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暫く療養と入院、更に手術をしまして映画ブログは更新を怠っておりました。作品は鑑賞してますので、徐々に復帰させていただきます。今後共、よろしくおねがいします。


by turtoone
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追悼、緒形拳

邦画のみならず、映画界の逸材が天寿をまっとうした。

追悼、緒形拳_b0046687_1524228.jpg筆者の中で、日本人俳優の中で最高の演技と役作りが出来る男優というのは、この緒形拳と高倉健しかいないと思う。緒形拳は、日本アカデミー賞においても、主演男優賞は、高倉健の4回に継ぐ、3回受賞している。これは確か三国連太郎と並んでいる筈だ。しかし、受賞作の中に「復讐するは我にあり」が入っていないが、これに関しては、第2回に「鬼畜」で受賞しており、2年連続になってしまうのを避けられ、結果「衝動殺人 息子よ」の若山富三郎が受賞したが、後年、高倉健が2年連続受賞したこともあり、この第3回のミスジャッジは、数ある日本アカデミー賞(尤もオスカーの名前を拝借しているだけで、この賞の権威、及び選考過程やそのレベルの低さ、退廃さにはなんの魅力も効力も感じないが・・・まだ、ブルーリボンの方が進歩的でましかな?)の首を傾げる選定の中でも可也重要な部分だ(今年が一番ひどかったのは言うまでもないが)。邦画が良くならないのは、こういう賞を選考する人たちが一番遅れていることであると確信する。映画ファンブログの批評の方がずっと質も高い。多分、自分でお金を払って映画鑑賞しているから当然だとも思うが。

緒形拳が銀幕を賑わしてた時代が、筆者も一番邦画を沢山みていたのだと思う。なかでも「楢山節考」、「復讐するは我にあり」、「鬼畜」、「火宅の人」、「北斎漫画」、「女衒」、「魚影の群れ」、「社葬」、「おろしや国酔夢譚」と作品を上げれば限がない。そして、これらの作品に敢えて順位をつけるのは難しいが、筆者の採点によると、Aランクにある「楢山節考」、「復讐するは我にあり」、「鬼畜」、「火宅の人」の順になるであろうか。この4作品は筆者の採点でもA作品に入っており邦画で4作品ひとりの俳優の作品が入っているというケースは他にない。採点云々を越えた凄い存在だったことは事実である。また同時に彼は、大河ドラマでも数々の印象的な役をこなしている。流石に「太閤記」、「源義経」は記憶にないが、「新平家物語」、「風と雲と虹と」、「黄金の日々」、「峠の群像」と、その後「太平記」以降の作品は準主役級となったが、印象的だったのはやはり大石内蔵助を演じた「峠の群像」、藤原純友も演じた「風と雲と虹と」、秀吉を演じた「黄金の日々」のベスト3である。そして、テレビといえば忘れてならないのが「必殺仕掛人」である。藤枝梅安シリーズは映画にもなり、藤田まこととの競演は結局スペシャル番組1回だけだったが、これも印象的なシリーズだった。更に、数々のテレビ番組ナレーションが全て良く、石坂浩二と並んで、俳優のナレーションは絶品であった。

緒形拳の功績は2枚目俳優でありながら、「性格俳優」というジャンルを日本で一番最初に確立した人である。いや、この言い方は正しくなく、彼の後には、彼に続く性格俳優が出ていないのも事実である。

緒形拳は日本映画界の至宝であった。このブログでは彼の出演作品を一度も取り上げたことがないが、追悼の意味も込めて、これから幾つか作品をきちんと見直してみようと思う。スパらしい作品を沢山残した緒形拳に改めて感謝と敬意を表する。



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# by turtoone | 2008-10-18 15:06 | 映画関連

