暫く療養と入院、更に手術をしまして映画ブログは更新を怠っておりました。作品は鑑賞してますので、徐々に復帰させていただきます。今後共、よろしくおねがいします。


by turtoone
カレンダー
S M T W T F S
1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31

おくりびと

b0046687_17421529.jpg

この三連休忙しなく、映画鑑賞に使える時間は3日間共午前中だけであるが、近所のシネコンでなんと全ての上映会で「完売」状態なのがこの作品だけで、なぜだろうと思っていたらモントリオールでグランプリを受賞したのを忘れていた。さらに、中国でも三冠に輝いたらしい。最近、映画周辺の話題には疎いが、だからといって鑑賞に尾鰭が付くわけではない(オスカーやカンヌだと厳しく観てしまうが・・・)。筆者が観た会も老人ホームの慰問試写会みたいだった。

一般的に納棺師(因みにこの師? 日本語的には士ではないの。もっとも資格とかがあるわけではないからどちらでも良いが・・・)という職業を「おくりびと」と呼んでいるのかは不明だが、もしそうでないとしたら、この機会に「おくりびと」っていう呼称の方が暖かみがあって良いと思う。そして、それくらい尊厳と誇りを持った人間がこの職業に就いて欲しいと思う。筆者の様な中途半端な人間には成られてはいけない。身内の不幸も含め今まで何度も葬儀というものを経験しているが、葬儀屋さんの対応というのは区々、特に決まったものは何もないが、ただ、いつも関心するのは一見淡々と仕事をしている様で、死者に対する労わりの心遣いは親戚以上だと思える節もある。特に財産を沢山残して亡くなった祖母や外伯父の時は本当にそう思った。だからこの作品に関しては、とにかく余計な予備知識や作品中の推測、また、カメラワークやカット割、及び、音楽・美術・効果なんかに関してもなるべく捉われることなく、物語に没頭しようと思った。結論として、そうしたことがこの作品の最も良い鑑賞であるということは言うまでもない。

日本の風土にある死者への崇敬というものは、たとえばカンヌで「楢山節考」が絶賛された様に、外国人にとっては可也稀有な風習だと思う。それは基督教文化圏だけでなく、同じ仏教圏に於いても、日本の様に、葬儀の後も初七日、七七法要(四十九日)、一回忌から始まり、三、七、十三、十七、三十三、三十七回忌までおこなって、やっと成仏が完成する。死んだときその場で神にしてしまう基督教とは相容れない風習であろう。しかし、一方でこちらも「メルキアデス・エストラーダの三度の埋葬」の様な埋葬方法も受け入れなれない。カナダで絶賛されたのは、そんな死者への崇敬の念は本来、文化や宗教を超えたところにある物だという一種の提言なのかも知れない。特に「死に化粧」というのは知っていたが、この作品で山崎と本木が行っている納棺の準備は、所謂「儀式」の類ではなく、死者への感謝と尊敬の現われであり、本来は死に水を取るのと同じ、身内の人間が行わなければならないことであったにもかかわらず、前半で余が言っているように「隙間産業」だというところに風刺も込められている。また、山形だから死者が自宅の畳の上に横たわっているが、都会(というか東京)では全く考えられないことだ。人ひとりの生命というものがどんなに尊いものかというのは、こういう機会でもなければ分かり得ないし、同時に都会にそういう「現場」がなくなって来ていることの影響による将来に多大なる不安を感じるのは筆者だけではない筈だ。

作品は時には失笑をかいつつも全般に静かに流れるが、前述した山崎と本木の所作が素晴らしく、この映像を観るだけでも価値ある鑑賞だ。勿論、その所作だけでなく、息のあったコンビネーションは見事。また、キャスティングも良く、特に吉行、杉本は、この俳優を使っているというだけでどういう役柄なのかが殆ど分かる辺りは見事であるし、広末もこの作品鑑賞の中では(年代でなく立場として)最も鑑賞者に近いところにあるという複雑かつ難しい役柄をうまくこなしていた。この作品では、一見特徴のない彼女の役柄が最も難しい。

そしてこの物語を単に「死」ということだけで捉えてはいけない。笹野が「門」言っていたように、それは終わりではなく、先祖として、我々の存在のルーツとして立場が変わるだけである。自己の存在を肯定するには先祖を否定しては成り立たない。そして同時にそれはある意味で美しい所作のある日本人の民俗としての誇りという観点から「生命の尊厳」を見ることの出来る、与えられた機会なのだとは思わないか。筆者は少なくともカナダ人や中国人より、この点に関して理解ができるということについては、日本人に生まれたことを感謝するのである。

実は採点が難しい作品だ。今年の邦画ではダントツなのだが、ここ数年の秀作だと「ゆれる」と比較すると少し・・・、だからA作品にはならないかな。昨日の「パコ」が筆者の中ではこけた分、満足している。

しかし、冒頭に書いたような老人ホーム状態で、鼻はかむわ、ビニールはゴソゴソ煩い、携帯は鳴るで、昨日の乳飲み子上映会と変わらない場内だった。


公式サイト


allcinema ONLINEの作品ページ
goo映画の作品ページ


よろしかったら、こちらにご協力を。映画のブログも検索できます。
人気blogランキング


ついに、音楽のブログを立ち上げました。
まだ少ししか記事を書いていませんが・・・
「音楽は語るなかれ」


ついでながら姉妹ブログへもどうぞ
時事問題のブログ 「情報過多で悩むあなたに」
下町探索記 「東京の原景を探して」
ただの日記「turtoone主義」
[PR]
# by turtoone | 2008-09-14 17:49 | 映画(あ行)

パコと魔法の絵本

b0046687_213842.jpg

予告編や予告記事で作品を見たいと思ったが、予告編で判明できる以上の要素が何もなかった作品。邦画としてはここ数年ではかなり高い期待度であったが、結果として残念賞作品であった。

物語は良く出来ているし、出演人物のキャラ設定も整理されている。又、小さなヒロイン、アヤカウィルソンも、主役の役所広司のキャスティングも間違っていない。又、ストーリーテーラー阿部サダヲの設定も良い。この辺りの構成は映画としては優等生的である。更に言えば、出演人物のサイドストーリーの挿入もさりげなく、この辺りは元が舞台作品ダケに台本の設定の質の高さを感じ、いきなり映画の脚本を書いたらプロットは同じでもこんなに洗練されないという技巧を感じる。だのになぜ筆者的に残念賞なのかを記述する。

