暫く療養と入院、更に手術をしまして映画ブログは更新を怠っておりました。作品は鑑賞してますので、徐々に復帰させていただきます。今後共、よろしくおねがいします。


by turtoone
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シンデレラマン

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日本を代表する舞台演出の巨匠が「久々にいいね」と言っていると、その久々は一体何時から「久々」なのだろうと・・・。そういう視点を持って望んだ今作品の鑑賞であった。結論を書いてしまうと、巨匠は何時からか分からないが、筆者にとっては、1979年「チャンプ」以来、四半世紀ぶりに「いい」作品である。四半世紀だから「久々」なんて時間では無い。そして、この「いい」が何に対していいのかというと、「チャンプ」に値するボクシング映画だということである。筆者にとっては、「チャンプ」がボクシングを題材にした作品としては、一番評価が高い。勿論、「レイジング・ブル」も「ロッキー」(但し、1作目のみ)も良いが、一番というのは「一番泣いた」ということである。という流れから言えば、おいおいあんたまた泣いちゃったのって言われそうだが、そう、「シャル・ウィ・ダンス」 ぐらい泣いた。とにかく画面見ながらずっと泣いていた。つまり、「シャル・ウィ~」以来泣きまくったのだから、これなら「久々にいいね」っていう時間なのかなぁ。ひとつだけネタバレさせて頂ければ、序盤の「サラミ事件」から泣けてしまうから、そう、これもやはり家族愛の深い作品なのである。そして、今の筆者は俄然そのことについてはとても「弱い」。

ストーリーについては説明も評価も不要。そう、絵に描いたとおりのサクセスストーリーである。しかも、今回はジム・プラドッグという余りにも有名なアメリカボクシング史上に残る実在人物の事実を作品化したものだから、ラストがどうなるというものでも無い。しかし、こういう言い方もできる。この作品は今後の「サクセスストーリーの教科書」にもなりうる作品である。オスカー候補がどうこうではなく、サクセスストーリーを作りたかったらこういう風に撮れよということを、ロン・ハワードがハリウッドに提唱した作品である。更に言えば、そのサクセスストーリー自体を成功させるにはこういう役者、こういう美術、こういう音楽、こういう効果を使えば作品自体でお前も俺もハリウッドの成功者になれるんだぞ!! ということを自信をもって提言している作品だ。さすがに、オスカー監督ともなると懐が深い。自分の良いところを全部人に教えてしまうんだからと思う。いくつかの例を挙げると、中心人物の3人、ラッセル・クロウ、レネー・ゼルウェガー、ポール・ジアマッティ。さてこの中でひとりだけ仲間はずれは誰かというと、ジアマッティだけオスカーホルダーではないが、どうして、彼の演技は戦慄モノではなかったか? かつて、これだけボクシング映画のセコンド(彼の役はそれだけではないが・・・)役で鑑賞者に感動と握り拳を与えた俳優はいただろうか? 勿論、ラッセルもレネーも別格だが、しかし今作品はジアマッティが役柄のせいもあったかもしれないが一歩抜きん出た。作品自体はどうか分からないが、ジアマッティのオスカーは略手中といって良い、それくらいの演技だった。そしてさらに良かったのが、このジアマッティの声とリンクする、ファイト・シーンのカット割りの妙は芸術である。新手法ではないが、いままでこんなにエキサイトしたカメラワークは無かった。特に、復活のきっかけとなる試合のシーン、ジアマッティが「左-左、右」を繰り返す際にラッセルのファイト・シーンがフラッシュと共に絶妙なカメラワークでパンチ音と共にリンクする。この「左-左、右」に連動する「声-光、音」の映像効果は映画史に残る。ジアマッティが興奮して声高が変わってくる演技も絶妙。リンクにリンクを重ねた素晴らしさである。この辺りは最早人間業ではない。この映画史に残るファイト・シーンだけは、絶対に見逃さないで欲しい。

