暫く療養と入院、更に手術をしまして映画ブログは更新を怠っておりました。作品は鑑賞してますので、徐々に復帰させていただきます。今後共、よろしくおねがいします。


by turtoone
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b0046687_2344088.jpg映画というフィールドを考えた時、一映画ファンとして考えることは単純で、「映画でしか出来ない事はなんだろう?」という事である。筆者がこの表題作を、もしかしたら他人より高く評価するのはそういう部分なのかも知れない。

ノーベル数学賞受賞のジョン・ナッシュなんていうコアな人物は、恐らく日本人は基より、アメリカ人にだって、そんなにメジャーな人物では無い。同時代に話題になった有名人だったら、例えば、レジー・ジャクソン、ジョー・モンタナ、カール・ルイスという方が圧倒的に認知度が高い筈である。筆者は幸か不幸か、先輩にその道のオーソリティが居たので、彼の理論に関しては、フラクタル理論と同じレベルで教わっていた。数学者とは面白い人種で、彼等は世の中の事の殆どすべては数学で証明できると言い、それだけでなく、その証明に関して、膨大な時間と労力を費やしている。素晴らしいエネルギーだと敬意を表したい。ご苦労な事であるが、数学の「す」の字も知らない筆者には、何処か、次元の違う世界の出来事としか思えないのも事実である。更に言えば、彼の様な稀代の天才が統合失調症となると、まさになんとかは紙一重であり、筆者のような凡人には益々以て不可解だ。しかし、有り難い事にそんな凡人にも偉大な天才のマインドを大変分かりやすく描写し映像化してくれた、ロン・ハワードとブライアン・グレイザーの功績は、特典映像のサブタイトルにもあるように、Beautiful partnerであり、又、Bang-up jobである。

この作品のすごいところは観れば観るほど内容に引き付けられ、より、ナッシュという人を理解でき、更に、この作品を映画化したかった意図が鮮明になってくる点である。考えてみれば、数学というフィールドに立った時の人間社会って、どんななのだろうと考える。例えば、交通渋滞という我々の社会では、ごくごくあたりまえの事象でありながらその理由は難解な問題も、数学という土壌の上ではいとも簡単に証明できたりはしないか?或いは、もっと極端にいえば、我々が全くもって計り知れない概念である「運命」なんていうパラグラフに対してさえも、数学という学問の範疇でいえば、簡単な方程式で解けるのではないか? 数学者ではないが、例えば、血液型とか星占術などという運命めいた類いは数学でいえば、統計・確率という学問の範疇ではないか? 数学という考え方は、目に見えるものにしか本質を見出だそうとしない現代社会からすると、奇怪且つ一番遠いところに位置付けされる学問なのである。であるからして、統合失調症にしても、それは医学的な領域の結論であり、勿論、幻覚という物を証明できる術は人間社会においては「視覚的認識の不可能な物体」なのであり、よく分からないが、数学上は可能なのかも知れない。というような感想を持たせる様に、この作品は「統合失調症」や「幻覚」に対して何の偏見も持っていないのである。それは、本来人間が持ち合わせている「美しい心」というのを全面的に肯定し、この人物に係わっているすべての人間の「美しい心」を表現描写しているからである。この作品の主題は、強い「人間力」であり、同時にそれは「生命力」でもあるということである。例えば、こういう人間力は、人間社会の外に解答を求めて(例えば、フォース等)いることが殆どであったが、歴史物を除いて、この解答を人間社会の内側で、しかも人間という一物体の中に求めた内容というのはごく僅かである。であるからして、この作品は観るたびに感動を、しかも新しい感動と、更には可能性という「人間力」を与えられるのである。

少し薀蓄を書くと、「ナッシュの均衡概念」は1950年に導入され、翌1951年には、「ナッシュの交渉解」を発表した。何れも「ゲームの理論」であり、特に前者は1838年のクルノー概念まで遡り、その応用にしか過ぎない。ゲーム理論はおおむね、二つの広い分野に分けられる。非協力(あるいは戦略的な)ゲーム、そして協力(または結託) ゲーム。ナッシュはすべての協力ゲームはいくつかの非協力ゲームに分解できるはずだと主張している。この立場は「ナッシュ・プログラム」として知られている。非協力ゲームの文献の中では、「標準 (normal)」形ゲーム(静的)と「展開 (extensive)」形ゲーム(動的)を区別することもある。ナッシュの「均衡化」理論は、その後様々な学者に研究されることによってその理論自体が肉付けされ、より完成されていったといえる。

作品の中で、ナッシュは囲碁を「勝てる手を打ったのに負けたのは、このゲームが完全ではないからだ」といっている。これが負け惜しみでなく、本当だとするか否かは、数学者のマインドを理解するよりも難しいが、それよりも、ゲームが完全か不完全かは別として、「負け」という概念を一端は受け入れている。これが天才数学者の大研究に連なる「失敗な成功の母」なのであろう。

ひとつ残念だったのは、この名演技が、ラッセル・クロウのオスカー主演男優賞V2に成らなかったこと。この年、オスカーは彼の演技力より、スキャンダルの多い人間性をオスカーの偉業に相応しくないと判断したのであった。ジョン・ナッシュとは正反対の評価をされた訳であった。