まず、作品が優等生過ぎる。特にこれだけ色々なキャラを立てた割には行き着くところはそこかよって言う部分。特に本編もだが、サイドストーリーの方が面白そうっていうのは論外。特にオカマの息子と、天才子役の成れの果てとそれに絡む看護婦の話は、そっちの方が絶対に面白そうで、それでは本筋から鑑賞者の興味を著しく外してしまう。残念だ。

それから、何処か寄せ集め的な設定、つまりはこの奇妙な医療施設の存在と、そこに、他の患者はともかくも大社長とパコが入棟している必然性が全く理解できない。大社長なら一流の医療機関に入る筈だし、それは今すぐにでも転院は可能。パコに至ってはそんな大事故でしかもこんなに特殊な(しかも事故による後天性疾患)病態なのだから国立の権威的脳疾患専門医が扱う患者である。そこをパロディだからで流してしまうのであれば、最初から作品化に値しない。パロディは現実があってのパロディであり、どうも日本の作品はそこを別次元で語ってしまうのが間違い。つまりは、だから悪い言い方をすれば、キャラ一人一人に「それ以上の意味がない」という様に感じてしまう。主軸二人がここにいる必然をきちんと描く事により、この施設の性格がはっきりし、翻って各々のキャラがもっと魅力的になる。ここに居ることに意義があることを説明市内限り、大社長のやな奴も、パコの悲劇も際立って来ないのである。この点も残念だ。

そして極めつけは美術。美術は酷かった。まず、映像に一貫した拘りがなさすぎる。この物語はある意味で空想が多い。だが明確に舞台と想像部を分けるという術を知らしめることができなかった。極端に言えば、冒頭の現代と、物語の舞台である過去の分け隔てすらもきちんと出来ていなかった。これは美術の基本的な色遣いに問題がある。だから冒頭の部分って結構取っ付きにくかった鑑賞者が多いと思うのは、ギャグのセンスもあるが、半分以上は美術の重たさに付いていかれないのが原因である。更にポリゴンの蛙を筆頭とした絵本場面の美術感覚もお粗末。ましてや、この医療施設の庭と待合室のセンスは最悪だ。多少、劇中劇の場面展開で救われるものの、やはり本質的に美術がよくないし、そこに引きずられる効果はすべて良くない。唯一、カエラの歌だけが救いだったが総じて音楽も平均的なものだった。結局はこれにより何処まで現実なのかの区別と区域が明確に伝わってこなかったのは、物語のテンポが最後まで上がってこなかったことに繋がってしまう。ティム・バートンを見習えとは言わないが、こういう作品の映像化は一貫した世界観が必要で、結局は「金をかけていないお粗末な美術」というところに終着してしまうのであるが。邦画故の悲しさである。

しかし筆者が観た回は、子供が多くて五月蝿かったな。信じられないことに、乳飲み子も居た。乳飲み子は連れて欲しくないし、映画館側もどうしてベビーカーを入れるのか。ここは託児所じゃないぞ!


公式サイト


allcinema ONLINEの作品ページ
goo映画の作品ページ


よろしかったら、こちらにご協力を。映画のブログも検索できます。
人気blogランキング


ついに、音楽のブログを立ち上げました。
まだ少ししか記事を書いていませんが・・・
「音楽は語るなかれ」


ついでながら姉妹ブログへもどうぞ
時事問題のブログ 「情報過多で悩むあなたに」
下町探索記 「東京の原景を探して」
ただの日記「turtoone主義」
[PR]
# by turtoone | 2008-09-13 21:12 | 映画(は行)
b0046687_18443023.jpg

自慢ではないが、ここ数年はテレビドラマというものを殆ど観ない。観ないというより観られないというのが正しく、ずっと続けて観ているのは「篤姫」くらいであり、また、民放ドラマでも最近録画も含めて全部見たのは「ガリレオ」、その前は「華麗なる一族」まで遡る。日本のドラマですらそうなのだからましてや他国のものになると本当に観る時間がない。DVDが出ているが借りて来てまで観ようという気力がなく、「24」や「プリズン・ブレイク」の様に買っては来たけど一度も観ていなくて、家内や娘たちの所有ソフトに化してしまうパターンが殆どだ。「SATC」も同様でずっと観たいと思いきや、実は、一度も観たことがなく、だからこの映画作品もかなり躊躇したが、不思議とこの作品に関しては知人の間でも「賛」が殆どだったので、筆者には合わなくてもという後悔を承知で鑑賞したが、そこそこ良かったので報告する。

大体女性4人組という設定は、男性からすると大変興味がある。事実、女性というのは3人以上揃うと上辺の付き合いはするが真の友情が育たないと勝手に解釈されているのが、過去に世界中で綴られて来た文芸作品の傾向だ。しかし、筆者も友人関係でもこんなに真の付き合いがある女4人組みというのは少ない。学生時代ならまだしも、社会に出て、仕事も違う、服の好みも食べ物も、男性の好みも違う女性が、通り一遍の会話だけで済んでいる関係なら兎も角も、こんなに深いつきあいをしている4人組にあったことがない。しかも、結婚前ならまだしも結婚して家庭を持つと更にその関係の維持は難しくなるものだ。だから偏見かもしれないが、こういうシティエーションは最初から無理なんだと思いきや、この作品を鑑賞してとてもよく理解できたことがある。

それは、まずニューヨークだから成り立つということ。この街は色々な意味で他のどこにも無い都市である。仕事や生活の価値観が違う。しかも、この4人は所謂セレブであるから、土曜日の午前中9時くらいからテレビの情報番組を見ている国の人種とは違うということだ。つまり友情という価値観が少し違うのである。筆者は幸いながら、この4人の出会いを知らないし、今までの友情の経緯も知らない。知らないから幸いしていて、恐らくテレビ編を観ていたら、細かいところで突っ込んでしまったであろう。しかし、NYでは仕方ないよねってところがまず、この物語の舞台として存在していることにこの4人の関係を全く不思議に思わないところが優先したと思う。また、もう一点は、20年くらい前から言われていた「女性の時代」という言葉が、漸く定着し一般的になってきたのだと思う。それは、ニューヨークだけでなく、全世界的ことなのだ。日本でも女性の結婚願望が低下し、仕事や趣味に生きる女性が増えてきた。そして20年前はそれが、勝手な男性側の価値観から語られていたのが、今はそんなことを言い出したら時代錯誤で、寧ろ、女性の生き方を手本とする男性も多くなって来ている。大事なことは、男性だから女性だからでは無いということである。前述した、「結婚したら付き合いが壊れる」というのは、寧ろ男性の方が増えたと思える節もある。要するに、男性4人組っていうのも、昔に比べて現在は随分少なくなって来ているのは事実である。