容疑者χの献身

容疑者χの献身_b0046687_23564051.jpg

今年度の期待度ランキングには出なかったが、実は密かに今年一番期待していた作品かもしれない。そもそも昨年のテレビ放映中から映画化を前提としていたコンセプトに感銘していたので、気合いの入れ具合にこちらも久々に民放のドラマとしては全部見た。フジでは「踊る大捜査線」などもテレビ、及び映画で大ヒットしたが、最初から映画化は明言していなかったからそれを考えると斬新なコンセプトと同時に(映画の側から見れば)もの凄く金をかけたプロモーションであり、テレビを利用しているということは、そのプロモーション費用の殆どは自腹ではなくスポンサードされているということ。取り組み自体が斬新だし、フジ報道機関としては有能な論説も少なく一流ではないが、こういうメディアという面では柔軟性も高く賢い。そして福山。何か他人の気がしないと言ったら、本人並びにファンの方々に怒られる(既に家族に顰蹙をかっている)が、彼のことはデビュー当時から良く知っている。カラオケでも良く熱唱させて頂いている。この辺りを総合すると実は陰の期待度ナンバー1だったりしている。

ところでこの作品は、現代版「罪と罰」である。また、意外でもあり、そして感心したのは、テレビと違い「映画版」。というか映画の作りに徹していたところである。単なる小細工でなく、スクリーンを細かく観ていると湯川博士で無くても鑑賞者にも謎が解ける展開と見せ方、つまりはテレビのようなあっと驚く科学現象を使って解くのではなく、然程仕掛けの規模も大掛かりにせず、2時間という時間を上手く使って人間ドラマを作り上げた。この感覚もとても斬新であった。特に湯川と石神の人間性を前面に出しつつ、かといってそれを対比させるのでなく、二人の人生観を丁寧に描いたところは好感が持てた。特に、筆者においては前述したように、テレビ版が結構毎回派手で度肝も抜くようなトリックを巧みに操っていたことから、それをそのまま銀幕にスケールもアップして持ってくるのかと勝手に想像していたので、それが良い意味で裏切られたことは嬉しい。同時にテレビ版では、事件そのものの謎を解くのではなく、あくまでね湯川には事件の背景は誰がやったかではなく、そのトリックを科学的に証明することに徹していたが、終盤になってトリックだけでなく、事件の背景やその人間関係にも多少興味を持ち始めた湯川が現れて来ていたが、今回は、その湯川自身が「天才」と認める数学者が相手で、後半は、寧ろそのトリックよりも、以前の同級生で天才数学者石神という人間に興味を持ち、結果的にそれが、この完全犯罪を覆すヒントになったという構成が、テレビ版とも上手く連携しつつ、且つ、映画らしい作品を作り、同時にこの作品はこれだけで完結させたことは大変大きい。

また、そのためのキャスティングもよく、特に松雪の存在は大きかったし、レギュラーメンバーである、柴崎、北村のキャラはテレビよりも際立って見えた。そして今回作品の中心のふたり、福山と堤は前述したように言うまでもない。

筆者もそうであるが、確かに凄く大きなスケールのガリレオを期待していたが、そこを思いっきり裏切ってくれて、新しい人間ドラマに仕立ててくれたことは大きい。そして、願わくば、映画のシリーズとしてガリレオは定期的にこの路線で続けてくれると良いと思うのだが・・・。


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# by turtoone | 2008-10-05 23:57 | 映画(や行)

イキガミ

イキガミ_b0046687_2134748.jpg

この作品も原作はコミックらしい。今日本が世界に誇れる文化というのは、コミックとアニメとゲームの三つだということを本当に痛感する。同時に、文学とか美術とか音楽という芸術文化の基礎が底上げされずに、付帯的な文化の質だけが上がっていることに関して考えると、未来がどうなのかという点に関しては多少
心配な気がする。新しい文化の潮流であることには違いないのだが、基礎もまた重要で、その辺りが確立されていないと新しいものは生まれて来ないから。