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by turtoone | 2005-11-28 23:10 | 映画(は行)
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昨年、前作では実現しなかったが、ここ数年このシリーズと「L.O.T.R」を家族4人揃って近所のシネコンに観にいくのが恒例となっていた。ついに今回からはそれも字幕になった。昨年、つまり、「ハリーポッターとアズカバンの囚人」でそれが実現しなかったのは、1.2作を観て、筆者自身がこのシリーズをシアターで観る価値をなくしていたからで、それは大いなる間違いだったことをDVDで気がついたことは、既に前作のレビューで書いた。だから、今作品は、迷わず初日にシアターに行き、しかも、娘達の成長から揃って字幕で観ることができた。因みに、今回は中2の長女の「字幕デビュー」となり、次女は既に昨年小4のとき、「キングアーサー」で字幕デビューを果たしている。部活などもあり年に5~6本しかシアターで映画を観られない長女に比べ、お気楽で映画好きの次女は月1本は何かしら作品を観るので、その差なのかも知れない。筆者に似たわけではないのだろうが・・・。

実は、筆者はこの原作は読んでいない。というか、ハリポタも、前作から、映画の持つ視聴覚支配の影響から、原作を読んでも、イマジネーションが映画作品になってしまう。まだ、「秘密の部屋」くらいまでは、主要3人は別としても、ハグリッドや、スネイプ等は、自分の想像したキャラが勝っていたが、流石に、3作目にもなり、また、何度かDVDで見直していたりすると、もう幾ら原作でイメージを膨らませても、すべてが映画作品に出てくるキャラの顔になってしまう。昭和のテレビッ子世代は、これだから怖いのである。しかし、4作目は原作を読んでなくてこの鑑賞が、「炎のゴブレット」初体験で良かったと思った。「アズカバンの囚人」のレビューでも書いたが、この3作目で監督が変わったが、作品自体も大きく変わり、多少ダークな色合いが出た一方で、映画作品としてのクオリティぐっと向上した。そして、今作品では更に、スケール・アップしたと同時に、このシリーズ作品の方向性を位置づけることに成功した。この点は大変高く評価できるし、シリーズの最高傑作である。

幾つか例を上げると、まず、出演人物の内面をきっちり描写することが出来た。これはまずもって、新しい監督、マイク・ニューウェルの功績である。彼の直近の作品に「モナリザ・スマイル」があるが、同様に大勢の人物のひとりひとりの内面を表現することに成功した経験を今作品にも上手く活かした。終盤で、主要3人が「自分達も変わっていく」ということを仄めかす台詞があるが、そこに決着させる様に、特にこの3人の内面をものの見事に描写し表現した。そして、その結果が、3人の今まで以上の演技表現に繋がった点は監督の力であろう。又、そもそも、この作品は以前から脇がいつも締っていることで有名だが、前作で大活躍したゲイリー・オールドマンが殆ど姿を見せない中、今作品では、ブレンダン・グリーソンが本当に素晴らしく、職人芸としての演技を全編で熱演した。ここのところ、「ギャング・オブ・ニューヨーク」、「コールド・マウンテン」、「ヴィレッジ」「トロイ」「キングダム・オブ・ヘヴン」と話題作に軒並み出演し、しかもすべての作品で印象に残る演技を披露してくれていたが、本作品は演技的にも彼の代表作になると言っても過言では無い。又、今作品では必要以上にダンブルドア校長を意識的に観客に印象づける場面が随所にみられたが、これは、前作で、リチャード・ハリスの逝去に伴い、マイケル・ガンボンに変わったものの、まだ、以前のダンブルドア校長のイメージが一般に残っているところを払拭するものと思われる。そして、それは見事に成功したと言えよう。ハリポタは子供の観客も大変多く、第1作から観ている子供たちには前作の校長先生は多少違和感があったと思うが、今回は、もしかしたら賭けに出たのかも知れないが、これは成功だったと言える。子供という鑑賞者を馬鹿にしてはいけない。大人よりずっと純粋で、小手先だけでは感動を与えられないのが子供たちの感性である。前作のキュアロン監督は、寧ろそんな事はあまり気にしない芸術家タイプであるが、人間描写のニューウェルは、その辺りまで拘ってくれたのである。

但し、この作品は、完全にこのシリーズを、半分子供向けから、完全に大人向けにしてしまった。勿論ファンタジーであるのだからどんな世代にでも楽しめるが、その方向性の転換と自作(一応最終章?)への展開に向けて作品の骨格全貌を明確に示した点では、何度も申し上げるが、映画作品としてはシリーズ最高傑作であった。

それにしても、ウォルデモートをレイフ・ファインズが演じていることを鑑賞後プログラムで知った。ということは次回作では顔が戻っていることを期待したいのだが・・・。原作を読んでおこうかなぁ。


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by turtoone | 2005-11-27 22:20 | 映画(は行)
b0046687_1920848.jpg新しい映画の可能性を示唆したフランク・ダラボンとスティーブ・キングの傑作「ショーシャンクの空に」から待つこと5年。このそもそもはホラーなコンビの話題作である。「ショーシャンク」は刑務所が舞台だったが、本作品は更に突っ込んで、死刑囚収監所が舞台である。結構色々な体験をしている筆者ではあるが、この辺りに関しては全く接点が無い。最も、一般人の生活からは可也かけ離れた世界の話であるから、それだけ「好奇心」という純粋な期待は、こういう作品に対して最初から余計な偏見を持たずに鑑賞することが出来るから良いのかもしれない。