ロン・ハワードは描写の美しい監督である。筆者は、彼のオスカー監督作でかつ、ラッセルとの共演である「ビューティフル・マインド」の序盤でも、グラスに太陽光線を反射させネクタイに投影したシーンに芸術性を感じたが、この作品でもアメリカの世界恐慌時代を悲惨な中にも仄かな蝋燭の灯りの様な灯火があることを、そして決して希望を失ってはいけないということを美しく描写している。その代表的なシーンが末子のローズマリーである。今作品では時代が時代だけに華やかな描写は出来ないが、その一筋の希望を何かに表現しなくてはいけない。その全てを請け負ったのがローズマリーという末の娘である。彼女の表情の中に、父としての誇りと喜び、さらには世界恐慌で悩んでいる全てのアメリカ国民の「束の間の安堵感」を詰め込み象徴した。この手法も良かったが、同時にそれを演じきったアリエル・ウォーラーという子役も素晴らしい。将来が期待できる子役である。

筆者の採点でもAランク。欲を言えばストーリー的にもう少し世界恐慌の歴史的史実を盛り込んで、作品の中に「休憩」箇所を作ってくれても良かった。同時に144分という時間を費やすには内容に膨らみがなかった。この辺りは良い作品だった故に、厳しい評価かも知れない。なかなか「特A」のお化け作品は出てこないものだなぁ・・・。


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by turtoone | 2005-09-25 23:40 | 映画(さ行)
b0046687_0195866.jpgラッセ・ハルストレム監督特集なんて思いつきで初めてしまったが、何と言ってもこの作品が原点であることは間違いないだろう。本来ならこういう「誰か」の特集をする場合には、作品の古い方から追っていくものであるが、今回は全くの思いつきだったし、又、(何度も言う訳てはないが・・・)この作品も他人に貸していた。そんなことは最初に確認をしておくべきなのであろうが、しかし、それでもやってしまういうところがこのブログ及びレビューに「利用価値が無い」ところである。おっと久々にブログタイトルの基本に却ってしまったようだ。この作品が1988年の日本公開当時から(確かこの作品より前にラッセ監督作品が日本で公開されたのは、「アバ・ザ・ムービー」だけだったと記憶しているが・・・)筆者にとっては、色々な「新しい発見」と「興味」があった。その多くは「スウェーデン」という当時も今も自身にとって全く未知な世界の考え方と芸術性である。特に、前述した「アバ」以外にも知っていることといえば、王国であること、林業が盛んで木造建築と家具に定評があること、そしてやはり壮大な「実験国家」であり「性教育」的先進国であることであった。勿論、当時もスウェーデン映画というだけで、その辺りへの期待が(というか、それが・・・)一番大きかったに違いない。そして、この作品はテーマも勿論そうであるが、この未知の部分の表現、セクシャル・ライツな部分に全編を通して引かれたことは事実である。

特に、サガ役のメリンダ・キンナマンは、チャーミングでありまた、セクシーな役柄だった。思春期の少年少女によくある性倒錯な部分を異性のフリをすることによって健全を保持しようとするものの、主人公のイングマル(アントン・グランセリウス)には特別な思いを感じる。実は、このふたりのやりとりが作品内の大きなテイストになっていて、この北欧的「小さな恋のメロディ」な箇所が無いと、この映画の本質は、小難しい社会派作品、それも北欧の・・・という、大変つまらないものなってしまうところであった。しかし、この二人のもどかしいやりとりの裏に「思春期の純愛」と、同時に北欧の実験的セクシャル・ライツの両面のテイストを感じることがこの作品進行に大いなる期待を持たせるのである。これが意図的かどうかは全く分からないが、ラッセ・ハルストレムという名前を「アバ・ザ・ムービー」以来、映画界の浸透させる効果になったことは間違いない。

ここでも、先日「シッピング・ニュース」のレビューで書いた様に、「居場所」が大きなテーマになっている。冒頭に書いたようにこの作品は「原点」であるように、このスウェーデン作品の中で、監督自身が色々な居場所を求めている。例えば、このスウェーデンという実験大国の行方である。また、主人公少年が色々自分と比較するときに話題にする世界のトピックスでは、自己、及びそれらを取り巻く人々と、更には全く関係ない人々までの行く末を案じている。そして、何回かその場所を変えることによって「視点」を変えることを試みる。興味深いのは愛犬の扱いだ。最初は、愛犬シッカンであったのが、最初の移動から、そのシッカンから対象がライカ犬に変わってきている。実は、筆者はこの点に必要以上に注目した。それは1985年、この映画が本国で封切られたときのスウェーデン、並びにヨーロッパ、及び、東西の冷戦である。政治的には中立を保持するこの国は、実はこの当時も第二次世界大戦時に義勇軍を作って中立国違反を犯したことを国の内外から指摘され続けていた。後々、東西冷戦が終わるまで、この国は「アバ」という世界的なミュージシャンを輩出しただけで、ずっと世界の中で難しい「場所」にあったのである。これが、犬が変わり、同時に主人公の視点が変わっていく過程という「実験的作品」になっているのである。恐らく、このテーマは監督自身の苦悩の表れだと思う。ラッセ監督は「悪者を作らない」といったが、この国家が欧州や世界で認知されるためには「悪人」が存在してはいけないというの根本的な主張なのであろう。

