暫く療養と入院、更に手術をしまして映画ブログは更新を怠っておりました。作品は鑑賞してますので、徐々に復帰させていただきます。今後共、よろしくおねがいします。


by turtoone
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少年メリケンサック

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クドカンと筆者は余り相性が良くなく、それは多分、最初の出会いが村上龍作品の映画化「69」だからだったと思う。この作品は、村上の「限りなく透明に近いブルー」と並ぶ自伝的な作品で、でも1969年佐世保の話だから、あの時代に生きていなくて、肌で1969年を感じていないクドカンには無理な作品化であった。大体からして村上作品の映画化というのはすべて原作が原作だけに掴み所や、中心に置く主題や、プロットの組立が難しい。現実に、村上作品の映画化で成功したものは何一つないし、「コインロッカー・ベイビーズ」、「テニスボーイの憂鬱」なんていう秀作は映画化すらしていない。余談だが「コインロッカーベイビーズ」が映画化されたら主要3人は誰が演じるのだろうか? 数年前にハリウッドで映画化の話があったが、いずこへ?。日本に彼らを演じられる俳優など全く思い浮かばないが、ハシとキクは無理にしてもアネモネは最近では香里奈とかなら筆者のイメージとしては出来そうだが・・・。おっと話が逸れたが、それ以来ちょっとクドカンからは惹いていたのだが、この作品のコンセプトは気に入った。なんといってもパンクロックといったら、隆盛期を良く知っているからこのクドカンの思いが理解できる一人だと思う。クドカンの思いよりも、レコード会社社長ユースケの思いというのであろうか。

パンクロックというのは、筆者の認識ではグラムロックの枝分かれから始まっている。ニューヨークのアングラミュージシャンの中から1960年代にはその原型が誕生していたが、やはり象徴的なのはヴェルベット・アンダーグラウンドとイギー・ポップだと思う。そして本格的に商業ベースに乗ってくるのは、1970年代になったからで、中でも、やはりラモーンズの登場が衝撃的だった。しかし、その後ロンドンのパンクロックシーンが世界を席捲し、中でも、音楽性の高いストラングラーズ、強いメッセージを持ったクラッシュ、兎に角過激なセックス・ピストルズが、筆者の認識する「御三家」である。クラッシュは後発だったが、後々のバンドに与えた影響き大きく、その流れとしてザ・ジャムなどは国民的スターダムにのし上がった。また、この頃になるとパンクロックの領域が随分広くなり(というか、音楽シーンに広く認知されたと言ってよい)、あのポリスですらもデビュー時はパンクロックという位置づけをされた。

おっと音楽の話をしだすと止まらないから困る。それで、この映画作品だが、上記の様なパンクへの思いがクドカンと筆者の考え方や、距離の置き方等のスタンスが非常に良く似ているので、結果、この作品には「填まって」しまって、ポップコーンを殆ど口にせず映画に集中してしまった。色々な出演者がいたが、そんなの誰が誰だかどうでも良いと思ったほど、ストーリーに没頭してしまった作品は珍しい。音楽物を見るときは要注意だ。なぜ今パンクなのかということに関して言えば、それは「20世紀少年」ケンヂのなぜ今グラムなのかということに等しいと思う。上記パンクロック歴の続きになるが、90年代にニルヴァーナ、そして近年はグリーンディがグラミーも獲得した。最早、このジャンルはパンクという特異なものでなく、ロック音楽のひとつとして立派に定義付けされたことに等しいが、だからこそ、本当のパンクってなんだったのだろうっていう原点はこの作品にもあるように、スリーコード中心の音を出したいという衝動が全てなのであって、そのバンドの代表としての「メリケンサック」を宮崎あおいというヒロインを通して遠巻きに観ているコンセプトが至極共感できる。

軽自動バンでのドサ回りだったり、「ニューヨークマラソン」、「さくらら」、「アンドロメダおまえ」、「僕らのネバーマインド号」など、音楽はすべて笑える。特にニューヨークマラソンのオチは最高。それからやたらとシド・ヴィシャスを意識している台詞や映像があって、メリケンサックが尊敬しているのはピストルズなのかもしれない。そういえば、シドは生きていれば50歳の筈だから。こういう邦画は最高だ。


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# by turtoone | 2009-02-14 22:36 | 映画(さ行)

チェ 39歳 別れの手紙

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第1部「チェ 28歳の革命」のレビューでの懸念が、筆者に取ってはそのまま反映した鑑賞になった。なぜ、今、この時期にゲバラなのか。そもそも1本の作品を2分割することによって得られる効果はあるのか。ゲバラが革命を通して生涯残したたかった事を作品で表現できたのか。総括してこの3つの疑問に対し、やはり、作品を2分割してしまったことは大いなる間違いであったし、作品としてのゲバラの探求も十分出来ていたにも関わらず、これも2部構成にしたためにエモーショナルラインを途中で遮断されたしまったことで、第2部はリスクの大きなスタートになった。それが証拠に、この作品の冒頭部分は、まだ第1部の名残が残っていたために(本編から興行用にどの場所で切るかは大変難しかったと思うが、ここに前編の余韻を残したはじまりは大変良かったと思う・・・)、作品の期待感が増したが、物語が進むに連れ、残念ながらその期待度が徐々に低下し、結局、途中からはひとつひとつの発言に関しても、前編の何処に相関しているのだろうという戸惑いが生じて、中々困難な鑑賞となってしまった。4時間30分を越えても、これが1本の作品であったら、こんなことは無かったと思うと大変残念である。

