暫く療養と入院、更に手術をしまして映画ブログは更新を怠っておりました。作品は鑑賞してますので、徐々に復帰させていただきます。今後共、よろしくおねがいします。


by turtoone
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20世紀少年

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待望の鑑賞である。先週の三連休も含め、自宅近くのシネコンは映画作品の各シアターへの振り分けが大変下手だ。1000名入る会場から小さいのは150名程度だが、兎に角前から思っていたが割り振りが下手過ぎる。確かに住宅街にあり、また駅前にありというところで色々な鑑賞者の種類があるものの、だからシネコンなのであって、例えば、最新の興行ランキングなんか全く無視をしている。だから先週は「おくりびと」「パコ」は各回共売り切れ、「ポニョ」なんて未だに2スクリーン、しかも大きな会場を同時でやってて、片方はガラガラ。ランキングトップを独走中の本作品も今週になってやっと大きなスクリーンに戻った。しかし「ウォンテッド」が始まっているのと、同時に「アキレス」の入場予測を見誤った様で、そのお陰か、本作品はベストポジションでゆったり鑑賞できた。

この作品には二つの大きな期待があった。ひとつは主人公の境遇が同年代であること。もうひとつは邦画には珍しい3部作であること。同年代であることに関して言えば、それだけでなく、ケンヂとは随分ダブルことが多い。その筆頭はミュージシャンだったこと。筆者は80年代にまでグラムロックを引きずっていなかったし、ミュージシャンは皆27歳で死ぬなんてことは、言われてみればであって当時そんな意識をしていなかったが、日本の音楽シーンを考えるとあの時代にグラムをやるなんて全くの時代錯誤かよっぽど翔んでいるかのどちらか(そういえば「翔んでいる」なんて言葉は筆者の青春時代に流行った言葉だったような・・・)。ケンヂのその後(例えば安易にコンビニを始めた経緯)を考えると前者なのだが、「よげんの書」のことを考えると実は後者だったのかも知れないが、この種明かしは思いっきり次回作の主題になりそうだ。(この部分は筆者の思っていた通りの展開になりそうで思わずニンマリ・・・)。邦画の3部作というのも、これがとてつもないベストセラー(コミックは余り詳しくないのだが・・・)という訳ではないのに、それを60億円を掛けての制作という「気合」がとても気に入った。筆者における映画鑑賞って、偉そうなことを書いていても、時代設定とか気合とかで、もう相当良いところまで行ってしまうのだ。そして豪華キャストもそのひとつの要因だ。

唐沢大好き、常盤(生誕日が一緒、年は違うけど・・・)大好き、トヨエツ大好きだから、もうこの段階でこの作品はオッケーなのだが、今回はこの時代設定に沢山の拘りを見つけた。裸足で走る子っていたし、自転車の変速機ってそうそうあの場所についていたな。そして大阪万博の松下未来館の影響もあって「タイムカプセル」はあの当時、どこの学校でも流行っていたし、個人的にも実家の庭には、妹と当時の彼女と3人の宝物を色々埋めた(その後全面改築したので、多分掘り返されたと思うけど)。少年誌のノンブルもああだったという、基礎的なところに加え、同年代でないと見落としてしまうような細かい設定に迄生かされていたところが個人的には嬉しかった。実は欲を言えば、もっと時代的な部分で「音楽」に拘って欲しいと最初は思ったのだが、ケンヂが音楽を断念したという設定からのフラッシュバックだから、逆に音楽を最小限に留めたというところも作品のポリシーを感じられる。