映像の古さは隠せないが、しかしそこが少しエロチックに映るところも良い。強烈な印象を期待すると裏切られるが、淡々と進む映画ファン必見の作品である。


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by turtoone | 2005-09-20 00:24 | 映画(ま行)
b0046687_23134496.jpgアメリカ制作のコメディ・ドラマであるが、所謂アメリカン・コメディでは無い。この「カレンダー・ガールズ」の作品化にも係わることとして、今、アメリカ映画界に蔓延している病巣として現代社会を描いた「フィクション作品」が著しく減少している。映画界だけの問題では無いが、これは一大事だと思っている。フィクションというとどうしても未来・ファンタジー物が殆どで、現代物は少ない。勿論、原作となる作品が書かれていないという問題もあるかもしれないが、これは筆者の年代から以降に、それだけの創造力が育っていないという部分にも関与してくるのではないか。そう、このテレビの申し子世代の人間は、イマジネーションというカテゴリーをそっくり削り取られたに等しいと言えるのである。例えば、桃太郎を創造した時その姿は様々で、ある人間は190センチの大男で大太刀を天から振り落とす勢いで鬼を一刀両断のもとに切り捨てると思う人がある一方、いやいや、桃から生まれたというほどだから、小さく145センチくらいの男(一寸法師が混ざったりして・・・)で鬼たちの間をすばしこく切り抜け成敗したと思い描く人間もいるだろう。さらには家来たちに至っても、犬は柴犬や狆などの伝統的な日本の小型犬だと思ったり、いや、「花咲か爺さん」のポチ(シロという節も・・・)が混ざって白い犬だったりしているが、これらはどれも間違いでない。ところがどうだろう「ドラえもん」いったら、下は一昨日やっと言葉を話せるようになった幼児から、上はお年寄りまでの内、恐らく9割以上の人は、丸顔で四次元ポケットを装着した愛嬌あるネコ型ロボットの顔を思い描くことができる。そう、これが視聴覚の強さであり恐ろしさである。現に筆者もピーターパンといって、幼少のころ枕元で聞いたジェームス・バリでなく、ディズニー・アニメのティンカー・ベルを真っ先に脳裏に浮かべられるのもこの視聴覚支配力の恐ろしさである。つまりはこういう世代から新しい創造が生まれる確率は極めて低い。

「カレンダー・ガールズ」の元ネタがフィクションでないと知ったときも、この視聴覚世代の影響を強く感じた。ひとつは、この如何にもフィクションらしい発想であるが、本当に誰もこういう設定で小説を書いていなかったのかということである。しかしどうだろうか、もし、このストーリーを書いて現代の編集者に持ち込んだり、小説の新人賞に応募したところで、恐らくデスクには上がらないし、文学賞もバイトの下読み者段階でボツにされてしまうだろう。或いは、テレビメディアの脚本賞にも該当する内容では無い。つまりは誰かが書いていたかもしれないが、現代では誰も相手にしなかったということだ。これは、審査する輩も最早視聴覚世代だから、この原作の「ババアのヌード?」というだけでそれに美的イマジネーションを感じることが全くといって出来ないのである。まさに貧困の病巣である。日本でも、恐らくこういう発想の出来る様な人は年代的にも筒井康隆センセイぐらいで、それも筒井センセイが書いたから価値があるようなものであろう。本当にこの作品のことだけでなく、フィクションの未来は暗い。宇宙モノ、ヒーローモノ、大作ファンタジーはどんどん大袈裟になるし、一方で現代モノは、現代の中で処理することができず、「精神」・「霊魂」・「近未来」といったレシピを加えることによって悪戯に終着点を誤魔化すか、或いはミステリーやサスペンス、更にはホラーの様に入り口からして無理な設定を植えつけることによって、その時代背景としての現代を表現するに留まっているのみである。悲しい現実である。