但し、全く別の見方も出来るのであって、つまりは、前編が存在しなかったという前提だ。実は、奇才ソダーバークなのだから、興行に当たってはその辺りを狙ったとも思える。何しろ、主人公が有名人であるからにして、所謂、キューバ革命の一般論的な作品を作っても面白く無い訳だ(と、思う)。現に、ゲバラの代表作として「モーターサイクル・ダイアリーズ」は、「まだカストロに出会う前のゲバラ青春の回想」という様なサブタイトルで、今まで余り語られなかったゲバラの青春時代を見事に描写・作品化し、関係各位の注目と高い評価を受けている。勿論、筆者もこの作品は大好きだ。青春があるのだとしたら、当然、後日談もあるわけで、つまりはもソダーバーグが本当に作りたかったのは、こっちの作品なんじゃないかという作品手法を随所に感じたことも事実である。前作はやたらと回想シーンが多かったし、プロットの組み立ても、最初は中々掴めなかった。しかし、本作品は所謂我々が歴史として知っているゲバラの要素をなるべく取り除き、彼が本当に求めたものは何かの「映画作品」としての追求を行い、その組立としてこの作品を作り上げたという言い方が出来る。そう考えると逆に静かな作品で、起伏も少ないが、只管平和を願った一人の男の終末を見事に描いているのである。

つまりは、4時間30分通してで見た時と、前編・後編を分けた場合ではそれぞれ評価が変わってしまうという面白い作品で、特に後編に関しては、前編を見た場合の評価と、前編が無かった場合との評価も違ってくる。ああ、なんというか、ソダーバーグらしいというか、彼はひとつの作品で、ひとつの主張をしたのではなく、我々に色々な物を問いかけて来たということが言える。だが、それも、この、エルネスト・ラファエル・ゲバラ・デ・ラ・セルナという極めて稀な人物を扱ったからこそ出来る離れ業であり、評価の高低とは別に、映画史上に残る作品であることは事実である。

全編を通して、デルトロの演技も良かった。喘息で苦しむシーンは実際には然程なかったものの、彼の(演技としての)表情には、常に、喘息で悩む主人公の姿を見てとれた。そして、エンドロールの試みは館内が長いこと静まり、離籍する人も少ない中スクリーンだけが淡々と流れていた。筆者も色々な思いが交錯して席を離れられなかった一人であるが、死亡時に遺体を公開されたり、更に30年後には墓を発掘され遺骨の公開と、死後2度もその姿を公開されるという非情な仕打ちを受けた革命の英雄に対し、何も関係の無い筆者ではあるが、彼への鎮魂の念と、自身は何が出来るのかという問いかけの時間を与えてくれたのだと、このエンドロールの趣向には感謝している。


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# by turtoone | 2009-02-11 19:21 | 映画(た行)
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ブラッド・ピット的に考えると、筆者の評価が最も高い作品は「ジョーブラックをよろしく」である。この作品が評価が高い理由はレビューを読んで頂きたいのであるが、ひとつには時間の取り方である。この作品は物凄くゆっくりと(確かに上映時間も180分と長いが・・・)、流れているが、それはブラピが演じる死神の時間軸であり、同時に一財を為すために仕事一途で人生を駆け抜けてきた男(アンソニー・ホプキンス)の人生最後の時間を丁寧に描いているからである。この「ベンジャミン~」の作品化を知った際に最初に脳裏に浮かんだのが筆者にとってジョー・ブラックだったのは、多分、この時間軸の取り方というものに同じブラピの主演作品という共通項から勝手に連想したのだと思う。所謂、筆者の一番良くない「先入観」であり、だから、期待度ランキングも第1位であった。同時に物語以外に求めたものも多く、しかしその中には、筆者の予想だにしない展開もあり、良い意味で裏切られたのは大きい。一番評価の難しい作品であることは事実で、逆に筆者にこの作品を評価するのは、「人生を逆に生きたことがない」から不可能だという言い逃れも出来るかもしれない。いずれにしても映像等の技術点など明確に評価できるという物と、人生を逆に生きるという作品のコンセプトのように評価をしにくいものが混在しているのも事実。やはり、これは、ジョーブラックのような存在に評点してもらうのしか無いと思う。

原作は読んだことがないから分からないが、物語の発想として80歳の人間が0歳児の脳細胞を持っているという設定は、ブラピ曰くの「演じるのも難しい」が、作品として考えた方も、随分面倒臭い設定にしたなと、年代が変わるたびにそう思った。しかしその一方で、映像的に若くなっていく姿というのに殆ど違和感を感じなかった点は、ブラッド・ピットという「ブランド」である。このブラッド・ピットの最近の姿を知っているということ、「セブン」の若かりし頃を知っているということ、更には「テルマ&ルイーズ」や「リバー・ラン・スルー・イット」の初々しい時代を鑑賞者の殆どが「認知している」ということが、逆効果としてこの若返りの過程を大変興味深く追っていかれるという点にある。そこにはひとつ、「人は年老いた自分を想像することは好きではないが、若かりし自分を振り返ることは好きである」という人間共通の法則が存在している。若かりし頃の自分を振り返る、あの頃は良かったという過去の栄光に縋ってしまうのが大部分の人間であり、だからこそ、この作品の主人公が若返ることと、ブラピという映画界の超ブランドが本来の姿に近づいていくさまをスクリーンに凝視してしまうという効果が大きかったと思う。また、同時に、その若返るベンジャミンの半生に付き合った物語を語るのが死の直前にある老婆という全体構成も、この人も同列で自分の過去を顧みるという姿が悲しみを呼ぶ一方で、最終的にベンジャミンがどうなるのか(ドンデン返しということでなく、最後を看取ったのかどうか)という結末への期待が、シーンが変わる度に増して来るところも場面設定の勝利だと思う。