一方で難点も多く、出演人物が多すぎたこと。主要7人の顔ぶれだけでも贅沢なのに、そこに関わってくる面々がカメオ出演も含めて豪華絢爛。逆にこの作品に出ていないと邦画の第一線にいないみたいな印象さえある。また、時代の場面切り替えが不自然に多すぎた。筆者は全く同年代だから年号がでなくともその時代を象徴するものがひとつでも出てくればすぐに自分の歴史と重ね合わることでその時代を把握できるが、そうでないと難しいと思う。特に、60~70年代というのは大変複雑な時代で、大阪万博のコンセプトが「人類の進歩と調和」だったように、すべての局面で日々変化・発展をしていた時代であり、現代とはそのスピードが違う。また、同時に日本人の生活基準というのが大きく変わっていった時代であり、この辺りは1年、2年違うだけで全然時代の背景となるもの、生活のベースとなる部分が違っている。一緒に観にいった次女がやはり分かりづらかったのが、ケンヂたち主人公の目線だったという。その部分に関しては納得する。ただ、この作品がハリウッド的でなく、邦画の新しい可能性を引き出す役割をしつつあることは認める。3部作を制作費という札束で作るのではなく、ある意味で日本現代史の表裏一体で捉え、未来に対しての負の財産も踏襲したテーマの表現は、大枚はたいただけで作れるものではない。少しだけだが、そのことを証明してくれた第1部であった。

ラストもすっきりしていた。少なくとも「LOTR」みたいに尻切れトンボではなかった点も、邦画らしいといえばその通りなのかもしれない。


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by turtoone | 2008-09-21 15:19 | 映画(な行)

グーグーだって猫である

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以前、私が実家に居たときには犬を飼っていたが、現在の家族ではまず、猫を飼うことは未来永劫にない。理由は3つあり、長女が猫アレルギーであること、集合住宅なので基本的にペットが飼えないこと、そして3つ目に、私も家内も子供の頃にペットへの死別を体験している身としては、あの悲しみをもう二度と味わいたくないというのがあるだろう。最近の風潮としてペットを家族だと位置づける方々もいらっしゃるが、筆者は犬や猫はやはり「飼う」ものであって共棲しているとは思えない。犬が私の替わりに仕事をそてくれるか、猫がゴミを出してくれるのか? そう考えると、良い悪いは兎も角、日本の社会に於いて、犬や猫は人間の暮らしに迎合するほかはなく、それはもしかして犬や猫にとってはとても不幸なことなのかも知れない。私、というか実家で飼っていた柴犬は室外に犬小屋があり、長距離散歩もさせたが庭を我が物顔で走り回っていられたし、トイレだって自由(自分で後始末するしね・・・)。そこへ行くと室内で買われている犬猫は大変気の毒で仕方ない。親友が猫を飼っていた時期があったが、夜中になると室内を飛び回ったり、寝ている顔を舐められたり(でも親友の可愛がっている奴だから邪険にできなくて)つくづく自分は猫好きでなくて良かったと思ったことがある。その猫は親友が近くの公園に散歩に連れて行ってベンチでうたたねをしてしまったら、その間に姿をくらまして帰って来なかった。世田谷のお屋敷街なのできっと大きな邸宅に飼われて今頃は幸せな暮らしをしているのだろうと、そのとき本気でそう言っていた親友の発想を疑った。また、私も寒い冬に庭先でミュウミュウ泣いている猫が余りにも可愛そうだったので、冷蔵庫からミルクとパンの残りをあげたら喜んで食べた白い猫が、翌日、玄関先に鼠の死骸を置いていったのには驚いた。自らが幼少のとき猫を飼っていた父曰くは、この鼠は食事の御礼だという。猫の恩返しだったが、その鼠の死骸の始末も大変で、それ以来、猫の悲しい声が聴こえても、心を鬼にして絶対に食事を与えることはしていない。そんな訳で、どうも猫とは相性が良くないのである。