作品で一際輝いているのは、ジュリー・ウォルターズである。「リトル・ダンサー」のウィルキンソン先生であり、「ハリー・ポッターアズカバンの囚人」のロンのお母さんである。また彼女の親友役でもあるヘレン・ミレンを初めとしたイギリスの良い俳優さんがたくさん出演しているのも特徴。さらに、物語をより強く印象づける大地の景色が見事である。この大自然にはぐくまれた小さな町だからこそあった出来事という部分が強調され見事に表現されている。そして、フィクションにありがちな「妙なコンプレックス」への展開がなかったことに、更にこ物語の完成度の高さを感じる。「事実は小説よりも奇なり」の「奇」は、この場合フィクションだったら余計に話を発展させて最初の発想を台無しにするところが、適当なエンディング(勿論、事実としての彼女等の功績と募金額は素晴らしい)でラストを抑えた「事実の勝利」という「奇」であった。


より事実の様なフィクション作品に期待したい。そしてこの作品もそういう意味で映画好きにはレンタルで十分なので、ご覧いただきたい一本である。


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by turtoone | 2005-09-18 23:28 | 映画(か行)
b0046687_1223665.jpg8月のお盆時期にラッセ・ハルストレム監督ミニ特集を連載したが、それをみてくれた友人からDVDの返却があった。凡そ半年近く貸していたので延滞料だけで何枚DVDが買えると思うかと言ったら、別の同監督の作品を持ってかれた。「オマエの記事読んだら観たくなったよ」だって・・・。持つべものは友達って本当かねぇ。しかし、この返却はうれしい。何しろこの監督を語るのに「シッピング・ニュース」は欠かせない。久しぶりに観たがその筆者の主張は変わらない。また、この作品は現時点ではラッセ監督の集大成であることも確認した。

作品は、大きく三つのテーマを持っている。「決別」と「再生」と「共生」である。しかし、これが順序良く語られている訳ではない。導入は「再生」である。子供時代に受けた恐怖感からある男が自分を取り戻す「再生」から始まる。しかしそれらのことで明らかになってい自分のルーツとの「決別」がある。これは単に自分自身がその歴史から決別するだけでなく、過去を引きずらないというテーマが作品全体の土台を作っている。そして、その「決別」と大きくリンクしているのが、大自然との「共生」である。個人を作るのは時代、時代をつくるのは自然という集合帯の構成の中に、この物語は悠然と語られていく。

ラッセ監督の作品に共通することは、「悪役」を作らないことである。それだけでなく、「悪役」を作らないのにこれだけ感動的な作品を作ることができる妙技である。物語というのは、単純に作者が表現したいラインを「正」とすれば、その点対称の部分を「誤(悪)」を作ることによって正が強調される。文学は自分のペースでその展開を楽しめるものであるが、映画には鑑賞者のペースは様々であるから、論点を明確にするには、作者のラインから一番遠いもの、つまり、「誤」や「悪」を作ることが手っ取り早く、同時にわかりやすい。良く、原作よりも、映画の方が「悪役」がにくにくしく思ってしまうのはそういう手法が上手いからである。しかし、この監督は敢えてそれを作らない。最近分かったことは、「作らない」のでなく、この監督には最初からそういう考えがないということだ。「人柄」と言ってしまえばそうなのかも知れないが、共演者の全てが口を揃えて言うように、本当に「心の暖かい人」なのだと思う。そういえば、メイキングなどの出演映像を見ていても、「巨匠」という感じが全くしない、素朴な人の様に映る。

もうひとつ必ず彼が大きなテーマにしているのが「場所」。特に人間の「居場所」である。「サイダー・ハウス・ルール」「ギルバート・グレイプ」「ショコラ」「マイライフ・アズ・ア・ドック」と、彼の代表作には、全て「居場所」が大きなテーマになっている。それぞれの作品でこの「居場所」に関する扱いが多少違うが、この作品と「ギルバート・グレイプ」はクライマックス部分での居場所の扱いは大変似ている。しかし一方で共通しているのは、映画の結末はひとつの通過点であり、出演者の居場所が着地している訳ではない。人生と同じ様に常に動きがあり、逆に言えば、どんな人間にも、必ず居場所があり、更に言えばその居場所は何処にあるというものでは無く、ここも、そこも、あそこも自分がそう思ったところがその人間の居場所なのであるということを力説している。「シッピング・ニュース」では、それを「対自然」から、「対歴史」から、そして幼少時代に植えついた恐怖感からの再生という「対自分」という3つの側面から見事に描いていることから、これらの作品の集大成という見方もできる。