この作品が良かったのは、軸にキャリーを置いて、彼女の目線から他の3人を描いたこと。テレビを見ていないのでそれがこの作品だけかどうかは分からないが、確かにそのせいで説明の台詞が多くなってしまったことは残念だが、テレビを見ていない筆者ですら「総決算」的に観ているだからその辺りは了承できる範疇である。また、一番最新のニューヨークを見事に紹介してくれている。ウェディング・ドレスから「VOGUE」取材の下りになり、えっこんな事を望んでいるのって鑑賞者の誰しもが思い、結果次の展開はその通りになる、鑑賞者に先をよませてくれてそこにはめ込む。この辺りの「小技」はやはりテレビの域を脱していないなって笑ってしまうのだが、バックにニューヨークって凄い大きな見方がついているから、そんなことよりもスクリーンの隅から隅までをどこも見落とせないぞっていう期待感に次の瞬間には変わっている。不思議なことに、この作品を観終わる途中から、この4人の間の人間関係って過去にこんなことがあったんじゃないかなぁっていう予想が幾つもできてしまう。これは残念ながら、六本木や渋谷あたりでの出来事だったら、全く想像も出来ないことではないだろうか。

とどのつまりは、時間があったら「SATC」を最初から観たいって気にさせられてしまった。筆者みたいな鑑賞者が増えるとDVD販売に繋がるし興行の思惑にピッタリ填まってしまったらしい。折りしも、ジュリアナ東京が復活した日、自身の過去とも相俟って、作品の良し悪しは関係なく結構愉快な鑑賞だった。


公式サイト


allcinema ONLINEの作品ページ
goo映画の作品ページ


よろしかったら、こちらにご協力を。映画のブログも検索できます。
人気blogランキング


ついに、音楽のブログを立ち上げました。
まだ少ししか記事を書いていませんが・・・
「音楽は語るなかれ」


ついでながら姉妹ブログへもどうぞ
時事問題のブログ 「情報過多で悩むあなたに」
下町探索記 「東京の原景を探して」
ただの日記「turtoone主義」
[PR]
# by turtoone | 2008-09-07 18:58 | 映画(さ行)

ハンコック

b0046687_17385372.jpg

この作品に関しては、作品のストーリー自体より他に幾つかの興味があったのだけど、結局、ヒーロー物の大衆娯楽作品なのか、後半から終盤の部分が主題なのかがはっきりせずに終わってしまった。消化不良な展開だったことは歪めないが、斬新さはないものの、ヒーロー作品としての異質さは十分表現してくれたと思う。

幾つかの興味について書く。まず、ウィル・スミスについてであるが、どうして彼はここいう中途半端な作品にばかり出演するのだろうか。私は黒人男優の中では、デンゼル・ワシントンに並ぶ存在だと思っているし、特に、ハリウッドの黒人スターとしては特別なオーラを放っているひとりだと思う。シャー子さまと共に映画のために来日していたときも、ふたりの放つオーラはそれぞれ違っていたが、片や御曹司でラップミュージシャンとして若くしてグラミーの栄誉に輝いた華やかな存在である一方、DVを受けた幼少の過去、体を壊してバレエを断念した経験を乗り越えて、モデルとして、また女優として一流になったそれぞれの威光はお互いのパワーがぶつかってしまうのではないかと思うくらい警戒したが、なるほど、こういう展開だったのかということに関しては納得した。ある意味では上手いプロモーションだったと思う。おっとウィルの話だったのだが、彼は「エネミー・オブ・アメリカ」の演技が一番好きだし、抜きん出ていると思うが、それは、こういう人間ドラマを演じた方が良いと思うのだ。勿論、彼の作品の中には、「インディペンス・ディ」を筆頭に、「アイ、ロボット」、「アイ・アム・レジェンド」と、メッセージ性の高い作品には出ているものの、どうしても役柄より作品の背景に特異なものが多いから、どうしても見過ごされてしまうのかもしれない。実際、シリアスな「幸せのちから」や「ALI」などはドラマ作品として自体の内容構成が悪く、演技をとやかくいう以前の問題であったからである。しかし、彼に期待するところは大。作品と役柄によっては、いつでもオスカーを取れる演技力の持ち主であることは事実である。

ふたつめの興味として「ハンコック」を製作した背景と意図である。スーパーヒーローの受難時代が長く、このブログで何度も書いているが、だったら最初から嫌われているヒーローにしてしまえという短絡さは何なのかと思いきや、展開の中で相棒を登場(しかし、これは殆どの映画ファンは予想できた筈)させ、結局はその相棒との係わり合いからハンコックというヒーローの出自と存在を明確にしようと試みたが、負のエネルギーが生じるが如くの、物語まで負の展開になってしまったのは可也問題が多い。スーパーヒーローの不器用さというのは、力の使い方が分からないというところで、スパイダーマンやインクレディブルなどにも一部表現されているが、背景として時代がヒーローを作り出して来たことへの終焉を物語っている傾向にあることを真っ向から否定するのかと思った。歴史に記されるが如く、ヒーローというのは一時のものに過ぎないし、それはたとえば、北京五輪におけるマイケル・フェルペスやウサイン・ボルトも生身のヒーローである。だが、敢えて4年に一度、五輪と米大統領選があるこの年にこの作品ぶつけてきたということに関してはそれ相当の意図をもってのものと思ったが、太古から脈々と人間を具に観察してきた神に近い立場という表現がある一方で、結局はヒロイズムが必要なのだいうことに落ち着いてしまったところは顕かに脚本のお粗末を露呈したに過ぎなかった。「ダークナイト」の潔いラストと比較するとそのコンセプトに雲泥の差が歴然である。

但し、ヒーローは時代に作られ、また、時代に抹殺される。その歴史的悲劇にたってみれば、後者を前提として前者の出自という皮肉なのだとしたらこれは大変興味のあるコンセプトだったのだから、その為には作品の土壌を大衆娯楽に来たことがそもそもの大失敗なのであろう。過去に無いコンセプトだけに、同じテーマでもう一度チャレンジする価値はあると思うが続編はやめて欲しい。(勿論、それだけはないだろうが・・・)

それと、来日していた際のシャー子はちょっと太っていたが気のせい?