そして、もうひとつ、これは人間の永遠のテーマであるかもしれない「一瞬」。日本的に言い換えれば「無常」である。人間には「確実に約束」されたものは何もない。しかし、生のあるものに死は必ずやってくる。そして、その一瞬を大事にすること、日本人精神で言えば「一期一会」である。これが美しいのだと言っている。更に、それだけでなく、ベンジャミンは「老」から始まった。ここがポイントで「老」から始まっているが「死」から始まった訳では無い。そこに、時計の逆戻しやハチドリというサブテーマが隠喩として相関しているという奥の深い脚本になっている。原作、脚本もさることながら視覚効果はそれらを見事にサポートとし、この作品をより素晴らしいものにした。筆者は視覚効果がひとつの売りであろうこの作品を単なるその興味だけに埋没させずに、原作に潜む人間観というテーマを補佐することに徹底した点で、この効果を高く評価する。老から始まろうが一生は一生で、くどい様だが、赤子の姿になって老人の病気に罹る。この辺りは鑑賞者の半数くらいは「もういいよ」という違和感を示すかもしれないが、中々どうして主張が最後まで一環していて良かったと思う。

総じてとても良い作品であった。出演者も皆良かった。ただ、父親に関してのベンジャミンの態度が、この作品考証の中で唯一違っていたのが気になった。わざとそうしたのか、それとも単に、一人間として許せなかったのか? 後々父親の財産で暮らしていた彼の生涯を考えると解せない疑問が残った。


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# by turtoone | 2009-02-10 23:42 | 映画(は行)
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「20世紀少年 第1章」から僅か5ヶ月の続編の速さには驚いたが、今回の番宣は異常な程の力の入れようだったと思う。そして、第1章のレビューではこの3部構成の製作化に気合の入った試みだと高い評価を下したが、残念ながらこの2作目を観たところでは、試みは立派だったが、結局実績が伴わなかったという評価である。

筆者はこの3部作映画作品が完結するまで、原作は読まないと誓ったのには沢山の興味があったからである。その大きな理由のひとつは、この時代背景てであり、更にこの時代に略同世代で生きた「少年」を描いているからである。要するに「20世紀少年」というタイトル通り、日本で20世紀の少年を一番象徴できる世代はどこかというと、この60年代安保前後に誕生している世代である。この世代は未就学児のときに東京五輪が行われ、小学校高学年でアポロの月着陸をテレビで視聴し、そのお土産だった月の石を大阪万博で観る。松下館が考案したタイムカプセルを模写して、卒業記念に学校の片隅に穴を掘って思い出の品々を持ち寄り埋めた。また、秘密基地の好きな世代だったし、未来予測に対してものすごく前向きな世代だった。「よげんの書」の様なものは、クラスで1人は必ず書いていた。(そういう筆者も書いていたが、ミッションスクールだったので、どうも新約聖書の黙示録がダブル・・・)。よげんの書でなくても未来都市構想というのを殆どの人が持っていて、夏休みの自由研究は毎年、数人が「未来都市」を作って2月期に提出したと記憶している。卒業制作で作ったクラスもあった。だから、この世代の少年時代はまさに「20世紀少年」の名に相応しいし、第1章ではその背景が良く描かれていたのである。

原作は良く分からないが、多分、「20世紀少年時代」が可也フラッシュバックで沢山登場すると思うのだが、今作品の大きな失敗は、「ともだちランド」と「記念館」にあった。こういうストーリーが原作に有る無しでなく、この作品でここまで大きく描く内容であったかは疑問が多く、別段、ここをクローズアップしなくても、理科室やサダキヨの話はどうにでも結び付けられる。というのは、トモダチは今や、一宗教教祖ではなく、世界から尊敬されているという設定に、あの思いっきり洗脳されたトモダチランドのスタッフ(特に小池の顔は異常だ、本当に洗脳されているのではと過剰演出だ)は、この後の展開との乖離を著しくするものにほかならないからである。そして、別に基督教徒でなくても、キリストを知っている人であれば、意図も簡単に、「神になる」の意味の謎(というレベルの物ではないが)が解けてしまうのである。この点は非常に残念だった。

また、主役が唐沢からトヨエツではなく、かんなを中心に描いたのも、平が悪いというわけではないが、彼女には力量不足で、寧ろ小泉響子の方が登場人物的に魅力があった点も残念な点である。とって付けた様な「しんよげんの書」の出現も、作品の軸を何処に置いているのかを不鮮明にさせる(この点は第1部でも述べた、もし、わざとそうしているのだとしたら脚本ミスだった)要因である。結局は第3部への期待というのは「ともだちは誰なんだ」という事しか残らなくなったのも、この作品が第1部の良いところを残さず、数々の説明不足(例えば、藤木まで起用したチョーさんの孫ってあの程度? ホームレスから金持ちになった神、民友党党首とトモダチの関係)の上に余計な新たであるが陳腐なストーリーを乗っけたことにある。とても残念である。

当然であるが第3部にはケンヂが戻ってくる。そうでないと筆者は納得しない。第2部で裏切られたが8月29日が待ち遠しいことに変わりはない。


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# by turtoone | 2009-02-08 18:56 | 映画(な行)

