同一視してしまったことに、ティムバートン作品を観る中に大きな勘違いを犯してしまった。ここのところでやっとそれを修正できたので、改めて彼の金字塔とも言える「バットマン・シリーズ」を見直したいと思ったのである。

この作品が、特に印象深いのは、主人公のバットマンにも、そして、敵役であるジョーカーにも共通する「生」という悩みである。これはこの作品だけでになく、ティムが獲得した3作には共通している。それまでの多くのヒーロー物は、主役の「悩み」を描かれることはあっても、悪役には殆ど描かれなかった。勿論そういう悪役になっていく経緯は語られたとしても、そこに、悪役の持つ「本音」は無視されて来た。一方で、ヒーローも色々な労苦は描かれたとしても、心の葛藤を深く追求されることはなかった。バットマンには、初めてそういう一般人との類似点を出すことによって、スーパーヒーローとの距離感を明確に出したことろが以降のすべてのヒーローものの作品にプラス要素として、製作側にみ鑑賞側にも与えた功績は大きいといえる。

そして、ティムの「遊び」も魅力的だ。この作品では、ジョーカーが金をばら撒くパレードをするシーンがあるが、そのシーンの発想は個人的に好きである。音楽も軽くて良い。この作品の中でも唯一、映画の後半に向けて中弛みになるところをグッと押さえ、終盤に繋げる良いシーンにしている。見事である。

要するに、この「バットマン」がこういうコンセプトで製作され、成功をしなければ、「バットマン・ビギンズ」は企画もされなかったことを考えると、やはり、同じシリーズ作品として考えて良いのかもしれない。


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by turtoone | 2005-08-02 22:16 | 映画(は行)

ヒトラー 最期の12日間

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待望の上映である。この作品で語られていることが事実だとしたら、20世紀はもしかしたら本当に人類滅亡の危機と背中合わせにあったと言えるし、実は、今こうしている内にもその危機は継続していると言えないか。大変「重い」映画鑑賞であったと同時に、これほど先の大戦を映画作品として踏み込んだ物は今までになかったというのが結論である。筆者の鑑賞記としては、正直、これ以上の言葉の羅列は無意味な気がしてならない。

作品の見所としては、大きく分けて2つあり、ひとつは、この作品の中で述べられている事実である。作品化にあたっては、第二次世界大戦後60年(日本では60年というのは還暦であるが、ドイツでは何かあるのかなぁ)という節目に向けて、政府としてこの事業を後援した。要するに、長い沈黙を破ったドイツのヒトラーに関する「公式見解」である。そして、そのヒトラーの事実とは、正直筆者が考えていた範疇には全く収まりきれない、人間の良心の欠片もない、人類の「敵」であったことが150分にわたり述べられている。(勿論、この辺りは作品の受け止め方にもよるのであるが、性善説の筆者としては全編に亘りショッキングであった)。そして、これはフィクションではなく、数々の貴重な歴史証言の集大成であることから、言い換えれば、真実というものがこれほど重く、これほど大きく圧し掛かって来るという経験を、筆者にとっては他の映画鑑賞からは得られなかった。敢えていえば、「シンドラーのリスト」以来であり、しかしその重さは比較にならないほど本作品の方が重い。

もうひとつの見所は、ブルーノ・ガンツをはじめとした、ドイツ映画界の俳優陣である。特にヒトラー役ブルーノの演技は背格好だけでなく、ヒトラーが生き返ったと同じ恐怖と戦慄を感じさせる。そしてヒトラー自身の中に巣作って居座る「悪魔」の存在をもののみごとに演じきった。彼をはじめ、ナチスという過去の祖国の過ちの映像化に勇気をもって望んだ俳優陣に大きな拍手を送りたい。勿論、それは製作陣も同じである。昨年「パッション」というやはり衝撃的な映画鑑賞があったが、あのときは人間の持つ尋常でない恐ろしい部分を嫌というほど見せられたが、今回は、その逆で、自己に対する非難だけでなく、何故この独裁者は考えを変えられないのか?同時に、周りに人間は何も出来ないのか? かくいう自分がこの場に居て、この独裁者に物が申せるのかという自問自答を鑑賞しながら続けていた。