公式サイト


allcinema ONLINEの作品ページ
goo映画の作品ページ


よろしかったら、こちらにご協力を。映画のブログも検索できます。
人気blogランキング


ついに、音楽のブログを立ち上げることにしました。
まだ少ししか記事を書いていませんが・・・
「音楽は語るなかれ」


ついでながら姉妹ブログへもどうぞ
時事問題のブログ 「情報過多で悩むあなたに」
下町探索記 「東京の原景を探して」
ただの日記「turtoone主義」
[PR]
# by turtoone | 2008-09-06 17:45 | 映画(は行)
b0046687_22482036.jpg

インディの続編に関しては数年前から囁かれ、期待も大きかったが、まさか、この作品まで続編を予定しているとは知らなかった。ハムナプトラに関しては、勿論初版のBOX-DVDもあるが、これは家内のために買って来たようなもので、正直、内容に関してはVFXが凄いというくらいで、そんなに詳しく覚えていない。ただ、1作目と2作目がまるで時の流れの軸を歪めてしまうような訳のわからない出演人物の相対関係があり、2作目ではその関係の中に、オコーネル夫妻も取り込まれてしまったということと、そういえば2作目にはふたりの子供アレックスが出てきて、当然のことながら、本作品には主役級で登場してくるという映画ファンなら誰しもが憶測できる程度にしか、この作品は熟知していない。というか、2作目でエブリンの前世迄が分かってしまった今、何ゆえに続編なのだろうと思ったが、そうか、北京五輪に向けた興行目的だったのかとしか思わさざるを得ない作品の設定と、実際鑑賞をしてもその域を脱せなかったのは事実である。したがって、今ひとつの興行成績に封切り後も盛んに首都圏ではテレビスポットが流れている。

そもそもレイチェルが出ていないというのはどういうことなんだろうと思う。同時にレイチェル抜きでこの作品化をする意味があるのだろうかとも思わないか? ブレンダン・フレイザー、ジョン・ハナー、それに、アーノルド・ヴォスルーとレイチェルはこのシリーズには不可欠な存在だ。しかし、今回は物語の舞台が全く違うところに行ってしまったから、アーノルドはいたし方ないにしても、レイチェルがいないハムナプトラは全く意味がないし、第一、タイトルだって、ハムナプトラって違うのでないかと思う。いきなり、夫妻の絡みが出てきたりするが、やはりあの二人でないとあの味は出せていないし、読書会を開催していて次作を期待されるらしいが、「あんたが書いたんじゃないだろ」って大人気なく突っ込んでしまったりする。(読書会から入っているのは「ジェイン・オースチンの読書会」に引っ掛けてあるのだろうか? 安易だ・・・)。別に筆者は特別なレイチェルのファンではないが、この作品に出演しなかった理由を聞きたい。まさか、オスカー女優になったので、こういう興行重視の作品には出られないとでも言うのだろうか。但し、代役のマリア・ベロになってひとつだけ良いことがあった。そうアクションは彼女の方が上だということ。だが、それだけである。(彼女というと「コヨーテ・アグリー」しか印象にないのだが・・・)

また、内容に関して言えば、筆者としては、始皇帝を前2作のバケモノ同様に扱われることには遺憾である。始皇帝が暴君ではなかった説はここ2~3年で定説になりつつある。そももそ始皇帝を暴君に仕立てあげたのは、かの司馬遷であることは、筆者と同年代くらいの方は漢文の授業で(当時は必修科目だったから)既に了解済みであろうが、要は、司馬遷は「漢王朝」の正統性を書き綴っただけで、そういう意味では水戸光圀と内容は変わらない。そう、いつも言うように歴史はその時々の勝者の理論なのである。しかも都合が良いことに、始皇帝には兵馬俑が発見(1974年)されていてうってつけの題材であったに違いない。そこへ、ジェット・リー、ミシェル・ヨーといった中国・香港のトップスターをつぎ込んだ。まさに繋ぎ繋ぎの連携みたいな作品構築になってしまっていないか? また、いつも疑問なのだが、彼(等)を蘇らせてどう世界を統制しようというのだろうか。前2作のロマンスの部分の出典は良く分からないが、始皇帝もこの手の逸話は多いが、その多くは後世に作られたものであるし、実際に不老不死の話も残ってはいるが、このような傾国の美女は出てきておらず、かなり話がごちゃごちゃだし、極めつけは万里の長城の映像があったが、あの部分は明代に建造されたもので、始皇帝の存命中の映像として出すのは絶対におかしい。いつもこの辺りを突っ込んで申し訳ないが、映画人なら最低の時代考証は実在した人物を使うのであればきちんと調べて本物の映像を流して欲しい。

というか、物語も実に浅はかで残念であった。それから唯一売りであるVFXも物足りなかった。というか、中国のロケハンが足りなかったのではないか。虚構の物を作るのにも、実物は明確に把握をしておかないと、結局はこういう結果になってしまうという残念な作品を残した。やはり2作目でやめておくべきだったと思う。(そういう意味からすると、レイチェルは出なくて正解だったのか・・・?)


公式サイト


allcinema ONLINEの作品ページ
goo映画の作品ページ


よろしかったら、こちらにご協力を。映画のブログも検索できます。
人気blogランキング


ついに、音楽のブログを立ち上げることにしました。
まだ少ししか記事を書いていませんが・・・
「音楽は語るなかれ」


ついでながら姉妹ブログへもどうぞ
時事問題のブログ 「情報過多で悩むあなたに」
下町探索記 「東京の原景を探して」
ただの日記「turtoone主義」
[PR]
# by turtoone | 2008-08-18 22:55 | 映画(は行)

ダークナイト

b0046687_124483.jpg

今年は7月の後半から特に忙しなくなってしまい、思うようにレビューが書けず滞っているが、若干休みがあったのでやっと落ち着いてレビューを書ける。

そんな中、いきなりであるが、この作品、タイトルから「バットマン」がなくなった理由が実は映画作品の最後でわかる。但しこれがいわゆるこの作品の主題であるから、この事について書いてしまっては、作品全体のネタばらしをしてしまうことになり、筆者の当ブログの基本方針に外れてしまうので、今回は中途半端なレビューになることをお許し頂きたい。