誰も守ってくれない

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邦画が今よりもずっときちんと主張をし、一般に問題提起をしていた時代に映画鑑賞に時間を沢山割けたという点で筆者はとても幸せだったのだと思う。所謂、「社会派」というジャンルには、当時、普通に暮らしている日本人にとっては同じ国、同じ国民の中にもこういう考えやこういう主張、こういう人間が存在するのだということを認識する数限られた情報ツールであった。なぜなら、当時テレビというメディアは、報道という部分をより客観的に伝達しようという、良い意味である種の抑止作用が働いていたからであるが、何時の日からか、この国はアメリカと同じ様に、全ての報道に関して、茶の間のワイドショーと同等の扱いをするようになった。思うに、地方局が沢山増えて放送局過多になったこと、ゴールデンやプライムに長い尺で報道番組の枠が設けられたこと、更に、新聞社系キー局報道局が番組制作するのでなく、子会社、系列会社の扱いになり編成局が厳しく内容を考査できないことが要因になったに違いない。そして、大変残念なことは、そういうワイドショー的報道番組が増えるに連れ、映画の題材から骨太な社会派作品が徐々に姿を消し、変わって、サブカルチャー的なアカデミックな内容が現れて来てしまい、そもそもそういう題材を得意としていたテレビのドラマとのガチンコになり、結果、邦画はつまらない物に変化していったという見方も出来るのではないかと思う。

そもそもなんでこんなことを言うかというと、この「誰も守ってくれない」は、折角良い題材を扱っているにも関わらず、結論は愚か、結果的に問題提起にもならなかったという、現在の映画製作に於ける体力と知力の低下を露呈してしまたに過ぎないのである。しかし、よくよく考えるとそれもそのはずであり、体力という部分ではこの作品製作はテレビ関係者の関与が殆どである。だから、「守る」対象は過剰報道のマスコミであるという実際を出したにも関わらず、ではそれが良いのか悪いのかということに関しては何もコメントしていない。しかも、驚くべきことに、その責任はすべて警察にあるという論点の摩り替えを志田未来の台詞によって行っている。また、もうひとつはネット社会に対してである。報道陣の執拗な攻撃からは守れるものの、本当の悪者は姿や実態の見えないネット社会であり、このネット社会から自らを守るということは出来ない。友人ですら信じられないという言い方をしている。果たして本当にそうだろうか。逆に巨大メディアだからこそ、ネットを助長させるも無視することも可能であり、また、ネットが巨大化はしてもメディアとして君臨できるか否かは、新聞やテレビというメディアの力でどうにでもなる。にも関わらず、彼らは自分たちも系列でネット組織を持っている現実は無視して闇サイトばかりをクローズアップし、必要以上にネットをご都合主義として取り上げる。そしてよく考えるとそれは昨今の日常の報道にも通じる部分であり、犯罪の陰には必ずネットが存在するということを取り上げているのと変わらない。これは事件や物事の本質の摩り替えでしかなく、最早メディア系がこんな内容の作品しか作れないと思うと、逆に残念な話だと思わないか。

筆者はよく価値体系の観点で物を語るが、この作品もしかりで、価値体系がマスコミからネットに移ったとでも言うのだろうか。そして、それはマスコミの暴言であり責任転嫁ではないのか。マスコミはもっと襟を但し本来の姿に戻るべきではないのか。いずれにしても歯切れの悪い内容と結末だった。

物語は殺人事件の加害者の家族を守るという内容。だが、この殺人事件に関しての情報が少なくて、鑑賞者には申し訳ないが加害者の家族の気持ちにも、また、映画という特性からかニュースを見る一般の視聴者の立場にも立てなかった。もし、この脚本と演出が志田未来の立場をクローズアップするための仕掛けだとしたら、これは大失敗だった。映画という媒体の素晴らしさは役の誰かに感情移入できること。テレビでは到底出来ない特別な部分である。だが、最低限の情報、例えば、冒頭シーンで加害者宅に乗り込むシーンがあるが、それと志田の学校生活とをクロスフェードさせ音楽をのせて綺麗に描くのではなく、なぜ、長男が容疑者として逮捕されたのかの理由を公開して欲しかった。知識なしでこの重たく大きなテーマを理解しろといっても、結局は、マスコミはしつこいな、ネットは無責任だな、警察は大変だなで終わってしまうのである。いや、もしそこまで思ってくれる鑑賞者がいるとしたら、それは鑑賞者に潜在する正義感とか良心であり、最初からそういう物に依存して、結果、何も結論を出さないというのでは、なんのための作品化だったのだろうか。

唯一の救いは俳優陣の演技にある。佐藤浩市は安定しているから言うことはないが、志田未来、そして松田龍平は今までとは違う、新しい一面を出してくれた。筆者はシニカルな松田優作に縛られて似たような背伸びをしている松田より、この作品の演技の方がずっと良いと評価した。


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# by turtoone | 2009-01-25 14:18 | 映画(た行)
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ディカプリオとウインスレットの共演だからやはり映画史に残るあの作品「タイタニック」を思い出してしまうのは仕方が無いことだと思う。当のディカプリオですらその類の発言を何度もしているのだから。しかし、あの作品の呪詛を取り除くが如くのウインスレットのゴールデン・グローブ賞での受賞には驚いた。彼女もさることながら、流石にサム・メンデス。そしてかの監督といえば、オスカー作品賞の「アメリカン・ビューティー」を想像するのも当然の流れであり、つまりは一映画ファンとしては色々なことが錯綜した鑑賞になったことは予めご了承頂きたい。