この作品はタイトルに興味があった。「グーグーだって」の「だって」である。「だって」という言葉は「ダトテ」の転換語で「○○でさえも」というのが正しい使い方だ。また、接続語として使用する場合には「そうではあるが・・・」、「そうだとしても・・・」という意味がある。つまりはグーグーではなく、それ以前に何かが存在するのであるが、その後に続く「猫である」という言葉には色々な想像ができる。素直に「猫」という代名詞として捉える意外に、例えば、漱石の韻を踏んでいるという考え方もできるし、猫は他の猫という考え、或いは擬人化した猫という考えも成り立つ。つまりは色々な解釈の出来る表題であるように、この映画作品ではその表題の通り色々な捉え方のできる作品であった。しかし、逆にそれで主題を見失ってしまう要素も沢山あったのも事実。例えば、吉祥寺の町をとても丁寧に紹介していて良かった反面、そこに引きずられてしまう危険もあったし、ナレーションがアシスタントのナオミ(上野樹里)と麻子先生(小泉今日子)の二本立てのために(更に言えば英会話スクール講師も部分的だがナレーターの一人)、二人のストーリーが猫との関係とは別次元で進行していまうというところ。この辺りは主題を見失う要素となってしまった。つまりは、結局麻子先生に訪れたアクシデントって、サバとグーグーに次々に人間のエゴで犯した罪の報いだっていうところが主題として理解してよいのか否かが不明だし、もしそうでないのならどうしてそういうストーリー展開にしたのかも理解できなかった。なので、この辺りはタイトルの「だって」の含みがどういう意図なんだろうかが分からないと主題が映画作品だけでは見えてこなかった。但し、原作を読む予定はないので謎にしておいても良いかなぁと思う。そんなことはないが、もし、どうしても猫を飼わなければならない環境になったときに読んでみようかと思う。

但し、猫が余り好きでなくて、また、タイトルや主題が良く分からなくても、映画作品としては結構楽しめたのは、細野晴臣の音楽に寄るところも大きい。あと、上野樹里だろうか・・・。映画出演が多いだけに、銀幕での存在感は大きい。ただ英会話講師の下りは頂けないし、意味が無い。それから青自は? 色々消化不良に終わった部分もあったが、これらをすべて「ダトテ」に集約させるのだとしたらコンセプトは面白いが構成には無理があった。


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by turtoone | 2008-09-15 17:56 | 映画(か行)

おくりびと

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この三連休忙しなく、映画鑑賞に使える時間は3日間共午前中だけであるが、近所のシネコンでなんと全ての上映会で「完売」状態なのがこの作品だけで、なぜだろうと思っていたらモントリオールでグランプリを受賞したのを忘れていた。さらに、中国でも三冠に輝いたらしい。最近、映画周辺の話題には疎いが、だからといって鑑賞に尾鰭が付くわけではない(オスカーやカンヌだと厳しく観てしまうが・・・)。筆者が観た会も老人ホームの慰問試写会みたいだった。

一般的に納棺師(因みにこの師? 日本語的には士ではないの。もっとも資格とかがあるわけではないからどちらでも良いが・・・)という職業を「おくりびと」と呼んでいるのかは不明だが、もしそうでないとしたら、この機会に「おくりびと」っていう呼称の方が暖かみがあって良いと思う。そして、それくらい尊厳と誇りを持った人間がこの職業に就いて欲しいと思う。筆者の様な中途半端な人間には成られてはいけない。身内の不幸も含め今まで何度も葬儀というものを経験しているが、葬儀屋さんの対応というのは区々、特に決まったものは何もないが、ただ、いつも関心するのは一見淡々と仕事をしている様で、死者に対する労わりの心遣いは親戚以上だと思える節もある。特に財産を沢山残して亡くなった祖母や外伯父の時は本当にそう思った。だからこの作品に関しては、とにかく余計な予備知識や作品中の推測、また、カメラワークやカット割、及び、音楽・美術・効果なんかに関してもなるべく捉われることなく、物語に没頭しようと思った。結論として、そうしたことがこの作品の最も良い鑑賞であるということは言うまでもない。