筆者にとってのバットマンとの出会いは、勿論「バットマンムービーズ」である。最初に映画作品として登場し、そののちテレビ・シリーズになった。日本でも何度か断片的に放映されていたし、なにしろ、このバットマンは当時からとても、「愛すべき」ヒーローであった。逆に言うと、当時の日本のヒーローというのは、常に色々なものを背負っていて、たとえば星飛雄馬なんかは貧乏と同時に大リーグ養成ギブスも背負っていたし、あしたのジョーも、タイガーマスクも暗かった。極め付きのウルトラマンは、作品全体のコンセプトから、常に世相に批判的であり、その象徴である「怪獣」を正義の味方が「倒さなければならない」という風刺は、幼いながらも色々なものを背負わされた悲劇のヒーローだと痛感しながらテレビを見ていたものだ。それに比べると、バットマンとはなんとおおらかな存在なのだろうかと大変興味深く感じていた。また、出てくる悪役というものが、ジョーカーにしても、ツーフェイスにしてキャラが強すぎて、逆に愛すべき存在になっていたことも事実だし、色々秘密兵器を持っていのが、結構笑ってしまうものも多かった。しかし、このバットマンの印象を大きく変えてしまったのが、ティムバートンである。筆者はティムの創出したバットマン像、及び、ゴッサムシティーの世界観に大変興味を惹かれた。そして、何時の頃からか、バットマンというヒーローはとても影のあるキャラとして認知されてしまったようだ。確かに、ティム・バートンが、サブリミナルのように各作品に埋め込んだ、「バットマン幼少の記憶」に関しては、作品を追う毎にそのパーセンテージが強くなり、孤高のヒーローとして変化していったが、まだ、ティムの作品シリーズには、ある種の「可笑しさ」がストーリーやキャラの中に残されていて、悲しさや内面を強調する反面、苦笑や希望を作品に残していたために救われていたと思う。但し、世紀末から9.11など一連の事件や世相という時代背景も可也強く相俟ってか、ヒーローがどんどん暗く、かつ受難していく時代に突入していったのは言うまでもない。そんな中で「こうもり」の名前を持つこのヒーローは、そのほかのどのヒーローよりも更に暗く、更に悩まなければならない宿命を持たされているというのが実際なのであろう。

前作の「バットマンビギンズ」からして、新しいバッドマンシリーズの輝かしい第1作という訳にはb0046687_1254036.jpg到底ならなかった。バッドマンに与えられた使命とは、最早街を守ることではなく己の出自との戦いでしかない。たとえば、この作品でも前作同様、170分という長い作品の中で、敵との戦いを描いている訳ではない。寧ろ、それは現在の世相と同じく、誰が正しくて誰が悪者なのかをはっきりとさせない(できない)。ジョーカーもそうであるが、彼が悪役なのか、いや悪いのは、狂っているのは世間ではないのかという部分が強すぎて、正直、単なるヒーローものという目線で見ていると理解ができない展開である。そう、この作品はもはや、ヒューマンドキュメントに近く、そして可也難解な作品になった。だが、色々な点で的を射ている作品であるのも事実。もしかしたら、過去のバットマン作品の中では最高傑作なのかもしれない。残念ながら、ヒーロー物の鑑賞を予定していた筆者にとっては、その辺りの心の準備が出来ておらず、物語を追うのがやっとで、中々それ以外の要素を追っかけられなかった。しかしながら、それだけ秀逸な作品であることは間違いなく、年内にDVDの発売を期待したい。

また、この作品がヒース・レジャーの遺作だと思うと残念だ。彼の最後の素晴らしい演技に多大なる拍手と敬意を表したい。

同時に、このバットマン・シリーズはここで終わってしまった方が良いのではないかとも思う。


公式サイト


allcinema ONLINEの作品ページ
goo映画の作品ページ


よろしかったら、こちらにご協力を。映画のブログも検索できます。
人気blogランキング


ついに、音楽のブログを立ち上げることにしました。
まだまだ記事を殆ど書いていませんが・・・
「音楽は語るなかれ」


ついでながら姉妹ブログへもどうぞ
時事問題のブログ 「情報過多で悩むあなたに」
下町探索記 「東京の原景を探して」
ただの日記「turtoone主義」
[PR]
# by turtoone | 2008-08-17 22:15 | 映画(た行)
b0046687_14334422.jpg劇場公開中にレビューを書けなかった作品のDVDが出たので買ってきた(尤も当作品DVDは次女が購入した。ふたりの娘共に親に似たのか、小遣いの殆どは音楽・映画のソフト代に消えている。もっと本を読め、パパは音楽もやっていたが、実は文学少年だったんだぞ~)。実は、このレビューが遅れた理由のひとつにディズニーが何を目指して、何処へ行こうかという趣旨が作品から読みとれず、実はそういうことを沢山含んでいた作品だったと思ったからである。筆者とディズニーの長い付き合いの中で、一見、単なるパロディ作品であるが故に、では、何故この作品を制作したのか、誇り高く、且つ、綿密なディズニーは思いつきで作品を作ったりしない。そこをもう一度確認したあとでレビューを残したかったのである。その前に、以前にもこのブログの何処かに、筆者の「ディズニー三大ヒロイン」というのを記したと思う。要は出てくるお姫様で誰が好きかってことで、筆者の場合、音楽のアリエル(リトル・マーメード)、歴史のムーラン、インディアンのポカホンタスであり、これはイコール、筆者自身が人生の中で多くを学び取った(なんていうと格好いいが、ただ好きなだけ??)要素と呼応していることも以前に書いた。今作品のヒロインはジゼルであるが、ディズニー作品においてのヒロインは自分の好きなヒロインと対比させてみるととても面白い。いや、陳謝。このことは、これから書くこととは何も関係ないので、余計な一節だった。