色々な観点を持てる作品だが、やはり中軸に起きたいのは米社会が世界一になった結果と、それによる国内の大きな歪みである。1955年アメリカ。まずはこの時代設定に多くのメッセージが込められている。第二次世界大戦から10年、名実共にアメリカは世界一の大国になったが、並行して国内には様々な歪みが現れた。米国民の目指す方向性が定まらない。景気は好況だが、広がる貧富の差、人種差別、海外に不安が無い国民の関心も建国以来始めて国内に、そして突き詰めれば自分たちの、その身の回りに大きな関心を寄せるようになり、言い換えれば大きな変革の時期を迎えていた。レボリューショナリー・ロードはまさにそんな米社会の象徴である。ここに住む格上の人々の中でも特別扱いされる夫婦は様々な問題を内に秘めているが、それはアメリカ社会そのものである。更に、この社会は一瞬違う方向への可能性を考えるが、しかしそれは本当にこの国の進むべき道なのかどうかを自問自答し、結局は道を修正することなく、この路線を更に進行させ、この路線でもっと強大になることを考える。この二人の夫婦の行動はまさにこの時代のアメリカそのものである。そして、その結果はいわずと知れた、現代のアメリカ及び世界情勢を招いてしまったのである。

しかし、この作品はそれだけではない。まずは冒頭に書いたように、「タイタニック」の続編だと思うと面白い。この作品は船で救助されたふたり(あの作品では片方は死んでしまったが)の後日談だと思うと面白い。なんといってもキャシー・ベイツがまたふたりの間に入る重要な役になっている事もこの作品をダブらせる。最初に「港湾の仕事」をしていたというのも実に面白い。また、「アメリカン・ビューティー」との絡みで考えると、サムメンデスは「家」に可也の拘りを持っている。この両作品ともに家探しのシーンがある。良い家を持つことが良い家族の基本であるが、一方で人生というのは家を手にいれる事が目的ではないという主張が両作品からも観てとれる。そしてもうひとつの大事なキーワードが女性の自立である。人間の長い歴史の中で、どこの国にも無かった「女性たち」が国家の中枢を為すという地盤を築いた時代であるが、その土台作りの時代には、こんな夫婦もあったのである。こういう「変革への挑戦」が新しいアメリカを作ったのであり、それは前述したように強ち悪いことばかりではない。こういうところがこの監督の深い部分なんだろうと思う。ジョン・ギヴィングスという精神を患った数学者が出てくるが、この人が当時の社会の中でもしかしたら一番まともなんだと、風刺ではなく本当にそう描いているところも大変深い。

そして、やはりこの二人、ディカプリオとウィンスレットはゴールデンコンビである。なるほど、ウィンスレットは納得の演技であり、また、夫のメンデス監督はこの女優の素晴らしさをすべて出してくれたが、今回、決して派手な場面は無かったが、ケイト以上の演技をしながらオスカーにノミネートされなかったディかプリオに対しては、最早、オスカー審査員の彼に対しての僻みのほか何物でも無いと思う。

ラストシーンがこれから起こる(我々の時代にとっては既に起こって来た)米社会の現実と、それに対しての皮肉の両方が込められているのが良い。更にいえば実はこの作品の続編は、先に公開された「アメリカンビューティ」にあると言って良い。奥の深い、そして必見の作品である。


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# by turtoone | 2009-01-24 21:43 | 映画(ら行)

禅 ZEN

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仏教が日本に伝来したのは6世紀半ば(代表的な552年、538年以外にも諸説ある)であるが、筆者の持論として民衆にこの教えが啓蒙され信仰・支持されたのはやはり鎌倉仏教の影響が大きい。無論、奈良時代には東大寺の大仏や、全国に国分寺・国分尼寺が建立されたがこれは国策の域に過ぎなかった。唐から高僧を招聘したが、それは政治を支える手段であったが、平安時代に入り、最澄と空海が中国から持ち帰った密教の影響は大きかった。特に天台は教学として日本で始めてというべきオリジナルな学問として、仏教を目指すものにとって比叡山は教学最高峰として君臨し始める。だが、これも最澄当時の崇高な理念は時を経て堕落し、教学だけが残り実践としての仏教の布教や、釈尊の教えに対する帰依という志を持った者は殆どいなくなった。だが、時代が京都貴族政権から、関東の封建社会に移りつつあった時、荘園から領土に、日本は民の選択の余地がなく急速にその支配形態を変更した時に、所謂「民百姓」の生活不安から本当の意味での心の拠り所を求めていたと同時に、荒れ果てた国内と人心救済のために、己の私欲一切を捨てた高い志を持って現れた仏教伝道師が作ったのが鎌倉仏教である。法然とその弟子親鸞、日蓮、一遍、禅宗の栄西とこの映画の主人公道元がその代表である。筆者は特にこの曹洞宗とは縁があり、家の仏教も曹洞宗のみならず、祖父の菩提は東京西麻布の永平寺別院長谷寺(ちょうこくじ)にあり、また自身も禅を求めていた時代があり、それは、曹洞禅の持つ、生活即信仰という部分である。あるがままに座る、座禅とは特別なことでは無いという教えは、己を律するためには実は一番難しく、信仰とか修養というものが人の一生を掛けても成し遂げられるかどうかは分からないという「悟りの境地」という部分だけにあるものでなく、実生活の中で如何に己自身に向き合えるかとという実践を重要視しているところに強く引かれたからである。そして、同時期に極楽浄土を推奨した浄土宗や浄土真宗も、「南無妙法蓮華経」で「仏性」が顕現すると言った法華宗(日蓮宗)も、日本に初めて禅を紹介した臨済宗も、或いは、浄土真宗より更に進んで阿弥陀仏への信・不信は問わず、念仏さえ唱えれば往生できると説いた時宗(時衆)も、皆それぞれ民に如何に釈尊の本質を伝え、人心を救済するかのために不撓の精神で修行を重ねた理念の高い僧たちによって布教されたのである。つまりはこの時代がわが国における本質的な「仏教伝来」と言っても過言では無い。