「国家繁栄維持法」というネーミングも余り良くない(繁栄という言葉は維持するものではないから日本語的に少し可笑しい)法律が可決施行されるのは今世紀にあって、社会主義国はもとより、北朝鮮だって有り得ないだろうが、その辺りは原作者の一流の嘲笑だろう。要はそんな「形」はどうでも良いのであって、重要なことは生命の尊さを認識することが、長い歴史の中で人間ら根本から忘れ去れたものであり、同時にそれを回復することが世界平和に繋がる、基本的なことであるが、だから故、それは人類とか国家とかという大きな単位に課せられたものではなく、一個人と、個人の次に大きな集合体である、家族に課せられているというところがこの作品の根底にあるコンセプトであり、その総論のために、沢山の各論としての例を出している。実に良く考えられた内容であり、このコミック原作の土壌と展開には脱帽する。エンドロールで(連載中)とあるから、今もこの物語はショートストーリー的に色々な「イキガミ」のケースが示されていると思うが、湯川教授ではないが、実に興味深い(このレビューは次回予定)作品である。

今回映画作品で取り上げられた3話は、実際にコミックにあったものかどうかは知らないが、この3話共に実に良く出来た内容である。ストリートミュージシャンが最後に歌う歌。自分の選挙に息子ら届いたイキガミを利用する女性議員。そして、事故で失明した妹に最後の望みで角膜移植を願う兄。どれもが「精一杯生きようとしている人間」を表していて、しかし、なんらかの理由で社会から逸脱しつつある現実は、本人にも社会にも責任があると同時に、だからちょっとしたきっかけがあれば、それは変える事だって出来るのだと言っている。そのチャンスと対称軸に置かれる「厚生保健省」(ついでながらこのネーミングも少しおかしい。厚生と保健は同意語であるから行政の機関名としては不適当。敢えて言うのなら保健厚生か、省庁ではなく、委員会とかNPO・・・一例としては海外の機関で「保健省」としか和訳が無いこともあるが。まぁいいか)の存在が本来この法律の意図するところと正反対の恐怖を押し付けているところがブラックユーモアで面白い。しかも、この法律に対する罪が「思想犯」というのも可笑しく、最早、この厚生保健省なるものは、警察庁と同等の権限があるという、まさに自由主義国家には考えられない発想だ。だからこそ逆にこの物語のメッセージを伝える重要な役割になっている。

松田翔平の演技も良い。この作品は法律とか機関に捉われるのでなく、鑑賞者も人間にスポットを当てて欲しい。1000人の一人という確率は他人事ではないし、また「イキガミ」というオンも「生き神」を想像できて、また尚、面白いではないか。


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# by turtoone | 2008-10-04 23:08 | 映画(あ行)

20世紀少年

20世紀少年_b0046687_1554448.jpg

待望の鑑賞である。先週の三連休も含め、自宅近くのシネコンは映画作品の各シアターへの振り分けが大変下手だ。1000名入る会場から小さいのは150名程度だが、兎に角前から思っていたが割り振りが下手過ぎる。確かに住宅街にあり、また駅前にありというところで色々な鑑賞者の種類があるものの、だからシネコンなのであって、例えば、最新の興行ランキングなんか全く無視をしている。だから先週は「おくりびと」「パコ」は各回共売り切れ、「ポニョ」なんて未だに2スクリーン、しかも大きな会場を同時でやってて、片方はガラガラ。ランキングトップを独走中の本作品も今週になってやっと大きなスクリーンに戻った。しかし「ウォンテッド」が始まっているのと、同時に「アキレス」の入場予測を見誤った様で、そのお陰か、本作品はベストポジションでゆったり鑑賞できた。

この作品には二つの大きな期待があった。ひとつは主人公の境遇が同年代であること。もうひとつは邦画には珍しい3部作であること。同年代であることに関して言えば、それだけでなく、ケンヂとは随分ダブルことが多い。その筆頭はミュージシャンだったこと。筆者は80年代にまでグラムロックを引きずっていなかったし、ミュージシャンは皆27歳で死ぬなんてことは、言われてみればであって当時そんな意識をしていなかったが、日本の音楽シーンを考えるとあの時代にグラムをやるなんて全くの時代錯誤かよっぽど翔んでいるかのどちらか(そういえば「翔んでいる」なんて言葉は筆者の青春時代に流行った言葉だったような・・・)。ケンヂのその後(例えば安易にコンビニを始めた経緯)を考えると前者なのだが、「よげんの書」のことを考えると実は後者だったのかも知れないが、この種明かしは思いっきり次回作の主題になりそうだ。(この部分は筆者の思っていた通りの展開になりそうで思わずニンマリ・・・)。邦画の3部作というのも、これがとてつもないベストセラー(コミックは余り詳しくないのだが・・・)という訳ではないのに、それを60億円を掛けての制作という「気合」がとても気に入った。筆者における映画鑑賞って、偉そうなことを書いていても、時代設定とか気合とかで、もう相当良いところまで行ってしまうのだ。そして豪華キャストもそのひとつの要因だ。