そもそも「白雪姫」を最初に試写した際の観客というのは皆おとなであった。映画「ネバーランド」 みたいに、客席に子供を散りばませたりしなかったのは凄い自信の表れで、いい大人がハンカチを取り出したとき、ウォルト・ディズニーは成功を確信、「重要なことは皆子供の時代があったことだ」というけだし名言を残した。つまりはディズニーの製作理念というのはここにある。そう考えると、この作品に出てくるディズニー過去作品のパロディはすべて単にパロディとして扱っているのではないという部分が見出せる。特に、冒頭の飛び出す絵本からジゼルの登場と、囀って森の仲間に掃除をさせてしまうのは、観客が「シンデレラ」を知っているという前提の下に作成されている。しかし、ではシンデレラを知らなかったらつまらないかというと、恐らく、この作品を観ようと思った人の10%程度だとは思うが、シンデレラを知らない人でも楽しめるようにニューヨークの実写版でも同じことをやってみせる。つまりは、よく考えるとはじめにシンデレラありきではないのである。次はスノーホワイトのパロディとして鏡が出てくる。また、オーロラ姫のパロディとしての王子継承問題と、既にこの時点で3つの作品が互換して出来上がっているヒロインがジゼルである。(顔はアリエルが一番近い?)。しかも王子様と出会えればそれですべて夢のような薔薇色の世界が約束されるという前提は、最初から過去に製作・発表してきた名作を全否定しているのであるから驚きだ。それから、お家芸でもある撮影特殊効果に関しては、ナルニア物語等でその集大成を見せているように完成度は大変高い。しかし、これも白雪姫の時代には、実際に人が踊ったり、演じたりしてみせたのをアニメーションに書き起こしたように、今回も軸は人であり、それは俳優である部分がなんとも感慨深い。特にジゼルが窓から動物を呼ぶシーンは、半世紀前に同じようにシンデレラの原画を書くときに当時のモデルが同じようなことをしたと思うと、時を越えても一貫して「人」に焦点をあてている姿勢は一ファンとして嬉しい。鳩やコックローチはともかく、鼠がたくさん出てくるのは仕方ない。ディズニーは鼠で儲けた企業なのだから、最初に鼠ありきは当然のお約束である。コックローチだって、ニューヨークなんだから、キリギリスにするわけにはいかないだろう。また、徹底しているところでは、ロンドンではないからピーター直接をパロっていなかったりするが、ジゼルに妖精(この場合の妖精はティンクでなく、眠れる森の妖精に近い)という言葉を言わせたり、エンドロールのバックにティンクが出てきたりするところも抜かりない。

そしてストーリーも決して横柄でなく、Dreams come trueという創設以来の主題を掲げているのも納得する。面白かったのは「怒」に関してのジゼルの考え。確かに、これまでのヒロインは余り怒らなかったが、人生には「喜怒哀楽」がなくてはいけない。ニューヨークに来て最初に声をかけるのが「おこりんぼさん」という辺りにも伏線を引いている流れもとても良い。但し、頂けない部分が残されていた。魔女の巨大化である。どうも「リトル・マーメード」以降、このいままでの蓄積を一度破滅させようとするパターンは良く理解できないし、「あっ、またこれか?」って思ってしまうから、残念だ。マーメード同様「真実の愛」が呼応していねから、どうも魔女っていうのは「真実の愛」が嫌いなのか、それに裏切られてみな魔女になってしまうのか、そんな余計なことまで考えさせられる羽目になった。もし、この場面が大仕掛けだとしたら全く間違いであり、わざわざおとぎの国から主要キャラを全部呼んでおいてドラゴンがクライマックスじゃあ、ゲーム「キング・オブ・ハーツ」の方が余程面白いって、ここまでお膳立てを作っておいて最終的に斬新さは何もなかったと言いたい。冒頭に書いた部分の疑問はただの取り越し苦労であったのだろうか。結論は先送りしたい。

しかし、全体的にすべてディズニーらしいミュージカル構成で、特に「セントラルパーク」のシーンは、「アンダー・ザ・シー」に匹敵するミュージカル場面となった。おとぎの世界以外でこんなに魅力的なキャラが揃っているのもニューヨークのこの場所しかないというところも設定からして流石であり、全く違和感のない(現実として感じさせない)作りは一朝一夕の思いつきではなく、この発想の元こそディズニーの財産である。筆者としては同時に、なぜニューヨークにディズニーランドが不要なのか妙な納得もしてしまったが。ただ、「ベラ・ノッテ」はニューヨークにあったんだっけ? あの場面でアコーディオンで一曲欲しかったと思ったのは筆者だけ?


公式サイト


allcinema ONLINEの作品ページ
goo映画の作品ページ


よろしかったら、こちらにご協力を。映画のブログも検索できます。
人気blogランキング


ついに、音楽のブログを立ち上げることにしました。
まだまだ記事を殆ど書いていませんが・・・
「音楽は語るなかれ」


ついでながら姉妹ブログへもどうぞ
時事問題のブログ 「情報過多で悩むあなたに」
下町探索記 「東京の原景を探して」
ただの日記「turtoone主義」
[PR]
# by turtoone | 2008-07-21 14:34 | 映画(ま行)

JUNO/ジュノ

b0046687_2021873.jpg

オスカーの脚本賞というは筆者的にはとても興味深い物であるが、一時期は選出の基準に首を傾げる時期もあった。しかし、昨年の「リトル・ミス・サンシャイン」同様、この作品の脚本賞は大変頷ける。

この作品は、16歳の少女が妊娠したというところだけを追ってしまうと、数々のメッセージを見落としてしまう。しかし、その辺りは意外に本人が重大事にも関わらずあっけらかんと装うことと、椅子という小道具を上手く使っているところ等で淡々と描き、物語も進行するので、鑑賞者も余りその事実にとどまらずについて行ける。まずはこの辺りの脚本は上手いし、同時に演出も脚本を良く理解しているのと、音楽の効果が抜群だ。

そして、この物語の大事なところは三つのカップルの比較とジュノ自身がどのように関わっていくかである。ジュノを中心とした継母ブレンと、養子縁組の里親母ヴァネッサ、さらに継母の夫(つまり実父)マックと、養子縁組の里親父マーク、それに彼氏でお腹の子のパパであるポーリー。ジュノとのそれぞれの母繋がりを軸に男性陣を見るのと、直接男性陣を見るという二つの視点を、各々のシーンで楽しめるという不思議な作品だが、これが実に面白い。つまり物語の軸がここにあり、そこから妊娠とか養子縁組とかという問題を、当人やその家族や友人等のそれぞれの環境に派生させているので、一見すると単調な人間関係もきちんとサイトマップを書かないと真実は分からないという現代社会に於ける人間づきあいの難しさを表している訳である。勿論「子供求む」が、犬・猫は愚か爬虫類のペット募集の広告と同列で掲載されていることから揶揄されるアメリカの現状だったり、一方で養子縁組という現実が斬新だと思いきや、当人達は至って古きを好むという皮肉も実に愉快である。