だが、過去に「日蓮」以外は余り作品化になりにくかったのは、日蓮の法華経は当時の国家だけでなく人民をも否定した。それだけ刺激の強い布教活動だったち言える。一方で親鸞は現世の行いが来世を決めるという未来待望論であり、日本の土壌には可也合致したのかもしれない。稲作国家であるわが国の民は、民俗的美学に「お任せ」という部分が根本的に強い。春に種を蒔けば、秋には実りが来る、転じて現世で唱えれば、来世は極楽に行けるということと一致するのである。また、ご存知のように曹洞宗はふたつの本山、ふたりの開祖を持つ。大本山永平寺の道元と、大本山総持寺の瑩山である(曹洞宗という呼称を用いるようになったのは瑩山からである)が、別に分派している訳ではなく、宗の基礎と教学を創設した道元とその基盤である永平寺と、一方、本格的に宣布普及を行った祖としての瑩山と総持寺である。現在でも表だっていないが永平寺派と総持寺派があり、無論、布教に力を入れだした総持寺派が圧倒的に多い。そういう意味でも、鎌倉仏教は日蓮以外は物語になりにくいという点があったのは事実である。

さて作品に関してであるが、やはり前述の通り、道元の生涯を追っただけになってしまい、例えば「偉人伝まんが」と余り変わらなかったのも事実である。ただ「典座(てんぞ)教訓」に力をい入れていた部分は、曹洞宗派にも、また一般にも余り知られるところのない部分なので良かったものの、事実、中国で「典座係り」に受けた影響は多大であると解釈され「半尺の水」(道元が川で水を一尺掬い、半分は川下に必要な人がいるから返したという教訓)も、この典座の精神から出ていると考えるとこの部分はもっと強調して良かった。弟子の俊了が教えを捨てたのも、典座担当になってから己の信仰と相反するところで葛藤してしまうオチがあるのだから、余計に開祖として求め、修得したところを強調して欲しかったと思う。また、この作品で鎌倉仏教の布教という観点では一番鍵になっていたのがおりんの存在であったにも関わらずここも説明不足に終わった。時の権力者、北条時頼に意見した(伝承にはそうあるが事実は分からない。何故なら時頼は同じ禅宗でも臨済宗の建長寺を後に建立している。波多野義重は実在の人物であり、鎌倉に招請されてはいるが意見をしたかは分からない)ところより、おりんを救済した、有能な弟子俊了を失った場面を掘り下げた部分の方が、鑑賞者には道元とこの教えの本質を訴求できたと思う。つまりは2時間余りの時間で内容が欲張り過ぎたのであろう。

また、中村勘太郎も(父勘三郎譲りで)滑舌が悪く、台詞が聞き取りにくくはないが(中国語はそうでもないが)感情移入の妨げになる部分もあった。ひとつ、裏情報であるが、ラスト前に寺院から托鉢に沢山の僧が出てくるシーンは、この作品のために寄付をしたスポンサー寺院のご住職であるらしい。エンドロールに沢山の寺院名を出すよりずっと粋な計らいだと思う。また、個人的には禅修業で訪問した大雄山最乗寺(神奈川足柄)のシーンが幾つもあり感激したが残念ながら映画作品としては今ひとつであった。


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# by turtoone | 2009-01-18 14:40 | 映画(さ行)

チェ 28歳の革命

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筆者の好きな映画ジャンルはなんといっても歴史モノ、人物モノであるが、かといって然程に高評価を下した作品というのは余りない。勿論、「シンドラーのリスト」「恋におちたシェイクスピア」も人物モノではあるが、その人物がどう生きたかというストーリーではなく、背景になるものが大きい。そう考えると特A作品で人物モノって「レッズ」だけの様な気がして(「アマデウス」なんかも人物伝というよりフィクション性が高いから)、今、過去のデータをひっくり返しているところだが、エルネスト・ゲバラ・セルナに関しては、「モーターサイクル・ダイアリーズ」もさることながら、丁度、最新の検証を「歴史のミステリー」で特集していて、やはりそこでも2度にわたる南米旅行で、祖国並びに南米全域の国民生活が疲弊を極めていることが、自らを立たせるきっかけになったことは事実の様で、そういう意味では今世紀に入り、彼の評価も大分変わって来たと思う。今まではカストロ兄弟あってのゲバラという解釈が、逆にゲバラあってのキューバ革命だったと、これから特に母国アルゼンチンの歴史研究家からこの観点での歴史検証がなされ論文化されることを期待したい。しかし、そんなこともあって、やはりカンヌの様に全編を一気に観られなくて残念な鑑賞であったのも事実。