唐沢大好き、常盤(生誕日が一緒、年は違うけど・・・)大好き、トヨエツ大好きだから、もうこの段階でこの作品はオッケーなのだが、今回はこの時代設定に沢山の拘りを見つけた。裸足で走る子っていたし、自転車の変速機ってそうそうあの場所についていたな。そして大阪万博の松下未来館の影響もあって「タイムカプセル」はあの当時、どこの学校でも流行っていたし、個人的にも実家の庭には、妹と当時の彼女と3人の宝物を色々埋めた(その後全面改築したので、多分掘り返されたと思うけど)。少年誌のノンブルもああだったという、基礎的なところに加え、同年代でないと見落としてしまうような細かい設定に迄生かされていたところが個人的には嬉しかった。実は欲を言えば、もっと時代的な部分で「音楽」に拘って欲しいと最初は思ったのだが、ケンヂが音楽を断念したという設定からのフラッシュバックだから、逆に音楽を最小限に留めたというところも作品のポリシーを感じられる。

一方で難点も多く、出演人物が多すぎたこと。主要7人の顔ぶれだけでも贅沢なのに、そこに関わってくる面々がカメオ出演も含めて豪華絢爛。逆にこの作品に出ていないと邦画の第一線にいないみたいな印象さえある。また、時代の場面切り替えが不自然に多すぎた。筆者は全く同年代だから年号がでなくともその時代を象徴するものがひとつでも出てくればすぐに自分の歴史と重ね合わることでその時代を把握できるが、そうでないと難しいと思う。特に、60~70年代というのは大変複雑な時代で、大阪万博のコンセプトが「人類の進歩と調和」だったように、すべての局面で日々変化・発展をしていた時代であり、現代とはそのスピードが違う。また、同時に日本人の生活基準というのが大きく変わっていった時代であり、この辺りは1年、2年違うだけで全然時代の背景となるもの、生活のベースとなる部分が違っている。一緒に観にいった次女がやはり分かりづらかったのが、ケンヂたち主人公の目線だったという。その部分に関しては納得する。ただ、この作品がハリウッド的でなく、邦画の新しい可能性を引き出す役割をしつつあることは認める。3部作を制作費という札束で作るのではなく、ある意味で日本現代史の表裏一体で捉え、未来に対しての負の財産も踏襲したテーマの表現は、大枚はたいただけで作れるものではない。少しだけだが、そのことを証明してくれた第1部であった。

ラストもすっきりしていた。少なくとも「LOTR」みたいに尻切れトンボではなかった点も、邦画らしいといえばその通りなのかもしれない。


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# by turtoone | 2008-09-21 15:19 | 映画(な行)