最近、特に思うことなのだが、映画に適している時間って、どのくらいの時間なんだろうかと考える。色々と意見があると思うが、筆者の経験からは90~100分くらいがベターだと思う。勿論作品の主題や内容によるから、この時間は一概に、そうとは言い切れない。というのも、どちらかというと筆者が高得点をつけている作品は、例えば「シンドラーのリスト」にしても「ダンス・ウィズ・ウルブス」にしても、或いは「ブレイブ・ハート」なんかにしても皆、180~200分と、先ほどの適切な時間といっている倍以上である。では、何ゆえ、高い得点になつているのかというと、もしかしたら、これらの作品には「2作品分」の楽しみがあったのかも知れない。それに、これらの作品は余り長く感じていなかった。今年の新作で言えば、「アビエイター」なんかは然程長いと思わなかったが、「アレキサンダー」「Ray/レイ」はやたら長いと感じた。ご存知のように、「アビエイター」と「アレキサンダー」はそんなにどちらも170分程度と変わらないし、「レイ」に至っては150分と少し短い。この「グリーンマイル」も180分を越える長い作品であるが、前述した高得点作品の様に然程「見所」が随所にあるわけではないが、なぜか全く「長さ」も感じないし、筆者の採点も高い得点である。だが、もう少し編集をきっちりつめれば150分に出来る内容でもあり、だとしたら「ショーシャンク」並の評価・採点、「特Aランク」の作品になったと思うと、その辺りは残念だった。

何かとどうしても「ショーシャンク~」と比べてしまうのだが、「ショーシャンク」がしっかり現実を踏まえた希望を主題に置いたのに比べて、表題作は何かと幻想に委ねた。大男コーフィの演じる癒しの治療シーン描写は現実では考えられにくく、又、この一件の始終に係わった、看守主任ポール(トム・ハンクス)のその後の境遇に関しても、残念ながら受け入れられる物では無い。但し、現実にあるファンタジーだと割り切ってしまえば、似たようなこと、例えば平凡な人が未来を予知したりとか、虫の知らせみたいなものの、(よく分からないが)もっと大きな物だと思えば納得できないところもなくはない。ただ、解せないのは、ラストに繋がる部分、看守主任のポールと、鼠に生命を託した部分。あの辺りの解釈も理解に苦しむ。例えば、イエス・キリストは、「復活」をすることによって人間を「越えた」。しかし神に近い存在になったかも知れないが神になった訳ではない。要するに、生命根源を司る存在にまでは成れなかった。しかし、このコーフィは、復活は出来なかったが、生命を与えることが出来た訳で、この辺りのキリスト教的な整合性が着かないところが今ひとつ、感動を抑えられてしまう点ではないかと思う。

役者について書くと、トム・ハンクスは、尿道感染症に侵されて放尿するシーンが最高である。勿論、他の演技も見事だが、この作品はこの表情に尽きる。オスカーにはコーフィ役のマイケル・クラーク・ダンカンがノミネートされたが、これは印象度が強かったからであろう。筆者にはなんといっても、パーシーを演じた、ダグ・ハッチソンの演技が群を抜いている。その憎々しさといい、又、内面の弱々しさといい、どの演技を取ってもこの演技巧者を揃えた作品の中で、最も見応えのある演技をしてくれた俳優であった。残念ながら、この後映画出演ではパッとしないので、近々に復帰して欲しいと望むのである。

所謂、「いいお話し」である。そして、このいいお話しは言葉では中々通じないので、映像で分かりやすくしてみましたっていう、そういう鑑賞の仕方が一番、的を射ているのであろう。


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by turtoone | 2005-11-26 23:28 | 映画(か行)
b0046687_1058333.jpgサイコサスペンスという分野の作品をそれまで置かれていた地位から一気に芸術的に高い次元迄引き上げたという事に関して言えば記念すべき且つ、価値のある作品である。が、敢えて筆者的な評価で申し述べれば、以上の事は工作された結果論に過ぎない。まず、この作品を前述の領域迄引き上げた要素の一つにオスカー総舐めという事実がある。しかし、正直これにはクエッションマークである。この年の最高傑作は「JFK」だったと信じて疑わない。作品の構成から、その意図、時代への問題提起、斬新性、又撮影や美術に至までほとんどの点でヒツジを上回っている。敢えてヒツジが上回っていると言えば、アンソニーホプキンスの演技力と、ジョディーというヒロインの存在くらい。後述するがカメラワークに新しい可能性を示唆してくれたものの、その点でいえばJFKの実写とそれに絡めた撮影の連携を試みた編集技術と、同時にその構成を導き想定した脚本には到底適わない。逆の言い方をすれば、これだけの名作がオスカーに蹴られたのはそれだけの理由があり、やはり、アンタッチャブルな暗殺事件の全容をハリウッドの問題児がメガホンを取ったという理由以外に考えられない。かといって、主要部門をすべて受賞させてしまうというのもかなりやりすぎで、こうなると悪意の見せしめ以外の何者でもない。要するにこの類はもう作るのではないぞという警告だったのだと思う。しかし、この試みならぬ、オスカー的良識は逆効果となり、メディアは、この作品の出来如何に係わりなくJFKとその事件の全容究明を競ったのである。これだったら、作品の芸術性のみを高い評価で帰着させて、オスカー作という厚いオブラートに包んでしまった方が得策だったかもしれない。