ストーリーが抜群という作品ではない。にも係わらずこの中で語られている沢山の重要な事、ケビン・スペイシー、ジュディ・デンチを初めとした素晴らしい演技者の共演、美術、音楽、撮影はどれも素晴らしい。映画ファンであれば「色々な見方」のできる作品であり、同時に何時でも見たいときに手元に置いておくという、是非、ライブラリーに置いておきたい一枚である。冒頭に書いた様に筆者は半年も友人の手元に置き放しであったが。序でながら、まだ「マイライフ~」が返却されていない!! Tよ、序のときで良いから返却してくれぇ~。


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by turtoone | 2005-09-17 12:26 | 映画(さ行)
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ウンパ・ルンパ族の歌と踊りを見て、思わず「木村拓哉合唱団」を思い出してしまったのは、恐らく筆者だけだと思う。そう、「チャーリーとチョコレート工場」の鑑賞は、今年下半期の大きな目玉作品のひとつであったが、何を隠そう、一番印象に残ってしまったのは、この、ウンパ・ルンパであることは間違いない。コメディでもあるが、妙に人間社会のへの風刺と少年少女への教訓がコメディ・ジャンルの範囲を超えて述べられているということは、ディズニー作品のコンセプトに該当する。ウンパ・ルンパが歌詞の中で物語の一端を担っているという面では立派なミュージカル作品でもある。要するディズニー的コメディ・ミュージカル・ティム・バートン風とでも言うのであろうか、これは、ある意味で新しい映画ジャンルの出現ではないだろうかと思う。特に、ウンパ・ルンパのシーンは、CG合成でなく、ディープ・ロイが、少しずつ場所を移動し、かつ少しずつ踊りや表情を変えて、何度も撮影を試みたという(やはり木村拓哉合唱団じゃないか?)。この辺りが例えば、ティズニー・アニメの「ノートルダムの鐘」以降の作品でCGによって群衆一人一人の人物の動きを変えるという技法のまったく逆の考え方をしているところが凄い。映画を取り巻く技術環境が大きく発展・変化したとしても、常に「自分の発想」を自負している監督だということも、こういうところに窺える。だからこそ、このシーンがもっとも強烈な印象を残したのである。

たが、一方でこのウンパ・ルンパの「楽曲」に繋がる「5人の当選者」のキャラ設定も絶妙だった。しかも、このキャラクター、やっと字幕の漢字を何とか把握できるようになり、いよいよ吹替えを卒業したばかりの10歳の次女にも前半でネタバレしてしまうほど見事で単純明快な設定なのである。ゴールデン・チケットを手にした5人の子供たちがそれぞれ、分かりやすい環境、分かりやすい性格、分かりやすい体格、且つ分かりやすい顔立ちをしている点もこの作品、いや、この監督の高い創作力を物語っている。そして、この作品についていえば、すべてはエンディングや、ウィリー・ウォンカ(ジョニー・ディップ)の生い立ちではなく、ウンパ・ルンパのオンステージから逆算して発していると思われるところが、この発想を終着できる創造力を持っているところである。また、ティム・バートンも、自身のための色々な仕掛けをしてくれているのが可笑しい。「バット・マン」を感じさせるオープニングだったり、「シザー・ハンズ」だったり、チョコレートの川には大きな魚でも泳いでいたら「ビッグ・フィッシュ」だぜと、そこまではやり過ぎない所が、筆者のような凡人と違い(すみません、又、同じ土壌で語ってしまい・・・)、彼の超一流なところである。

思えば今年度の新作鑑賞は、「ネバーランド」の感動から始まった。あの作品は勿論ストーリーもさることながら、ジョニー・ディップと、フレディー・ハイモアの演技力が涙と感動を誘った。特に、フレディーを見ていると(特にこの作品では貧しい生活環境もあり)余計に本筋以外の感動を呼び起こしてしまう。勿論、テイム・バートンがそんな人の映画の感動を計算に入れて作品を作るような輩ではないが、鑑賞者の側には、ディップとのコンビは、すぐにでもあの作品にフラッシュ・バックできる筈である。そういう勝手なエモーションをしかし最後には超えさせてくれるところに、今回でいえば、ディップの役づくりと、フレディーの末恐ろしい表現力が、鑑賞者の感動体験を遥かに上回っている。オマージュとして、最後には「ネバーランド」と同じというところも、ティム・バートンの「落としどころ」の妙であろう。