同時に今、なぜこの時期に彼なのか。この作品だけでなく、今全世界的にゲバラの存在が見直されているという。地理的、及び言語的なこともあり、どうも南米は苦手である。残念なのは特に文献が手に入らず、入っても読めないことだ。だからアジアに置き換えてみると、アジアで革命の祖と言えば、筆者が尊敬する中国人5人に入る「孫文」であるが、彼もまた実はこれまで母国中国での評価は低い(というか、最近は歴史の教科書にも載っていない筈だ)。辛亥革命は清朝を打倒したことの評価はされるものの、その後の新政府の設立には日本色の強い孫文は毛嫌いされたからだ。筆者も「日本人であるが故の視点」で孫文を英雄視しているに過ぎないのかもしれない。やはり革命の歴史がない日本人のDNAにはアジアを例にとっても分かりづらい。ゲバラに戻ると、ひとつには、フィデル・カストロが昨年、国家評議会議長を退任したことにより、カストロという人の総括が世界的にも自由に論ぜられるようになり、同時にキューバ革命の功労者としてのゲバラがクローズアップされたのであろう。また、これにはフィデルを継いだ弟のラウル・カストロへの求心力を危惧する声(ラウルには現在パーキンソン病説があり、2006年のフィデルの手術中から政権を継承しているものの、余り人前にも出ていない)があり、真の革命により建国をした世界でも数少ない功績と意思を世界に残すためには、死後40年以上も立つ、ゲバラを登場させざるを得なかったという中米なりの理由があったのだと思う。しかし、その仕掛け人はロシアかも、欧米かも、もしかしたらアメリカかもしれない。

映画作品について少し書くと、冒頭に述べたように全編を通して観たかったのは事実。これは残念のひとことに尽きる。作品自体は、前半、場面の切り替わりが多いが30分で全体構成のパターンが分かるのでストーリー展開を把握するのは比較的楽である。但し、我々は字幕で観ているから感じないが言語が何ヵ国語かあり、その切り替わりの度に、特に作品として意図しているところがあるのでは気になるところがあった。これは1回や2回の鑑賞では把握できない。ただ単に、状況に従っているだけなら良いのだが。しかし、小細工や難解な展開は殆どなく、淡々と事実を追っていて構成がしっかりして、ストレートにゲバラとその行動を伝えようとしたところは昨今の作品では珍しく評価できる。大体からそもそもが一般的に分かりにくい地域と歴史なので、それを承知してか否かは分からないが、兎に角「ゲバラ」を伝えることに徹底していたことは良く、作品構成とともにデル・トロの演技は、特別な場面こそないが、この役どころと作品の意図を良く理解しつくした演技に賞賛したい。第2部には更に期待したい。

作品中、何度か「モーターサイクル・ダイアリーズ」の河を泳ぐシーンを思い出し、ゲバラとは何でも可能にする男、そして、大義のためには自分の立場など何も気にしない男だという熱い彼の思いが伝わった。しかし、後半になる部分は、最新の研究でも意見が分かれるところである「最終的にゲバラは何をめざしたのか?」が主題になる。筆者が年頭の「2009年期待度ランキング」で第1部を高くしたのは、第2部には定説がないのと、ボリビアに何を求めたのかがそれまでのゲバラからは分からない点が余りにも多いから、正直、今このテーマで映画を作るには無理が多いと解釈したからだ。その辺りは、第1部でも大事な場面になっている「回顧インタビュー」の演出が余程上手く作用しないと難しいと思う。今月末の封切りが不安である。

全編観てから評価したいが、現時点でなら高めの評価も、前述の理由で第2部だけでは作品として成り立たせるのは難しいと思うことから、やはり4時間30分程度なら、鑑賞料金を2回分払っても良いから一気に見せて貰いたかったというのが本音である。


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# by turtoone | 2009-01-12 17:17 | 映画(た行)

地球が静止する日

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昨日書いた「ワールド・オブ・ライズ」のレビューに続き、これも2008年未鑑賞作品。関連づける訳ではないが、前レビューに一触即発でお先真っ暗な未来を書いたが、そう、クラトゥが現れ何とかしてくれないと行き場が無いのではないかと真面目に思ってしまう。

1951年のオリジナル作品はうっすら覚えているが、それよりも、あのロバート・ワイズがメガホンを取っていたことをこのリメイクの公開で初めて知った。ロバート・ワイズ監督といえば、確かに「スタートレック」なんかも撮っているが、なんと言っても「ウエストサイド物語」と「サウンド・オブ・ミュージック」で2回のオスカー監督賞に輝いている、いわば、ミュージカルで高名な監督だ。まずはその点に大いに驚いたから、それに比べたらこの新作に関しては余り驚きがないだろうと思って鑑賞した。

正直、旧作を殆ど覚えていないから比較にはならない。但し、このクラトゥ役にキアヌを持ってきたのは正解で、「マトリックス」以降、何か、人間を越えているところに居そうな感じが漂うのは「コンスタンティン」、 「イルマーレ」なんかを観てもそう思うし、何しろ人類のみならず、多分、宇宙に行っても「イイ男」なんだ(地球以外に男女という性が別れているかどうかはしらないが・・・)と思う。冗談は抜きで、こんなイイ男からの忠告だから、ジェニファー・コネリーだって科学の領域を超えて「彼を説得してみせる」なんて思うのだろうと・・・。何か、作品に対しては危機感のないレビューだとご指摘を受けるかもしれないが、この作品は地球危機は外敵によるものでなく、地球を食い尽くした人類によるものだと言っているのだから、そう考えるといまから50年以上も前にそんな提言をしているのだからハリウッドもまだまだ捨てたもんじゃないと関心した。