この物語はトマス・ハリスの同名ベストセラーを完全映画化したものであるが、1960年代より全米で出没し始めた、連続殺人鬼の実話がモチーフとなっている。作品の構成としては、主役であるドクター・レクターをストーリーテイラー的存在にしながらも、その観察者として、ジョディー・フォスターという、ミスアメリカ的存在を配しているところで、鑑賞者の目線を彼女の目線に合一させた脚本は評価したい。しかし、このジョディーの目線に合わせた演出効果の部分を全編にわたって引っ張ってしまったことで、中盤以降に盛り上がりの欠ける作品になってしまった事も事実である。さらに言えば、筆者がよく指摘する、主題とクライマックスのズレが生じた作品は観ているものを戸惑わせる代表例である。この作品のポイントは、タイトルにもあるように、羊にある。幼少時代のトラウマをドクター・レクターが問診する。本来は事件解決の重要証言を取りに来た実習助手を、いつのまにか彼の患者にしてしまいカウンセリングを受けさせている。この段階から、ジョディーに感情移入している鑑賞者も同時に、医者から患者に立場が逆転するように展開していくという流れであり、これはこれで中々面白い手法である。しかし、同時に、彼女のFBI実習生という立場を強調するが為に必要以上に他人、特に「男の目線」を意識させるカメラワークが多すぎる。このカメラワークの斬新な発想自体は悪いものでは無いが、残念ながらこの作品には合致しなかった。つまり、その度毎にまた、実習生クラリスに戻され、更に、ドクター・へクターの前では患者に戻されるという連続があるために、折角、一番ポイントになっている「ヒツジの告白」の部分に焦点を絞りきれず、単なる連続殺人事件を解決する勇敢な女性FBI実習生の話になってしまったのである。これでは、ドクター・レクターをアンソニー・ホプキンスという稀代の名優を使って出演させた意味が何も無い。

残念ながら、この映画作品は、全米を震撼させた(と言われているが、興行収入も、公開日数も然程ではなかった筈である。オスカーを取らなければ、これほど話題にならなかった)というが、原作に見られる緊張感や期待感は、映像では確認することが出来なかった。実は、それを一番分かっていたのが、監督のジョナサン・デミと、ヒロインのジョディだったのではないかと思うのは、現に、このシリーズの続編「ハンニバル」、「レッド・ドラゴン」の何れにも関与していない。特に、ジョディに関しては「パニック・ルーム」という超駄作に「この作品には是が否でも出なくてはいけないと思った・・・」というコメントを残し、同時期に撮影を予定していた「ハンニバル」の出演を断った。彼女が出ていたら、このシリーズも又、見方が違ったのかも知れない。

そういえば、そのジョディ・フォスター自身も、1988年の「告発の行方」に続いて、2度目の主演女優賞(この作品は、「カッコーの巣の上で」以来のオスカー主要五冠に輝いた)と、女優として一番波にのっていた時代だったのかも知れない。序ながら、このヒロイン役には最初、ミシェル・ファイファーが第一候補だった。当時「恋のゆくえ/ファビュラス・ベイカー・ボーイズ」で注目され上昇気流にあった彼女は、この脚本の残虐さに、出演を辞退したが、ジョディは自らこの役をかって出た。しかし、残念ながら、この役どころをこなすには、エール大学卒の才媛にはプライドが高過ぎたたのかも知れない。余りにも有名なレーガン大統領暗殺未遂事件の関連等もあり、色々な意味で話題の出演となったが、個人的にはこの役はミシェルの演技を見たかったというのが本音である。

この年のオスカーには、アニメで初めて「美女と野獣」もノミネートされ話題となった。結局、話題性が先攻し、選考が甘かったオスカー史上でも後世に汚点を残した年であった。


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by turtoone | 2005-11-23 11:14 | 映画(は行)
b0046687_23222147.jpg兄ひとり妹ひとり。何処かで聞いたことのあるシテューションだと思ったら、自分のことだった。そして、不思議と幼い頃から友人達の間でも最も多い兄弟構成だった。しかし、別の見方をすればその時分から今日の少子化問題は始まっていたのであり(夫婦二人に子供二人では永遠に人口は増減しない)その自分の人生と同じ時間を架けてという長いビジョンが必要な人口少子化問題というのはに、まるで堆積を重ねる土層同様に、一朝一夕に語られるべき課題や小手先の策で解決するべき事柄ではないと思う。兄妹の二人兄弟は、同時に長男・長女であるが、同じ長男・長女の組み合わせでは姉弟の方が理想的らしい。一姫二太郎とは良く言ったものだ。これはやはり女性に潜在的に存在する「母性」の働きによるものではないかと思う。弟の面倒見の良い姉というのは微笑ましいし、絵にもなるが、妹の面倒見の良い兄というのは(本質的には多いと思うが・・・)一般的には余り美しい光景ではないようだ。

さて、表題作品では、両親の事故死以降、心を閉ざしてしまった妹を気遣う兄と、ひょんな事から同居することとなったバスターキートンをこよなく愛する一風変わった青年(ジョニーデップ)の三人の関係が物語の骨格を成している。ジョニ・デの出演作では本作を高く評価する人が多く、このDVDの持ち主であるkeenanも「フェイク」でコメントしてくれた様にこの作品を強く薦めてくれた。心の病を扱った作品は多いが、言い方は悪いがこんなに爽やかなのものは然程多くない。ジョニ・デ演ずるサムという役の「人間の持つ可能性は限りない」というメッセージが全編に込められているし、それに刺激され妹のジューン(メアリー・ステュアート・マスターソン)も、自らが封印した本当の自分を取り戻すことと、ジョニ・デが好きになっていく過程が同調していく。そんな妹の急激な変化を受け入れられず、又、一方で自分は「色々問題がある」と、決して悪気はなく、勿論世界でたった一人の血を分けた兄弟をこよなく愛しているが故に、自らの人生の事はネガティブかつ遠回しにしている兄・ベニー(エイダン・クイン)との対比が面白い。所謂、コミカルタッチなのだが、ジョニ・デの一所懸命な演技と、役柄の上ではどこからが冗談でどこまでが本気なのが、やはり分からないところにこの作品の面白さがある。