同時にこの作品は米社会の理想と現実の狭間を実に軽妙に描写している。冒頭のドラッグストア主人とジュノの会話、中絶施設の受付女性とジュノのやり取り、継母と超音波技師の対話、そして、ジュノとヴァネッサとの会話の殆どの台詞には、その狭間から見た米社会への風刺が込められ、同時に現実に生きる人間の強さが語られている。理想と現実という事でいえば、理想派の男、現実派の女という、性的な違いも絶妙に表現しているが、特に妊娠・出産という、男女の違いが最も明確に分かれる側面に於いてのシテュエーションというのは、単純に思われ勝ちであるが、やはり題材にする価値があるほど深い。これらの細かい脚本の妙とその良さが漸く後半になって分かった。

ジュノ役の初々しさが良い一方で、容姿に似合わない悪たれをつくところのアンバランスがこの作品を常に先へ先へと引っ張るのもキャスティングの良さであり、又、どう考えても早く「大きく成りすぎるお腹」などは必要以上に鑑賞者の興味をひく、細かい演出も施されている。また、ジュノを取り巻く人たちのひとりひとりがとても丁寧に描かれているのも、昨年の「リトル・ミス・サンシャイン」に通じる部分がある。但し、同作品が現代アメリカ社会の病巣を1台のミニバンに詰め込んだ(筆者はそう評した)のに比べると、風刺は効いていたが、小さなジャブ程度で、カウンターパンチに繋がる問題提起に至らなかったのは残念だ。例えば、胎教にはほど遠いパンクやホラーが出てきて、苦笑を誘うがそれだけで終わってしまったり、前述した超音波技師との一幕も対話があっただけで結論づけてはいないから、ちょっと面白い言いあいか、継母でも愛する娘は守るぞという姿勢表明にだけに終わってしまっているから残念だ。

筆者が鑑賞した回は公開から既に1ヶ月以上達つのからか、ミドル層が多く、若くても30台のカップル(夫婦かな?)で、館内に10代の若い子の姿が皆無だったが、偶然だろうか。ジュノの同年代の男女に観て欲しいと思った。筆者も娘と一緒に観られなかったのが残念だが、家内は娘たち、特に長女はジュノと同年代だから単館に足を運んででも一緒に観て欲しいし、年頃のお嬢様がいらっしゃる母子には、是非一緒に観て欲しい作品だと男親としてはそう思うが、年頃のお嬢様のお母様のご意見や如何に?


公式サイト


allcinema ONLINEの作品ページ
goo映画の作品ページ


よろしかったら、こちらにご協力を。映画のブログも検索できます。
人気blogランキング


ついに、音楽のブログを立ち上げることにしました。
まだまだ記事を殆ど書いていませんが・・・
「音楽は語るなかれ」


ついでながら姉妹ブログへもどうぞ
時事問題のブログ 「情報過多で悩むあなたに」
下町探索記 「東京の原景を探して」
ただの日記「turtoone主義」
[PR]
# by turtoone | 2008-07-19 20:41 | 映画(さ行)
b0046687_15304922.jpg


先行上映も含めると、略1ヶ月遅れであったが、やっとインディを鑑賞することが出来た。実は家族揃っての予定であったのだが、直前になって次女が「あんなお爺ちゃんが活躍するアクションなんて嫌だ」と言い出して(彼女は先週花男観たばかりだからね。私の宝物である過去のDVDも観たことがないし・・・)、彼女たちは来週から長女がステイに行くカナダのお宅へのお土産買い物に出かけてしまい、一人の鑑賞になった。まぁ、SW同様、インディには特別な思いがあるからその方が良いのだが。

オープニングエピソードには驚いた、最初は「ボールズ・ボールズ」でケニー・ロギンスが歌いだすのかと思いきや、突然時代は1950年代へ。更に、時代の変遷から相手がナチスから旧ソビエトになっている(予告のケイトを見たときはスターリン万歳とは思わなかったので・・・)。勿論脱出、しかし脱出先からさらに核実験でまた脱出。このあたりは、「魔宮の伝説」で毒消しがなかなか取れないじれったさ(当時はアレが売り)と違った、「これでもかっ」っていうGSのしつこさには脱帽する。良くあの冷蔵庫があそこまで飛んだものだって、これは、SWで、R2と3POがダントゥーインへ飛ばされたのと同じじゃないかと妙に納得。以降も様々な作品のパロディが組み込まれていて、インディなのか「ホット・ショット」なのか途中で分からなくなったのも事実。

しかしながら、さすがに「ジュラシック・パーク」と同じく、常に新しい科学や研究の成果を前面に出しているのは事実。特に、19年前には解明されなかった、マヤ文明に、「アポカリプト」には遅れたものの、大きく一歩踏み込んだのは事実。世界四大文明(ちなみにこういう呼び方をしているのは日本の教科書だけ・・・、メソポタミヤ・エジプト・インダス・黄河に続くのが、アマゾンと揚子江)ならぬ、新しい文明発見の可能性を、デアゴスティーニの「歴史のミステリー」と同様の研究者も頷くような高いレベルで考察したことには拍手を送りたい。最初はこのためだけにこの映画を撮影したのかと思ったので、さて、解明しきれていない文明の帰着を何処に持っていくのかと思いきや・・・、なるほど、その手があったかと、これはGSだけができる特権だよねって、だったら、最後はいっそのこと空飛ぶ自転車で脱出してくれたら良かったのにと、ならば、最後までパロディになってしまっただろう。(尤も、それに遠くないが・・・) 贔屓かもしれないが、GSじゃなかったら絶対に許されない展開である。但し、ロズウェルは引っ張りすぎ。「インディペンデンス・ディ」ではあるまいし、この引っ張りを序盤だけならまだしも、あそこまでやられると、インディもただの大衆娯楽活劇だと言い切ってしまうぞと警告する。勿論、それに対するインディの回答は台詞にあるのだが、一番いいところであれはないだろっていうのは正直な感想。相変わらずVFXを使用せず、宮殿の仕掛けの手作り感は絶妙で、今回は過去3作よりもさらに精密になっている美術や効果、撮影技術も、前述した本作製作への発想はすべて素晴しいのに、肝心の物語はボロボロでしたというのが正直な感想である。