しかしながら作品はというと、これは酷いモノで突っ込みどころのオンパレードになってしまう。いちいち指摘していると日が暮れてしまうので、どう考えても理解できないふたつだけ。最初のシーンは何だったのだろうか? 確か1928年というクレジット(おっとここでも世界恐慌絡みなのかぁ~)があったが、この時のキアヌの役どころはどう見ても人間だと思う。つまりまこの間に人間から地球外生命体クラトゥに変身したのか? それともこの球体の中で冷凍保存されたのだろうか? DNA鑑定していたらしいが、地球生命体に良く似てるって、そんないい加減な鑑定しか出来ないところが笑ってしまった。もう少し真剣にやって欲しい(鑑定でも脚本でもどっちでもいいから・・・)。もうひとつ、今回の教訓をこの地球はどのように実行しようとしているのだろうか。その辺りの明確な方向性が全くみつからない。クラトゥが心変わりをした理由も突発的で、そんな「個人愛」みたいなものが「残された希望」なんだというところ全く以って説得力に欠ける。これではトミーリージョーンズの地球探査員とそんなに変わらないじゃないか? 一体最初に集められた科学者たちは何かの役にたったのだろうか? 全てが知りきれトンボで、大風呂敷を広げたところ、何も結論を出せず、後はみんながそれぞれの立場で考えろっていう、昨今のハリウッド映画の悪い部分を全て踏襲してしまったね。

映画だからこれで良いという部分と、映画だからもっと先までやって欲しかった(人類は破滅するが、クラトゥとヘレンだけは残って新しい人類を作り出すって、これじゃあ「復活の日」みたいだなぁ)と、どちらに転んでも中途半端な作品だった。原作を読んでないが、1951年の映画化だから、多分「核戦争」への危惧かなんかだろうと憶測すると、このタイミングでもリメイクは果たして良かったのか? 映画化そのものへのポリシーの無さ心配してしまう。

唯一見応えがあったのがヘレンの師の科学者との数式のシーン。分かり合える者が居たというのはあの場面で説明してくれないと説得力に欠ける。確かに、「愛」というのは地球上における人類が最も誇れる要素であることは疑わないのであるが・・・。


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# by turtoone | 2009-01-04 15:34 | 映画(た行)

ワールド・オブ・ライズ

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新年最初のレビューだが、2008年末の未鑑賞作品である。リドリー作品であり、また、久々のディカプリオであり、この作品すら観られなかったのだから昨年末の忙しさは例年以上であったのだと我ながら驚く。しかし同時に、「原作を先に読んでおくのだった・・・」と後悔した作品でもあった。時間がないと良い作品も良い鑑賞が出来ず、結果、正当な評価を下せなかったのかも知れない。

中東問題という言い方は、アメリカの勝手な表現だと思わないか。なぜなら、この地域は、紀元前から色々な問題提起をする、歴史的にも世界の要所である。そしてそれを人間的に加速させてしまったのがイスラムとアメリカである。アメリカが介入してくるまで、ここには別の意味での戦いが演じられていた。そして何時しかそれはアメリカの勝手な定義付けにより、イスラムとキリスト教の聖戦に化してしまった様だ。少なくとも当事者も含め世界中にそう思い込ませた。しかし、これはアメリカの陰謀である。中でもCIAは良くも悪くもアメリカの頭脳である。この作品には「事実にほど近いフィクション」という趣旨の冒頭説明があったが、最早、CIA自体が嘘の塊りであり、その存在がフィクションだと言っても過言ではないほど、設立時の意味合いや崇高な理念は失われている。アメリカが建国時に掲げた自由の精神と主張の殆どがこの組織によって画策され崩壊されてしまったことを考えると、その渦中に「聖戦」の名の元に巻き込まれた中東のイスラム教徒が一番の被害者なのではないだろうか。

1929年の世界恐慌が生んだものは何だったか? 世界的にはドイツやソ連に代表されるような世界の枠の組み換えを意図した戦いの始まりであり、そのために2回目の世界大戦の勃発に繋がった。対ユダヤという共通項からヒトラーを利用したのはスターリンであり、結果、戦果が最も多かったのはソ連だった。日本は軍部の暴走にも繋がった。同じく結果満州事変を経て、世界大戦へと繋がっている。そして今また、世界は同じことを繰り返そうとしてはいないか。「聖戦」の内は良い(失礼、極論を導くための言葉のアヤである)が、やはり「背に腹は変えられない」のが人間の性であり、昨年からの経済危機がもし世界恐慌のレベルに達した時、人類は同じことを繰り返すのであろう。そして今度は、欧米・ロシア・中国に、中東も、更にはアフリカや北朝鮮も加わって来る。まさに世界大戦であり、キャスティングボードは「核保有国」が握る。無論、その裏ではCIAが暗躍するのであろうが、ハイテクな米国より、アナログな中東が優位に立つこの作品の一場面などは皮肉にしてはリアリティが高すぎて、先の大戦の様に情報戦だけでは決定的勝利に繋がらないことを示唆している。つまりは今度世界大戦になったら、終戦はないのではないかという不安が現実のものに帯びてくる。そう、何があってもこれから先、世界大戦を起こしてはいけないのであり、そしてもしかしたらこの2~3年が最も危険な年なんだと思う。そんな問題意識だけが沢山残った作品で、正直、映画が終わるまで気が気ではなかった鑑賞だった。

リドリー監督はここのところ現代作品が続いた。CIA絡みはかなりお得意の様だ。今回もラッセルに最高の共演者、ディカプリオを持ってきたが、ラッセルの役作り(メタボ作り?)といい、ディカプリオの気合の入れ具合といい中々見応えがあった。ディカプリオは今年も話題作がまだまだ続く。一ファンとして楽しみである。

しかし世界を救うのが「嘘」だなんて、クラトゥが来るまでもなく人類は処置無しの様だ・・・。


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# by turtoone | 2009-01-04 00:08 | 映画(わ行)