日本の風土にある死者への崇敬というものは、たとえばカンヌで「楢山節考」が絶賛された様に、外国人にとっては可也稀有な風習だと思う。それは基督教文化圏だけでなく、同じ仏教圏に於いても、日本の様に、葬儀の後も初七日、七七法要(四十九日)、一回忌から始まり、三、七、十三、十七、三十三、三十七回忌までおこなって、やっと成仏が完成する。死んだときその場で神にしてしまう基督教とは相容れない風習であろう。しかし、一方でこちらも「メルキアデス・エストラーダの三度の埋葬」の様な埋葬方法も受け入れなれない。カナダで絶賛されたのは、そんな死者への崇敬の念は本来、文化や宗教を超えたところにある物だという一種の提言なのかも知れない。特に「死に化粧」というのは知っていたが、この作品で山崎と本木が行っている納棺の準備は、所謂「儀式」の類ではなく、死者への感謝と尊敬の現われであり、本来は死に水を取るのと同じ、身内の人間が行わなければならないことであったにもかかわらず、前半で余が言っているように「隙間産業」だというところに風刺も込められている。また、山形だから死者が自宅の畳の上に横たわっているが、都会(というか東京)では全く考えられないことだ。人ひとりの生命というものがどんなに尊いものかというのは、こういう機会でもなければ分かり得ないし、同時に都会にそういう「現場」がなくなって来ていることの影響による将来に多大なる不安を感じるのは筆者だけではない筈だ。

作品は時には失笑をかいつつも全般に静かに流れるが、前述した山崎と本木の所作が素晴らしく、この映像を観るだけでも価値ある鑑賞だ。勿論、その所作だけでなく、息のあったコンビネーションは見事。また、キャスティングも良く、特に吉行、杉本は、この俳優を使っているというだけでどういう役柄なのかが殆ど分かる辺りは見事であるし、広末もこの作品鑑賞の中では(年代でなく立場として)最も鑑賞者に近いところにあるという複雑かつ難しい役柄をうまくこなしていた。この作品では、一見特徴のない彼女の役柄が最も難しい。

そしてこの物語を単に「死」ということだけで捉えてはいけない。笹野が「門」言っていたように、それは終わりではなく、先祖として、我々の存在のルーツとして立場が変わるだけである。自己の存在を肯定するには先祖を否定しては成り立たない。そして同時にそれはある意味で美しい所作のある日本人の民俗としての誇りという観点から「生命の尊厳」を見ることの出来る、与えられた機会なのだとは思わないか。筆者は少なくともカナダ人や中国人より、この点に関して理解ができるということについては、日本人に生まれたことを感謝するのである。

実は採点が難しい作品だ。今年の邦画ではダントツなのだが、ここ数年の秀作だと「ゆれる」と比較すると少し・・・、だからA作品にはならないかな。昨日の「パコ」が筆者の中ではこけた分、満足している。

しかし、冒頭に書いたような老人ホーム状態で、鼻はかむわ、ビニールはゴソゴソ煩い、携帯は鳴るで、昨日の乳飲み子上映会と変わらない場内だった。


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by turtoone | 2008-09-14 17:49 | 映画(あ行)

パコと魔法の絵本

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予告編や予告記事で作品を見たいと思ったが、予告編で判明できる以上の要素が何もなかった作品。邦画としてはここ数年ではかなり高い期待度であったが、結果として残念賞作品であった。

物語は良く出来ているし、出演人物のキャラ設定も整理されている。又、小さなヒロイン、アヤカウィルソンも、主役の役所広司のキャスティングも間違っていない。又、ストーリーテーラー阿部サダヲの設定も良い。この辺りの構成は映画としては優等生的である。更に言えば、出演人物のサイドストーリーの挿入もさりげなく、この辺りは元が舞台作品ダケに台本の設定の質の高さを感じ、いきなり映画の脚本を書いたらプロットは同じでもこんなに洗練されないという技巧を感じる。だのになぜ筆者的に残念賞なのかを記述する。

まず、作品が優等生過ぎる。特にこれだけ色々なキャラを立てた割には行き着くところはそこかよって言う部分。特に本編もだが、サイドストーリーの方が面白そうっていうのは論外。特にオカマの息子と、天才子役の成れの果てとそれに絡む看護婦の話は、そっちの方が絶対に面白そうで、それでは本筋から鑑賞者の興味を著しく外してしまう。残念だ。