特に共感するのは筆者と同じ兄と言う境遇である。世の中というのは誰かが幸せだとその一方で、誰かが不幸せであると考え勝ちだ。確かに「ゼロサム社会」と言われた時期もあった様に、誰かか儲かっている時は片方で誰かが損をしているのかも知れない。しかし、幸福感というのは、気持ちの持ち様で自分が幸せの頂点にも、或いは不幸のどん底のどちらにも置くことができるのであり、単なる兄貴と恋人の比較でなく、最終的には幸せになろうとすることに積極的な人間に人は惹かれ、そういう類を愛するというのがこの作品の主題だと思う。

余談であるが、ジョニ・デは子供の頃からピエロが苦手で恐かったらしい。理由はその形相と奇妙な動きだったという。そのピエロのようなパフォーマンスは本作品で、メイクは「チョコファク」でチャレンジしているのが面白い。


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by turtoone | 2005-11-21 23:28 | 映画(あ行)
b0046687_10162481.jpgアメリカという国の歴史は浅い。勿論この場合の国という定義は、ヨーロッパ仕様の近代的国家に当てはまる言い方で、大地に根付いた民族の存在は古い。コロンブスがこの大地を発見したのが1492年で、歴史的発見の如くのたまっているが、ヨーロッパ暦に初めてこの地域が認知されただけである。そういう言い方をすれば、この発見が今日の国際情勢の悲劇の始まりだったかも知れない、なんて書いていると、論旨がつい先日アップした「パールハーバー」と変わらなくなってしまうので、ここらで止めておく。

土地への執着というのは、世界中、どこの民族にも共通して持っている観念だ。いや、言い方が悪かったかも知れない、一言で言えば人類は皆、土地に執着がある。しかし何故最初に別の表現をしたかと言うと、執着はしているものの、その内容が細部で、民族毎、あるいは人それぞれでかなり違う。たとえば、ネイティブアメリカンなどは、大地こそが神に近い存在であると考える。アフリカンもそう考える者が多い。新大陸発見時代、地元のアフリカンに道案内兼荷物持ちを依頼したヨーロピアンが、ある場所から何日もアフリカン達が動かなかったという。不思議に思ったヨーロピアンが通訳を介して尋ねたところ、「体はこの場所に着いたがまだ魂が到着していない。この土地に、まだ魂が入ることを許されていない」と答えたそうだ。

我が国などは、もっと現実的且つ顕著である。源頼朝が武家社会を立ち上げた理由のもっとも大きな要因は御家人の地べたを守り、従来の貴族支配下の荘園に対しての争議にあたり、個々に争うよりも集団で対応した方が断然有利だと考え、武士達も、その交渉団の団長として、源頼朝が適切だと考えたからである。要するに、頼朝と言う人は現代で言えば、被害者団体会長である。が、しかし、その団長により力をもたらすために彼は幕府を開く7年も前の1185年に、全国に守護・地頭を配置している。義経が悲劇のヒーローの様に言われるが、源氏と平家の喧嘩に勝っただけ。武家社会という運動会の騎馬戦大将として活躍しただけで、生活の恩恵を何ももたらしていない。それは、実は清盛も一緒である。封建制度が武家の間で領地という土地を媒介に成立した一方で、農民はひたすらアジアでもっとも稲作に適した肥沃な土壌で米作りに撤していた。結果、江戸時代には世界にも極めて稀な大名の勢力が土地の広さではなく石高で比較された。武家は稲作生産の多い土地を求め、一方農民はより豊作を願った。戦後は各個人が不動産という有形でありながら実際は帳簿上の資産の虜になった。と言うわけでこの物語の根底を為す土地への執着とは可成、異質である。

この物語は全編が土地の話である。自分の土地を持てという父の遺言から始まり、その実現が大団円になるが、合間に新地を求めた人間の足跡をアメリカ開拓史とうまくリンクさせて描いている。しかし、一方でこの作品は最初にシアターで鑑賞したときの感動がその後ビデオやDVDで観ても全く感じられない。その原因は未だ分からないが、もしかしたら、トムクルーズとニコールキッドマンの当時夫婦の共演作品であるからかも知れない。公開当時、熱々のこの二人は、どちらもスターダムに伸し上がる発展途上だった。この作品を観て誰もがこの夫妻がハリウッドのトップスターになることを確信する、そんな役者の勢いと、夫婦共演として呼吸のピッタリあったところの両面を堪能できたのだと思う。
この作品の夫婦共演の呼吸の良さと比べると、名作であるが「アイズ・ワイド・シャット」の方は、各々の演技力は上がっているものの、何か二人の間に深い溝があると思うのは、結果論からの偏見だろうか(逆に作品としては「アイズ~」は、それが良いのだが・・・)

いつも言うようだが、この時代のアメリカ史を扱った作品をもっと製作して欲しいと願う。


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by turtoone | 2005-11-19 10:44 | 映画(は行)

ブラザーズ・グリム

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この作品はコンセプトが見事だった。童話というのは所謂、ファンタジーである。しかし、この21世紀のエンタメ界で一大勢力を形成したファンタジー勢力分布派もはや留まるところを知らない。勿論始まりはスターウォーズであったが、その原作をも超え、幾重にも積み重ねた沢山の企画と構想と描写に対し、スペースファンタジーという領域では残念ながらこれを超える物は作れないと誰もが断念した。製作者は断念すれば良いが、しかしながら、一旦上げられた視聴者のレベルという物はそう簡単には下げられない。美味しいものを食べ続けてよく「舌が肥える」というが、この場合目が肥えるとでもいうのだろうか?いや、敢えて真面目に自問自答して言えることは「目」だけではない。五感のすべてが高いレベルに持ち上げられたと言ってよいだろう。さらに、その後のスペースファンタジー作品は常に、この作品と比較されるという生みの苦しみを背負わされた。そして残念ながらスターウォーズシリーズを超える評価を与えられた同類作品は皆無である。