但し、採点が難しい作品になった。悪いところは何もないのだが、どうしてもティム・バートンの場合は彼自身の過去作と比較してしまう。勿論、人様へのお薦め度は満点に近い。勿論、シアターで、できれば家族で、更に小学生高学年は字幕をお薦めする。


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by turtoone | 2005-09-11 15:36 | 映画(た行)

奥さまは魔女

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ハリウッドのリメイク・ブームは相変わらずなのだが、この作品は映画化は初めてなのでこの定義からは逸脱するのかな? まぁ細かいことはどうでも良いのだ。大概はテレビよりも映画化された方がスケールも大きくなり、なるほどって思うところが沢山ありそうなものなのだが、如何せんこの「奥さまは魔女」は絶対に企画倒れであった。確かに、映画作品になって、内容が映画らしいディテールになった。しかしだからと言って作風が良くなった訳では無い。恐らく、テレビシリーズの様に「奥さまは魔女だったのです」という仕掛けをするのは、テレビと全く同じオープング(結論を言ってしまえば、そっちの方が良かったかも知れない。)にするしか方法が無かったに相違ない。だから導入をこねくり回した挙句に、落としどころを最後まで無くしてしまった。ダーリンは予告編で最初に観たときは、これが噂のピータージャクソンの新作かと思ったほどの容姿だったが、中々繊細な部分を出せる俳優だということが分かった。というよりも、劇中劇でニコール・キッドマンの旦那役という設定なのだから、映画作品と全く逆で、「如何にニコールを目立たせるか」って役柄(ということは、ニコールが落ち目ってこと?)というのが、意識していない風刺だとしたらやたら可笑しい。それだけでラジー賞行きでしょうなと、本当に笑ってしまった。

シャーリー・マクレーン!!・・・って、この何か富士山頂から大声で叫びたくなるような名前。凄いですよね。この名前、大好き。勿論、彼女自身も大好きなんだが、いやいや、どうして、声出てなかった。多分、殆どの人がそう思っただろうと。だから彼女に代わって、大声で「シャーリーーーン!!マクレーーーーン!!」って、客席から本当に叫びたかった。台詞をアテレコしてあげたかった。このダーリン以上に重要な役柄の配役が彼女だと聞いたときにそれはそれは嬉しかったが、同時に彼女の年齢を考えたときに浮かんだ最悪のシナリオ。まさに「その通り」のお出ましになってしまった。お疲れ様という言葉以外には何も見つからない。筆者が彼女の大ファンぶりは、「愛と追憶の日々」をご参照頂きたい。

以上である。

そこで、結果「企画倒れ」になった要因は何なのか? まず、俳優に頼りすぎた。もし、この映画化が決まる前に、「サマンサのクチュクチュ」が一番似合う女優は誰かと言ったら(或いはどの女優にサマンサのクチュクチュをやって欲しいか? おんなじか・・・)、それはアンジェリーナでもなければ、キャサ・ゼタでも、セロンでも、勿論メグ・ライアンなんてことは絶対にない、間違いなくニコールがダントツの1位になるだろう。そう、ファンが観たかったのは、魔女になったニコールではなく、銀幕一杯のクチュクチュを観客に向かってやってくれるところなのである。だから、映画では無く、「マザービスケット」のCMで良かったのだ。逆を言えばダーリンにジム・キャリー・クラスを配して、女優は新人で良かった。この劇中劇と同じ様になのである。これが第一点。

もうひとつは、21世紀版の「おくまじょ」を観たかった。そう、それはハート・ウォーミングな物でなく、魔女がサイバー・テロかなにかと戦ってしまうという内容。勿論劇中劇なんて必要ない。テレビと同じオープニングなのだが、パソコンをいじっていたタバサがネット空間に引き擦り込まれてしまう。そこにIQ300の科学者が(おっと、こっちがキャリーかな?)サマンサに挑戦状を叩きつける。かくして戦いの場は四次元空間へと持ち込まれる。そこでズタズタになるサマンサ(そういうシチュエーションだとニコールも良いかも~)。そして、観終わった映画ファンの殆どすべてがボロクソに批評する。やっぱり、「おくまじょ」はテレビ版が最高だと・・・、少し前米倉がやったけど、あれよりも更に酷かったなぁ~と。どうせならそこまでやって欲しかったと思うのは・・・筆者だけだということを願う。