それから、何処か寄せ集め的な設定、つまりはこの奇妙な医療施設の存在と、そこに、他の患者はともかくも大社長とパコが入棟している必然性が全く理解できない。大社長なら一流の医療機関に入る筈だし、それは今すぐにでも転院は可能。パコに至ってはそんな大事故でしかもこんなに特殊な(しかも事故による後天性疾患)病態なのだから国立の権威的脳疾患専門医が扱う患者である。そこをパロディだからで流してしまうのであれば、最初から作品化に値しない。パロディは現実があってのパロディであり、どうも日本の作品はそこを別次元で語ってしまうのが間違い。つまりは、だから悪い言い方をすれば、キャラ一人一人に「それ以上の意味がない」という様に感じてしまう。主軸二人がここにいる必然をきちんと描く事により、この施設の性格がはっきりし、翻って各々のキャラがもっと魅力的になる。ここに居ることに意義があることを説明市内限り、大社長のやな奴も、パコの悲劇も際立って来ないのである。この点も残念だ。

そして極めつけは美術。美術は酷かった。まず、映像に一貫した拘りがなさすぎる。この物語はある意味で空想が多い。だが明確に舞台と想像部を分けるという術を知らしめることができなかった。極端に言えば、冒頭の現代と、物語の舞台である過去の分け隔てすらもきちんと出来ていなかった。これは美術の基本的な色遣いに問題がある。だから冒頭の部分って結構取っ付きにくかった鑑賞者が多いと思うのは、ギャグのセンスもあるが、半分以上は美術の重たさに付いていかれないのが原因である。更にポリゴンの蛙を筆頭とした絵本場面の美術感覚もお粗末。ましてや、この医療施設の庭と待合室のセンスは最悪だ。多少、劇中劇の場面展開で救われるものの、やはり本質的に美術がよくないし、そこに引きずられる効果はすべて良くない。唯一、カエラの歌だけが救いだったが総じて音楽も平均的なものだった。結局はこれにより何処まで現実なのかの区別と区域が明確に伝わってこなかったのは、物語のテンポが最後まで上がってこなかったことに繋がってしまう。ティム・バートンを見習えとは言わないが、こういう作品の映像化は一貫した世界観が必要で、結局は「金をかけていないお粗末な美術」というところに終着してしまうのであるが。邦画故の悲しさである。

しかし筆者が観た回は、子供が多くて五月蝿かったな。信じられないことに、乳飲み子も居た。乳飲み子は連れて欲しくないし、映画館側もどうしてベビーカーを入れるのか。ここは託児所じゃないぞ!


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by turtoone | 2008-09-13 21:12 | 映画(は行)
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自慢ではないが、ここ数年はテレビドラマというものを殆ど観ない。観ないというより観られないというのが正しく、ずっと続けて観ているのは「篤姫」くらいであり、また、民放ドラマでも最近録画も含めて全部見たのは「ガリレオ」、その前は「華麗なる一族」まで遡る。日本のドラマですらそうなのだからましてや他国のものになると本当に観る時間がない。DVDが出ているが借りて来てまで観ようという気力がなく、「24」や「プリズン・ブレイク」の様に買っては来たけど一度も観ていなくて、家内や娘たちの所有ソフトに化してしまうパターンが殆どだ。「SATC」も同様でずっと観たいと思いきや、実は、一度も観たことがなく、だからこの映画作品もかなり躊躇したが、不思議とこの作品に関しては知人の間でも「賛」が殆どだったので、筆者には合わなくてもという後悔を承知で鑑賞したが、そこそこ良かったので報告する。