しかし21世紀に入り、全く違うファンタジーの傾向が現われた。ハリポタとL.O.T.Rである。この2作品はそれまで大作制作を半ば諦め、大きなシートを覆い被されたこの領域に風穴を開け、続編を発表するごとにその穴が大きく広がった。そして短期間でファンタジーの新勢力を形成し、同時にあらゆる可能性があることを提示した。来春から公開される一大ファンタジーのナルニアもこのムーブメントから輩出されたことは言うまでも無い。

この表題作は前述したような超大作では無い。しかし、グリム兄弟を余りにも有名で、又誰もが知っている彼らの代表作品の名場面と連繋させ、一般的に他の童話作家が夢と希望を与えることに比べて、残酷で人間臭さを表現したという後世の人間の論評も区々な彼らを「実は詐欺師だった…」言い切ってしまったところが凄かった。これぞ、コンセプトの勝利である。何度も書くように筆者は今年の作品の中では「ネバーランド」の評価がやたらに高いが、あの作品も余りにも有名なピーターパンを作者のジェームスバリに視点を併せて、新しい物語を構築したコンセプトであり、その定義に当てはまるのは、やはりこれもやたらと筆者の評価が高い、「恋に落ちたシェイクスピア」(まだレビューを書いていない…近々書かなくては)である。こういう作品は鑑賞前から期待も大きく、従ってその分筆者の評価もハンディが着く。2005年秋冬期待度ランキングでも第2位だった。しかし、その期待度が裏目に出ると、「バッド・エデュケーション」の様な事になってしまうのである。

結論をいうと、この作品はコンセプトは良かったが、構成はこの手の作品の「お決まり」だった。はじめに、主役人物の背景を説明するショートストーリーが入り、次に本題への導入、そりゃないだろうという主人公の行動が故の失敗と、簡単などんでん返し。更に誰でも分かる安易な謎解きと、ピンチからの脱出が幾つか続いたのち、展開上絶対無理なこじつけと、作品のどこかに隠されていたキーワードをなんとか引っつけてエンディングへと滑り込む。そう、これは「娯楽作品」の鉄則、王道である。この作品、コンセプトが良かったのに、それだけであとは斬新な物は殆ど発見できなかった。ある意味「ヴァン・ヘルシング」と全く同じで向こうは娯楽大作に撤していたから評価を高くしたが、こちらは、そのための詐欺師という設定だとすると、作品前半に抱いていた期待と興味が中盤からすべて薄れてしまい、グリム童話との連繋から「エエー?まさかあの話を持ってくる~?」というオチ迄途中で分かってしまうという有様だった。

マット・デイモンとヒース・レジャーはそれぞれ持ち味を発揮してくれた。特にヒース・レジャーは期待通りの演技だったし、これも、余り「好き嫌い」では食べず嫌いに入る俳優マット・デイモンも少しテンションが高すぎたきらいもあるが、そこそこの出来で新境地、「ボーンアイデンティティー」とかではなく、こういう役柄が出来るのであれば、これからも少し注目したいと思わせた。しかし、この作品は正直なところ、ピーター・ストーメアとジョナサン・プライスという二人のベテラン演技巧者に救われた。彼等二人が居なかったら「娯楽作品」の楽しさをも感じることが出来ず、本当に企画倒れになってしまったところであった。

この作品がそうであるとは言わないが、最早、大作になりきれない中途半端なファンタジーは必要とされないのかも知れない。


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by turtoone | 2005-11-16 00:06 | 映画(は行)
b0046687_23183042.jpgこの作品を見ていると、結果的にアメリカという大国を世界の大戦に巻き込んだのはどうやら日本国らしい。実際問題、アメリカは他国との戦争で本国が戦場となったことは一度もない。アメリカは長いこと国内で南北戦争とその後の問題の処理に奔走していたからであろう。当時は世界に冠たる軍事戦闘力を兼ね備えた日本軍に対しての真珠湾後の応対と米国民の動揺は計り知れなく、この作品にも描かれている通り、政治も、そして国民生活もある種の不安な日々を送っていたに違いない。冒頭に書いたように、結果的にはこれが「世界の警察」アメリカの序章になっているとしたら(事実なってしまった・・・)現在の世界状況を基礎をわが国の安易な発想で作り出してしまったのである。確かに日本は、欧州の植民地支配からアジアを守ろうという大きなビジョンがあった。しかし、それはあくまでも後世、つまり現代の見方からすると、必ずしもその方法論は正しかったとは言えない。良く「それは歴史に委ねよう」という種の言葉を、その時期その時期の偉大なる政治家はしばしば口にするが、もしこの時期のことを「委ねた」としたら、残念ながら、大いなる間違いだったとしか言えない。但し、これだけは申し上げるのは、敗戦国だからとして日本やドイツだけが悪い言い方をされるのは、「勝てば官軍」の理屈であり、やはりどう考えても、世界中が間違った時代だったのであり、しかもアメリカの参戦は、新世紀に入ってもそれを継続させてしまっているのである。

Remenber pearl harborは、現在でも米国民の根底を形成する一要素になっているようだし、この作品が真珠湾攻撃60年(アメリカにも還暦って感覚があるのか?)を記念して制作をされているという意図があるとしたら、なんと疑心暗鬼な国民性だと疑ってしまう。我が国は浮沈空母(それも困るが…)では無かったのか?