翻って、日本は同じ敗戦国であるが、この作品を見る限り、国民を守ったという点に関して言えば、ドイツに比べてわが国の対応は間違いでなかったと言える。但し、戦後処理に関しては言えば、ドイツはこれだけの事実を知っていたからこそ、他の国、他の民族に対しての戦争責任を果たしてきたのだと痛感した。そして、それは長い年月、世界の中心であったヨーロッパという地域における、中世以降のドイツ地方のすべての歴史を背負ってたったという部分で考えれば、残念ながら極東の島国日本とは、その責任の重みも受け止めも格段の違いがあることに、この鑑賞で理解できた。冒頭でも述べたが、もしヒトラーが核を所持していたら、1945年で人類の歴史は停止してしまったのであるし、同時に独裁者という観点から考えると、その危機は21世紀も続いている。

この作品が、悪戯に「証言集」になることがなく、あくまでも「ドラマ」に拘った点を高く評価する。こういう内容はついついドキュメントタッチになってしまう傾向があるが、敢えてそれを断ち切った製作判断と脚本を賞賛したい。又、悪戯に高技術の戦闘シーンが無くても、観客の五感と創造力に訴えて映像効果を高めたことも高く評価する。「事実は小説よりも奇なり」というが、今夏に限って言えば「真実はSFよりも感動する」というところであろうか。

シネマライズも平日なのに満員だった。(レディーズデイ料金も無いのに女性も多かった)。上映直後に「オブラートで包んだアメリカ映画と違って見事」と賞賛の声を上げた老紳士が居たが、同感であるが故に複雑だった。

筆者的には必見である。未採点だが、A作品であることは間違いない。


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by turtoone | 2005-07-14 10:22 | 映画(は行)

フォーガットン

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なんでもありっていうのは、この作品に相応しい言葉? 実は、当初余り見る予定もなかったし、観たとしてもレビューにする積りは全くなかったのだが、結構プロガーの皆々様がご覧になっているようだし、実際に筆者も観にいって、いやいやこの作品って何度観ても多分、絶対理解できないだろうっていう感想をもったので、その記念(どんな記念だ・・・?)にここにアップすることにした。

というか、この作品が「有り」だとしたら、映画って本当に何をやってもいいんだなと。その「説明責任」(どこかの国家や企業みたいな)を監督をはじめ作品関係者に伺いたい。筆者は英語には疎いので、あくまでも「日本語訳」に関して指摘させていただくが、「彼ら」とは誰等なのか、「誘拐でなくて拉致」の「拉致」ってなんなのか。結局そういう部分を完結させないとこの作品自体は成り立たない。もし、それをうやむやにしてしまうのであれば、映画という「作り手」と「鑑賞者」の間に最初から了解されている「信頼関係」が成立しないのではないか。それを自身と、製作者たちと、鑑賞者にも警鐘を鳴らしている作品である。確かに、色々作品があっていい。「シックス・センス」だって作品の中で説明しきれなかった部分はたくさんあった。「2001年宇宙の旅」だって全員が全員、キューブリックの主題を理解できたとは思えなく、しかも補足説明のための続編まで制作して更に墓穴を掘っている。だが、この作品と違い、「誰が」「何に」対してという基本の部分はきちんと作品内で定義づけをされている。国家権力の力が及ばない部分は構わない。しかし、それと、「飛ぶ」のと何の関係があるのか? ラストシーン(これで救われてはいるのであるが)がああなるのであれば、何のためのストーリーだったのか? これは本当に「説明責任」を要する。筆者は、これを良しとしてはいけないと思う。

但し、この作品は出演陣で唯一救われた。勿論、ジュリアン・ムーアである。同世代として彼女は「好き・嫌い」というよりも、何か(大女優に失礼だが・・・)級友みたいな感覚である。それと、彼女にはこれまで、「作品選びに失敗なし」という定説がある。ということは、この作品に対する評価は、筆者の方が間違えているのだろうか?それと、ゲイリー・シニーズ。「ミッション・トゥー・マーズ」とか、色々たくさん出演があるものの、作品の中での存在感という観点からすると、「フォレスト・ガンプ」以来で、こんなにこの人を感じたことは長いことなかった。

残念ながら、出演者で救われる映画作品。その代表作になってしまった。因みに監督のジョセフ・ルーベンは、マコーレ・カルキンの「危険な遊び」を撮った人だが、なんで・・・?