大体女性4人組という設定は、男性からすると大変興味がある。事実、女性というのは3人以上揃うと上辺の付き合いはするが真の友情が育たないと勝手に解釈されているのが、過去に世界中で綴られて来た文芸作品の傾向だ。しかし、筆者も友人関係でもこんなに真の付き合いがある女4人組みというのは少ない。学生時代ならまだしも、社会に出て、仕事も違う、服の好みも食べ物も、男性の好みも違う女性が、通り一遍の会話だけで済んでいる関係なら兎も角も、こんなに深いつきあいをしている4人組にあったことがない。しかも、結婚前ならまだしも結婚して家庭を持つと更にその関係の維持は難しくなるものだ。だから偏見かもしれないが、こういうシティエーションは最初から無理なんだと思いきや、この作品を鑑賞してとてもよく理解できたことがある。

それは、まずニューヨークだから成り立つということ。この街は色々な意味で他のどこにも無い都市である。仕事や生活の価値観が違う。しかも、この4人は所謂セレブであるから、土曜日の午前中9時くらいからテレビの情報番組を見ている国の人種とは違うということだ。つまり友情という価値観が少し違うのである。筆者は幸いながら、この4人の出会いを知らないし、今までの友情の経緯も知らない。知らないから幸いしていて、恐らくテレビ編を観ていたら、細かいところで突っ込んでしまったであろう。しかし、NYでは仕方ないよねってところがまず、この物語の舞台として存在していることにこの4人の関係を全く不思議に思わないところが優先したと思う。また、もう一点は、20年くらい前から言われていた「女性の時代」という言葉が、漸く定着し一般的になってきたのだと思う。それは、ニューヨークだけでなく、全世界的ことなのだ。日本でも女性の結婚願望が低下し、仕事や趣味に生きる女性が増えてきた。そして20年前はそれが、勝手な男性側の価値観から語られていたのが、今はそんなことを言い出したら時代錯誤で、寧ろ、女性の生き方を手本とする男性も多くなって来ている。大事なことは、男性だから女性だからでは無いということである。前述した、「結婚したら付き合いが壊れる」というのは、寧ろ男性の方が増えたと思える節もある。要するに、男性4人組っていうのも、昔に比べて現在は随分少なくなって来ているのは事実である。

この作品が良かったのは、軸にキャリーを置いて、彼女の目線から他の3人を描いたこと。テレビを見ていないのでそれがこの作品だけかどうかは分からないが、確かにそのせいで説明の台詞が多くなってしまったことは残念だが、テレビを見ていない筆者ですら「総決算」的に観ているだからその辺りは了承できる範疇である。また、一番最新のニューヨークを見事に紹介してくれている。ウェディング・ドレスから「VOGUE」取材の下りになり、えっこんな事を望んでいるのって鑑賞者の誰しもが思い、結果次の展開はその通りになる、鑑賞者に先をよませてくれてそこにはめ込む。この辺りの「小技」はやはりテレビの域を脱していないなって笑ってしまうのだが、バックにニューヨークって凄い大きな見方がついているから、そんなことよりもスクリーンの隅から隅までをどこも見落とせないぞっていう期待感に次の瞬間には変わっている。不思議なことに、この作品を観終わる途中から、この4人の間の人間関係って過去にこんなことがあったんじゃないかなぁっていう予想が幾つもできてしまう。これは残念ながら、六本木や渋谷あたりでの出来事だったら、全く想像も出来ないことではないだろうか。

とどのつまりは、時間があったら「SATC」を最初から観たいって気にさせられてしまった。筆者みたいな鑑賞者が増えるとDVD販売に繋がるし興行の思惑にピッタリ填まってしまったらしい。折りしも、ジュリアナ東京が復活した日、自身の過去とも相俟って、作品の良し悪しは関係なく結構愉快な鑑賞だった。


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by turtoone | 2008-09-07 18:58 | 映画(さ行)

ハンコック

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この作品に関しては、作品のストーリー自体より他に幾つかの興味があったのだけど、結局、ヒーロー物の大衆娯楽作品なのか、後半から終盤の部分が主題なのかがはっきりせずに終わってしまった。消化不良な展開だったことは歪めないが、斬新さはないものの、ヒーロー作品としての異質さは十分表現してくれたと思う。