65歳のハリソンフォード、勿論、イコール主役のインディもそうなのてあるが、年相応のアクションやキャラを用いているところの発想は良かった。つまり、インディの最新作を製作する土壌はすべて整えつつも肝心のストーリーへの執着と詰めが甘かったのは、周りの期待に応えるべくの致し方ない対応だったのだと思う。何せ、本作製作準備は20世紀から始まっていたし、ケビンコスナーが、兄役で出るという話題もとんだほど。映画関係雑誌の年頭特集にもここ数年は毎年、「インディ公開の予定は何時」という記事が掲載されていた。本作品は期待に応えただけでも鑑賞の価値があると思う。但し、正直、マーカスがいないのがこれほど寂しいのは(予想はしていたが)、やはり大いに物足りなかった。イギリスが誇る名優、デンホルム・エリオットは1992年にエイズにより他界している。このブログでは触れたことがなかったので、この場を借りてご冥福をお祈りする。

そういえば、父、ヘンリージョーンズも他界したことになっていたが、彼はインディ同様「最後の聖戦」で聖水を飲まなかったけ? これから復習しなくては・・・。


公式サイト


allcinema ONLINEの作品ページ
goo映画の作品ページ

このブログの関連記事
レイダース 失われたアーク《聖櫃》
魔宮の伝説
最後の聖戦


よろしかったら、こちらにご協力を。映画のブログも検索できます。
人気blogランキング


ついでながら姉妹ブログへもどうぞ
「情報過多で悩むあなたに」
「東京の原景を探して」
「turtoone主義」
[PR]
# by turtoone | 2008-07-13 15:37 | 映画(あ行)

告発のとき

b0046687_22191046.jpg


映画における戦争をテーマにしたものは名作の確率が高い。筆者のビデオ・DVDライブラリーをみても、20%近くを占めているから、もしかしたらジャンル別に分けたら最もパーセンテージが高いかもしれない。しかし、一方で沈痛・悲痛な物、後味が悪いものも多い。勿論、戦争なんて良いものの訳はないが、例えば、同じ戦争でも中世とか、もっと前の時代が題材の作品に同様な後味が残るかというと、それは少し異質である。但し、それは現実感の問題なのではないかと今までは思っていた。平和呆けのこの国においても、第二次世界大戦の悲惨さは、祖父母や両親から伝えられ、語り継がれてきているし、ベトナム戦争時代に戦地に赴いているわけではないが、反戦運動や、わが国にも関連した学生運動が起こっていた事実に多少なりとも接触をしているからか、自分というものを軸に考えて、悪事だという判断と悲惨さの共感は心のどこかに潜んでいて、それが唯一、戦争に対する自身の良心だと思っていた。だが、この作品で分かったことは残念ながらそれは大いなる勘違いであるということだ。

ベトナム戦争を経て、アメリカの戦争に関する考え方も大きく変わった。これは核というものの存在かどうかは別として、戦いというのは、すべてにおいて強いものが勝つという構図を変えてしまったのが現代の戦争である。イラク戦争において、アメリカは勝った訳ではない。それは既にベトナムから始まっていた。世界の国々がこぞって「アメリカ」になりたがったら地球はどうなってしまう。そんな疑問も今はない、なぜなら、19世紀のイギリスを目指したアメリカと違って、今、世界は「アメリカ」なんか目指している国は、ちょっと勘違いをしている「中国」以外にはないからなのであろう。人間は100年かけて、少しだけその部分を学んだのかもしれない。そんなアメリカが21世紀になって、まだ、19世紀のイギリスを目指しているという部分の歪みがこの映画作品に出てくるイラク戦争兵士たちの世界に現れてしまうのである。そして、それは戦争につきものである「西武戦線異常なし」と同じ、大国の一部において、一兵卒の問題は何も「異常なし」という報告がなされるが如く、やはり全く変わっていない。同映画作品のエンディングが如何に本質を示し、変わることのない命題であり結論であることを、全ての戦争映画、及び、アメリカ兵の戦場の実際を物語っていることにも、改めて同作品は素晴らしいと思う。大いなる勘違いというのは、自身の戦争に関する体験云々でなく、人間社会が大きくなるが故に比例する国家と国民の非統一感とそれに対して何もすることができないという諦観な脱力感に他ならない。

トミー・リーとシャー子の共演は見事。この二人は本当に作品と共演者によって随分演技の質が変わってしまう俳優だ。しかし「依頼人」で対決したスーザン・サランドンと夫婦役だったが、スーザンの迫力があの作品ほど無かったのは残念だったが、役柄的に致し方なかったかもしれない。トミー・リー演じるハンクの元軍警察という役どころも一見すると単純に思えるが、物語が進むごとにそれが深くなりきめ細かな設定だということが分かってくる。アメリカの何かが崩壊していく、そんな、緊張感と虚脱感を十二分に髣髴させてくれる役柄である。また、シャー子演じる女刑事エミリーが、洞察力の鋭いハンクの言動・行動に刺激され、徐々に迫力が出てくるところも演出もさることながら全体の構成を踏まえた演技力には脱帽。「スタンド・アップ」に匹敵する彼女の名演を鑑賞できる。「クラッシュ」に関しては、テーマは良いものの映画作品としての構成が甘かったと評した筆者であるが、この作品は全く逆。テーマがこなし切れていない部分を全体の構成力で補っていて、それは、前述した役者の演技だけでなく、動画の効果だったり、写真や、兵士の台詞など細かい点にも現れている。宅配便の一件といい、米国旗の流れといい、そしてなんといっても、旧約聖書を引き合いに出した主題(何故、邦題は当初の予定通り「エラの谷」ではなかったのか? 勿論この邦題の「とき」という言葉に重きをおきたい気持ちはわかるが、この作品は直訳邦題で良かったので残念)に、母親としての女刑事が皮肉をいうオチまで、とにかく構成は素晴らしい。また構成が見事に完成されたが故に、初めて鑑賞者に理解される問題提起という部分では、最早映画作品の枠をも超えている。最近は物語や全体構成が伴わない中で、問題提起ばかりされる、ある種ドキュメントに近い作品が多い中、「事実に基づいた着想」というエクスキューズも生きた内容であった。

残念ながら、音楽や美術などの部分と、撮影や編集にもう少し斬新な点がひとつ欠けていたために最高ランクには到達しないが、この作品も戦争映画では極めて評価の高いランクになるA作品である。拡大系ではないが、是非、時間を作ってシアターで鑑賞して欲しい。


公式サイト


allcinema ONLINEの作品ページ
goo映画の作品ページ


よろしかったら、こちらにご協力を。映画のブログも検索できます。
人気blogランキング


ついでながら姉妹ブログへもどうぞ
「情報過多で悩むあなたに」
「東京の原景を探して」
「turtoone主義」
[PR]
# by turtoone | 2008-07-12 22:22 | 映画(か行)