グーグーだって猫である

グーグーだって猫である_b0046687_17513498.jpg
以前、私が実家に居たときには犬を飼っていたが、現在の家族ではまず、猫を飼うことは未来永劫にない。理由は3つあり、長女が猫アレルギーであること、集合住宅なので基本的にペットが飼えないこと、そして3つ目に、私も家内も子供の頃にペットへの死別を体験している身としては、あの悲しみをもう二度と味わいたくないというのがあるだろう。最近の風潮としてペットを家族だと位置づける方々もいらっしゃるが、筆者は犬や猫はやはり「飼う」ものであって共棲しているとは思えない。犬が私の替わりに仕事をそてくれるか、猫がゴミを出してくれるのか? そう考えると、良い悪いは兎も角、日本の社会に於いて、犬や猫は人間の暮らしに迎合するほかはなく、それはもしかして犬や猫にとってはとても不幸なことなのかも知れない。私、というか実家で飼っていた柴犬は室外に犬小屋があり、長距離散歩もさせたが庭を我が物顔で走り回っていられたし、トイレだって自由(自分で後始末するしね・・・)。そこへ行くと室内で買われている犬猫は大変気の毒で仕方ない。親友が猫を飼っていた時期があったが、夜中になると室内を飛び回ったり、寝ている顔を舐められたり(でも親友の可愛がっている奴だから邪険にできなくて)つくづく自分は猫好きでなくて良かったと思ったことがある。その猫は親友が近くの公園に散歩に連れて行ってベンチでうたたねをしてしまったら、その間に姿をくらまして帰って来なかった。世田谷のお屋敷街なのできっと大きな邸宅に飼われて今頃は幸せな暮らしをしているのだろうと、そのとき本気でそう言っていた親友の発想を疑った。また、私も寒い冬に庭先でミュウミュウ泣いている猫が余りにも可愛そうだったので、冷蔵庫からミルクとパンの残りをあげたら喜んで食べた白い猫が、翌日、玄関先に鼠の死骸を置いていったのには驚いた。自らが幼少のとき猫を飼っていた父曰くは、この鼠は食事の御礼だという。猫の恩返しだったが、その鼠の死骸の始末も大変で、それ以来、猫の悲しい声が聴こえても、心を鬼にして絶対に食事を与えることはしていない。そんな訳で、どうも猫とは相性が良くないのである。

この作品はタイトルに興味があった。「グーグーだって」の「だって」である。「だって」という言葉は「ダトテ」の転換語で「○○でさえも」というのが正しい使い方だ。また、接続語として使用する場合には「そうではあるが・・・」、「そうだとしても・・・」という意味がある。つまりはグーグーではなく、それ以前に何かが存在するのであるが、その後に続く「猫である」という言葉には色々な想像ができる。素直に「猫」という代名詞として捉える意外に、例えば、漱石の韻を踏んでいるという考え方もできるし、猫は他の猫という考え、或いは擬人化した猫という考えも成り立つ。つまりは色々な解釈の出来る表題であるように、この映画作品ではその表題の通り色々な捉え方のできる作品であった。しかし、逆にそれで主題を見失ってしまう要素も沢山あったのも事実。例えば、吉祥寺の町をとても丁寧に紹介していて良かった反面、そこに引きずられてしまう危険もあったし、ナレーションがアシスタントのナオミ(上野樹里)と麻子先生(小泉今日子)の二本立てのために(更に言えば英会話スクール講師も部分的だがナレーターの一人)、二人のストーリーが猫との関係とは別次元で進行していまうというところ。この辺りは主題を見失う要素となってしまった。つまりは、結局麻子先生に訪れたアクシデントって、サバとグーグーに次々に人間のエゴで犯した罪の報いだっていうところが主題として理解してよいのか否かが不明だし、もしそうでないのならどうしてそういうストーリー展開にしたのかも理解できなかった。なので、この辺りはタイトルの「だって」の含みがどういう意図なんだろうかが分からないと主題が映画作品だけでは見えてこなかった。但し、原作を読む予定はないので謎にしておいても良いかなぁと思う。そんなことはないが、もし、どうしても猫を飼わなければならない環境になったときに読んでみようかと思う。

但し、猫が余り好きでなくて、また、タイトルや主題が良く分からなくても、映画作品としては結構楽しめたのは、細野晴臣の音楽に寄るところも大きい。あと、上野樹里だろうか・・・。映画出演が多いだけに、銀幕での存在感は大きい。ただ英会話講師の下りは頂けないし、意味が無い。それから青自は? 色々消化不良に終わった部分もあったが、これらをすべて「ダトテ」に集約させるのだとしたらコンセプトは面白いが構成には無理があった。


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# by turtoone | 2008-09-15 17:56 | 映画(か行)