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by turtoone | 2005-07-02 08:23 | 映画(は行)

バットマン ビギンズ

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「バットマン」というシリーズは、続き物の様でもあり、又一方でシリーズ物でない両面を持ち合わせている。それには色々な要因があって、例えば、監督も途中で変わったり、主人公のバットマンを演ずる俳優が次々に交代しているという部分も大きい。しかし、今回特に大きな変更としては、このシリーズずっと支えてきた、アルフレッド役が変わってしまったことが大きい。これが、今までのシリーズに対してひとつ重要な境界線を引いたことがこの「バットマン・ビギンズ」という作品をクローズ・アップさせた重要な切り札となった。マイケル・ガフは、1989年の「バットマン」以来、前作まで、ずっとウェイン家の執事としてブルースを支えていた最も重要な人物だ。実は、3作目の「バットマン・フォーエバー」等でも描かれている様に、今までにもブルース出生の秘密や、両親の悲劇は、何度となく取り上げられて来たが、あくまでも、ブルースの夢や回想の1シーンであって、どれも決定的な物ではなかった。そしてその出生、生い立ちの秘密を当然全部把握している人物として、このアルフレッド役は、根底でこのシリーズを支えてきた功労者である。その人物を「一掃」したことにより、この作品は、根本的にこれまでのしがらみを払拭する「新解釈」として登場した、全く別物の作品というコンセプトを映画ファンに意識付けすることに見事に成功したといえよう。したがってこの事前情報がプレスを通して正式に流出されたときには、他の「シリーズ物」と違い、筆者もバットマンの過去の作品を復習することは一度もなかった。そう、こちらも予備知識(といったって、スターウォーズ同様、このシリーズは過去作品の隅々まで知り尽くしているが・・・)を携えずにこの上映に気合を入れて望んだ。

まずは本編の感想からいうと、明らかに撮影技術の向上とその技術を惜しむことなく随所に生かしていることから、今までに無い屈強な主人公の誕生となった。特に、東洋武術を前向きに取り入れていることで、付帯的に主人公に精神力が芽生えさせた点を強調させられたところの効果は大きかった。又翻って、この作品は「ビギンズ」というタイトルが示す通り、バットマン誕生秘話も含んでいることから、今まで見たバットマンにもこの精神力が培っているのかとフィードバックする効果も筆者的には含まれていた。次にゴッサム・シティーの世界観については、どうしてもティム・バートンの映像に取り付かれてしまっているが、ティム監督の3作品には、ゴッサムという街が近未来的に感じられた物を、この作品では現代に置き換えた構図を作り上げた。つまりこの作品はファンタジーであると同時に、実際に現代の病巣を風刺した隠喩法作品であるという部分を強調したのである。さらに言えば、バットマンが武者修行をしていく過程での精神的なベースは、スターウォーズの「フォース」のそれと類似していて、米教育事情における知力鍛錬ブームを裏付けているとも言うよう。いずれにしても、これほどスーパーヒーローの内面の奥底までを掘り下げた作品というのは過去に例が無い。

もうひとつは、この作品が必要以上に過去の「バットマン」、特に第一作に忠実な点は歴史を証明し再構築する作業という観点から見ると大変興味深い。これも、やはり前述のスターウォーズの試みと共通するものがあり、既に出ている「結果」に対して、その検証を導くプロセスという考え方を論証するという方式を、奇しくもハリウッドの超大作が取り入れたという事実については興味津々である。これらは、21世紀に人類が改めて自らを問い、自らを裁き、自らを生成発展させるために最重要項目なのではないかと考えるのである。

そして、「バットマン」シリーズの色々スタッフやキャストが色々と代わって行く中、「スターウォーズ」の様にルーカスという生涯をこの作品に捧げた大黒柱の無い中で、単にアメコミの域を出てこの一大事業に現在でも取り組んでいることのスピリットに深い感銘を覚えるのである。
取分け、ワーナーブラザーズ社と、制作のベンジャミン・メルニカとマイケル・E・ウスラン、それにバットマンの生みの親である、故ボブ・ケインの3人の偉業に大きな拍手を送りたい。


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by turtoone | 2005-06-26 00:57 | 映画(は行)