作品についてだが、ブラッカイマー制作の中でも特に撮影効果と技術の拘りを感じる。真珠湾攻撃にスポットを宛てた作品としては、「トラトラトラ」や「ファイナル・カウントダウン」等があるがたとえば零戦の低空飛行シーンといい、或いは、戦艦アリゾナ沈没シーン(個人的にこのカメラワークは後のキングアーサーの氷原シーンに連携していると思う)の描写は流石だと言わざるを得ない。但し、この作品は娯楽作品ではないので、残念な点をあげれば、人物に感情移入するのが難しかったと言える。主役の二人は竹馬の友で飛行機乗りが夢。しかし一人は文字認識の障害が、もう一人は先の世界大戦で外傷的精神傷害になった父を持ち、そして愛している。戦争の持つ悲劇として、形あるものの破壊・崩壊と共に、人間の絆を引き裂くという無形な残酷を表現するのは常であるが、前述した撮影効果に比較すると、ストーリー構成が余りにも平坦であるが故に後半30分は、ルーズベルトが車椅子から立ち上がる場面以外に見所はなかった。

この作品は日本でも、特にシニア層に支持された。筆者は以前サイパンにいった際、広島原爆投下の任を受けたパイロットが、その重さに妙切れず失意のどん底に落ちて任務を執行できずに裁判にかけられたり、実際に参加した人間が帰還してからより、自問自答、自己嫌悪に陥り志願除隊や自殺、はたまた精神障害に至った米軍兵が何人も居たことを現地の老人から聞いた。その史実と比較して、この作品におけるRemenber pearl harborはこんなにいとも簡単に描いてしまって良いのかという疑問符を投げ掛けたく思う。歴史に学ぶという事は、過去を忠実に再現することも然りだが、もう一つ過去の反省に立った改善のための提言だと思うからである。勿論、歴史は人が作るものである。が、だからといってこのアメリカの進路を左右するほどの大きな歴史的分岐点を竹馬の友だけで表現するというのは、余りにも短絡的過ぎないだろうか?

180分つきあって、残ったのは疲労感だけであった。

最後に俳優については敢えていう必要もない、既に御馴染みである3人、「グッド・ウィル・ハンティング」のベン・アフレック、「ブラック・ホーク・ダウン」のジョシュ・ハートネット、そして「セレンディピティ」ケイト・ベッキンセイルが共演している。ここでも輝いているのは、ケイトであり、その後の「ヴァンヘルシンク」「アビエイター」の好演の予感を既にこの作品の時点で感じることが出来る。イギリス出身でオックス・フォード在学中から映画出演し、ついに3年で中退してしまうほどのめり込んでしまった彼女は、それでいて妙にインテリぶっていないところに好感が持てる女優である。久々に、モノクロフィルム映像で観てみたい、そんな女優だと思う。但し、この作品は、真珠湾60年記念作品化以外に、何も得るものは無いが・・・。


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by turtoone | 2005-11-14 23:30 | 映画(は行)
b0046687_23173179.jpg筆者のように最近ジョニー・デップのファンになった人間のデップ評は、以前から彼の大ファンである人間にとっては、甚だおかしいらしい。特にこの時期まで「ネバーランド」今年度のマイベストにあげていることなど、もっての他だそうだ。あの作品はデップの映画ではなく、フレディハイモアの作品だと豪語して聞かない、Keenanもその一人で、日中半径2メートル以内に居ることの多い彼女に対し、作品内でそのハイモアが「ピーターパンはこの人だ」と言っているではないかと意味の無い反撃をしている。以前にも書いたが、デップの事を知らなかった訳でも評価が低かった訳でも無い。敢えていえば衝撃的な出会いが無かったのかもしれない。なぜなら、彼に関連する人達の評価は至って高いし、好き嫌いで言っても、好きに分類される。親友だったリバー、フィアンセだったウィノナ、弟役でブレイクしたディカプリオ、同期のブラピ、それに、ベストコンビとも言えるティム。これらは、すべて筆者のテリトリー内に所属する固有名詞なのである。そして、筆者の衝撃的な出会いとは、「パイレーツ・オブ・カリビアン」であり、「ネバーランド」であった。出会いというより再会なのかも知れないが、特に「ネバーランド」は個人的にも大変興味があったジェームス・バリ役であったことも大きい。筆者の場合、どうしても、文化的、芸術的(自分がそういう素養のある人間ではないからかもしれないが・・・)、更に歴史物に関しては、何度もいうようであるが必然的に評価が高い。誰もが知っているピーターパンの切り口を変えて、なるほど、こういう描写もあるじゃないかって再確認させて功績は大きいし、印象度として作品の中で大きなパーセンテージを占めているデップを評価しなくて、一体何を評価すれば良いのだろうかと思う。そんな訳だ。

さて、そのデップの出演作品としては、丁度、この表題作品の時代が筆者の認識に欠落していると自己を振り返る。この前後だと、「エド・ウッド」は観ているし、「ブレイブ」も観た記憶がある。そして、「スリーピーホロウ」は当然観ている。しかし、「エド~」は別として、実は余り印象に残っていない。映画作品との出会いというのも、人間のそれと同じで、実際に筆者の様な一映画好きのブロガーというのは、評論家と名の着く方々のように確固とした基準軸を持っているものでなく、1st.impressionで評価をしてしまうものが多いのであろう。それに、その間の作品、例えば、「デッドマン」、「ドンファン」、「ラスベガスをやっつけろ」等という辺りは、全く記憶が無い。尤も家内と観にいった映画も忘れて、後々に2日ぐらい口を利いて貰えなかったこともあるくらいだから、本当のところ、余り当てにならないが。

