グーグーだって猫である
2008年 09月 15日
この作品はタイトルに興味があった。「グーグーだって」の「だって」である。「だって」という言葉は「ダトテ」の転換語で「○○でさえも」というのが正しい使い方だ。また、接続語として使用する場合には「そうではあるが・・・」、「そうだとしても・・・」という意味がある。つまりはグーグーではなく、それ以前に何かが存在するのであるが、その後に続く「猫である」という言葉には色々な想像ができる。素直に「猫」という代名詞として捉える意外に、例えば、漱石の韻を踏んでいるという考え方もできるし、猫は他の猫という考え、或いは擬人化した猫という考えも成り立つ。つまりは色々な解釈の出来る表題であるように、この映画作品ではその表題の通り色々な捉え方のできる作品であった。しかし、逆にそれで主題を見失ってしまう要素も沢山あったのも事実。例えば、吉祥寺の町をとても丁寧に紹介していて良かった反面、そこに引きずられてしまう危険もあったし、ナレーションがアシスタントのナオミ(上野樹里)と麻子先生(小泉今日子)の二本立てのために(更に言えば英会話スクール講師も部分的だがナレーターの一人)、二人のストーリーが猫との関係とは別次元で進行していまうというところ。この辺りは主題を見失う要素となってしまった。つまりは、結局麻子先生に訪れたアクシデントって、サバとグーグーに次々に人間のエゴで犯した罪の報いだっていうところが主題として理解してよいのか否かが不明だし、もしそうでないのならどうしてそういうストーリー展開にしたのかも理解できなかった。なので、この辺りはタイトルの「だって」の含みがどういう意図なんだろうかが分からないと主題が映画作品だけでは見えてこなかった。但し、原作を読む予定はないので謎にしておいても良いかなぁと思う。そんなことはないが、もし、どうしても猫を飼わなければならない環境になったときに読んでみようかと思う。
但し、猫が余り好きでなくて、また、タイトルや主題が良く分からなくても、映画作品としては結構楽しめたのは、細野晴臣の音楽に寄るところも大きい。あと、上野樹里だろうか・・・。映画出演が多いだけに、銀幕での存在感は大きい。ただ英会話講師の下りは頂けないし、意味が無い。それから青自は? 色々消化不良に終わった部分もあったが、これらをすべて「ダトテ」に集約させるのだとしたらコンセプトは面白いが構成には無理があった。
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by turtoone
| 2008-09-15 17:56
| 映画(か行)