幾つかの興味について書く。まず、ウィル・スミスについてであるが、どうして彼はここいう中途半端な作品にばかり出演するのだろうか。私は黒人男優の中では、デンゼル・ワシントンに並ぶ存在だと思っているし、特に、ハリウッドの黒人スターとしては特別なオーラを放っているひとりだと思う。シャー子さまと共に映画のために来日していたときも、ふたりの放つオーラはそれぞれ違っていたが、片や御曹司でラップミュージシャンとして若くしてグラミーの栄誉に輝いた華やかな存在である一方、DVを受けた幼少の過去、体を壊してバレエを断念した経験を乗り越えて、モデルとして、また女優として一流になったそれぞれの威光はお互いのパワーがぶつかってしまうのではないかと思うくらい警戒したが、なるほど、こういう展開だったのかということに関しては納得した。ある意味では上手いプロモーションだったと思う。おっとウィルの話だったのだが、彼は「エネミー・オブ・アメリカ」の演技が一番好きだし、抜きん出ていると思うが、それは、こういう人間ドラマを演じた方が良いと思うのだ。勿論、彼の作品の中には、「インディペンス・ディ」を筆頭に、「アイ、ロボット」、「アイ・アム・レジェンド」と、メッセージ性の高い作品には出ているものの、どうしても役柄より作品の背景に特異なものが多いから、どうしても見過ごされてしまうのかもしれない。実際、シリアスな「幸せのちから」や「ALI」などはドラマ作品として自体の内容構成が悪く、演技をとやかくいう以前の問題であったからである。しかし、彼に期待するところは大。作品と役柄によっては、いつでもオスカーを取れる演技力の持ち主であることは事実である。

ふたつめの興味として「ハンコック」を製作した背景と意図である。スーパーヒーローの受難時代が長く、このブログで何度も書いているが、だったら最初から嫌われているヒーローにしてしまえという短絡さは何なのかと思いきや、展開の中で相棒を登場(しかし、これは殆どの映画ファンは予想できた筈)させ、結局はその相棒との係わり合いからハンコックというヒーローの出自と存在を明確にしようと試みたが、負のエネルギーが生じるが如くの、物語まで負の展開になってしまったのは可也問題が多い。スーパーヒーローの不器用さというのは、力の使い方が分からないというところで、スパイダーマンやインクレディブルなどにも一部表現されているが、背景として時代がヒーローを作り出して来たことへの終焉を物語っている傾向にあることを真っ向から否定するのかと思った。歴史に記されるが如く、ヒーローというのは一時のものに過ぎないし、それはたとえば、北京五輪におけるマイケル・フェルペスやウサイン・ボルトも生身のヒーローである。だが、敢えて4年に一度、五輪と米大統領選があるこの年にこの作品ぶつけてきたということに関してはそれ相当の意図をもってのものと思ったが、太古から脈々と人間を具に観察してきた神に近い立場という表現がある一方で、結局はヒロイズムが必要なのだいうことに落ち着いてしまったところは顕かに脚本のお粗末を露呈したに過ぎなかった。「ダークナイト」の潔いラストと比較するとそのコンセプトに雲泥の差が歴然である。

但し、ヒーローは時代に作られ、また、時代に抹殺される。その歴史的悲劇にたってみれば、後者を前提として前者の出自という皮肉なのだとしたらこれは大変興味のあるコンセプトだったのだから、その為には作品の土壌を大衆娯楽に来たことがそもそもの大失敗なのであろう。過去に無いコンセプトだけに、同じテーマでもう一度チャレンジする価値はあると思うが続編はやめて欲しい。(勿論、それだけはないだろうが・・・)

それと、来日していた際のシャー子はちょっと太っていたが気のせい?


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by turtoone | 2008-09-06 17:45 | 映画(は行)