「フェイク」とは、「偽造する」とか「~のフリをする」という意味であるが、原題は"DONNIE BRASCO"、つまりデップ演じる役の潜入名である。そういえば、keenanは「原題」に五月蠅い(というか良く知っている)。原題が主人公の名前というのも多く、そのタイトルを原題以外で表現するのに英語でタイトルをつけるというのも、又、この外来語文化の持つ面白い国の一面だ。"ERIN BROCKOVICH"は「エリン・ブロコビッチ」で良いのであって、何も"JERRY MAGUIRE"を「ザ・エージェント」にする必要はないのである。この作品だって、それを言うなら"Fake"より"Sneak"なんじゃないかと思う。まぁ語呂は前者の方が良いが・・・。この作品も実話だそうで、「ヴェロニカ・ゲリン」でもそう思ったが、どうして人間というのは、時としてこんな恐怖のどん底に自らを叩き落としてまで、任務と正義感を全うするのであろうかと思ってしまう。又、デップはその中にあって適度な「影」のある演技が絶妙である。最初に髭を生やしているがそれに拘りがなく、あっさりと剃ってしまうと浮かび上がる精悍な顔つきと、物語の進行として、彼の素性を明らかにしていくコンビネーションが堪らないほど観客を嵌め込んでいる。このストーリー展開は見事だった。彼のこの時代の作品をもう一度、観なおしてみる良い機会になった。当分、keenanのコレクションにお世話になるかもしれない。


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by turtoone | 2005-11-07 23:37 | 映画(は行)
b0046687_1714777.jpg「中国に伝説となった三人の姉妹がいた。 ひとりは金を愛し、 ひとりは権力を愛し、 ひとりは国を愛した・・・」で始まるこの香港と日本の合作映画であるが、しかし、いやいや彼女三人が本当に愛したのは「宋家」という家ではなかったのか? オリジナルタイトルも「宋家王朝」である。それはさておき、以前「ラストエンペラー」のところでも書いたが、中国史を描いた作品の中で、中国国内で制作されたものを除いては、近代のモノばかりであるのは残念だ。中国4000年の歴史の中には、数々の英雄、様々な王朝や権力、偉大なる賢人・策士、獰猛な将軍、そして、決して描写しきれることの無い雄大な大自然の姿を今をもとどめているのである。そしてこの国は、平気で海賊版を作っても法で縛らないし、アヘン戦争以降、戦争の名目で国外に出兵したことなど一度もないのに戦勝国だし、国境を無視して他国の天然資源を平気で略奪するし、輸出しているキムチに寄生虫の卵が入っているという事実を突きつけられると、輸入してもいない韓国キムチの虚偽報道をするなど、いやいや、凡人の筆者には全く理解不可能なのであるが、一方でこの中国4000年の興亡を追っていると、何かそこに、この国土の潮流を多少は理解できるような気がしないでもない。だからという訳ではないが、前述の通り、この国をもっと理解するためにも、中国史の壮大な物語の映画作品化を期待したいのである。

そんな中、この映画には「孫文」が描かれている。恐らく、「世界史の偉人100人」を上げれば、必ず殆どの人がこの名前を入れる出あろう「孫文」。筆者にとってもそれは当然だし、「中国史の10人」いや、「中国史の偉大なる5人」の5人の内には必ず入れるであろう偉人が孫文である。5人となると難しいが、「太公望」、「始皇帝」、「孔子」、「諸葛亮」とやはり「孫文」は筆者の中では絶対「中国史の5人」に選ぶことの出来る人物である。ご存知の様に孫文は、ハワイにわたり医師になり、東京で「中国革命同盟会」を結成し、「三民主義」を提唱。その後も激動の人生を歩んだが、「革命いまだならず」という言葉を残して1925年に亡くなった。孫文がもう少し長く生きていれば、中国ももっと国際的に大きな変革・成長を遂げていたに違いないし、極論を言えば、日本が中国に攻めることも無かったかもしれない。そう考えると歴史というのは皮肉であり残酷でもある。

作品に関して少し書くと、題材としては大変良かったが、この作品の唯一の欠点は回想シーンが多すぎたこと。それも、所謂フラッシュ・バックでなく、既にこの作品の中で出てきたシーンを何度も繰り返している。これは映画の手法としては完全にNoである。これは。例えば大河ドラマ「義経」で、死んでから何年も経つのに、何度も渡哲也の清盛(おまけに演技が下手なので耐えられない・・・、何年か前の信長と同じ)が出てくるのと同じで、まだ、続きもののドラマなら許せるが、映画作品で、しかも同じシーンを何度も出すというのは、それがサスペンスの謎解きのような「主題」であるのならまだしも、全く許されない脚本・演出である。これが全体的に作品の評価を下げたし、テンポも悪くなってしまった結果、もっともこの作品で重要視しなければいけない「三姉妹」の心理描写ができなかった。逆の言い方をすれば、三姉妹の原点が、回顧シーンにあるとしたら、意地悪かも知れないが冒頭に書いたように、この姉妹が本当に愛したのは、お互いのパートナーの生き方でなく、「宋家」という自分の実家、つまりは大いなる「ファミコン姉妹」の物語だったということになってしまうのである。同時にこの三姉妹の夫達も上手く描けなかった。特に。蒋介石に至っては、彼が何故、中国本土を捨てなければならなかったのか、又、孫文との関係も、中国共産党との経緯も、もっと克明に描くべきだったと言える。145分の作品にそれらを加えると160分という長いものになってしまうが、だからその分回顧シーンを全部カットして良かった。それで丁度良い長さになる。視点が良かっただけに大変残念な作品である。

もうひとつ、この作品は香港と日本の合作なのに、またまたいい加減な日本が描かれている。この国の文化や伝統、古き良き物というのは、そんなに世界に紹介するのに難しいものなのだろうか?


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by turtoone | 2005-11-03 17:21 | 映画(さ行)