追記 最近レビューがガタガタになって来たというご指摘を頂いておりまして、この場をお借りして、深く深くお詫び申し上げます。今後は益々精進し、一人前のブロガーを目指すべく、心を入れ替えた次第でございます。


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by turtoone | 2005-09-08 00:07 | 映画(あ行)
b0046687_12565851.jpgこの作品にあるシチュエーションは、東京ではあるが筆者の高校時代の経験からも多少fは理解できる内容である。但し、1968年の京都という舞台設定とは可也かけ離れたものである。「イムジン河」という名曲が放送禁止になっていた(というか、当時この河が37度線を示すということも)とか、朝鮮半島に関する考え方も現代の北朝鮮問題と比較すると然程過剰な関心も無かったと思う。ノンポリだったのかなと不振り返る。筆者が通っていた学校に一番近いターミナル駅付近の一区画は、彼らのエリアであり、迷い込んだ学友がカツアゲされて帰って来ることが多かったが、日本の不良高校生には殴る蹴ると暴力を奮った警察も、そのエリア内の事件には不介入であった。その点、やはり、関西は作品で見る限りフランクだ。日本人女子高生が朝鮮人を殴ったり、恋もあり、異国の兄弟分もありと、映画だからかも知れないが、日頃の関係がはっきりしているところが違う。だから筆者の体験とは全く異次元の世界の出来事として鑑賞するとこの映画の本質が良く理解できるのである。

過去の井筒作品よりも強く感じたのは台詞の面白さだった。いつもながら日本の映画はMCが悪く(撮影隊の腕が悪い訳ではないから、収録の際の拘りか、ボリューム設定が甘い)そこがシアターで観ているのと違い、台詞を落としたときの違和感(最悪は再生しなおすという)が大きいが、例えば当時の高校生が「明日、戦争に行けと言われたらどうする」と聞かれて「学校があるから」と、筆者を含めて60年代以降生まれの軟弱な精神の持ち主とは違い、戦争に行く行かないの論点が自分の身近に置き換えられるという辺りの台詞回しは面白い。確かにこの時代にはまだ「鬼畜米英」とまでは行かなくても、「対外」という感覚の第一にアメリカがあり、国内の左翼活動や全共闘も対米であり、彼らのイデオロギーがイコール、若い人間の活動源であり世相を引っ張ったと国中が勘違いしていた嫌いがある。その環境下であれば、朝鮮半島の人たちには「同胞」とはいえないが、同じ戦争の被害者(同じという言い方は御幣があるかな?日本は戦争を起こした国であるから・・・)という共通観念があったということも考えられる。

さて、作品に関してであるが全般的にはプラスとマイナスの両面があった。まずは美術。いつも言うように外国作品とは予算が違うから過去の風景を作るのは難しいがかなりロケハンには力が入っていた。一方でバスの表示だったり、信号機だったり、川土手の風景、細かいところは電気のスイッチなど、1968年よりも後の時代の物があったのは残念。重箱の隅をつつく積りはないが、多分編集時には気がついていた場面なので、カットしても良かったシーンもあった。もうひとつは役者である。ご存知の様にこの朝鮮人役も日本の俳優さんがやっている。しかしながら残念だったのは、若い高校生役の面々は朝鮮人になりきっていたのに、ベテラン陣の方が大変物足りないというか、全く役つくりに工夫がなかった。(工夫したとしたら全く足りなかった)。これは本当に残念だ。役者という文化・芸術の場に長いこと身を置いている人間の方が、きちんと異国の文化を学ぼうとしないあの年代に多い、大陸・半島への偏見が諸に出てしまったということである。その点、高岡蒼佑、沢尻エリカ、波岡一喜などは、普段の小さな仕草から朝鮮の文化に精通した所作を研究していた。この点は脱帽。適応性というだけでなく、「ワールド・カップ」の効果もあるのか、若い世代の人間の方が対アジアの偏見が無いのだと思う。こういう部分は筆者の世代からみれば学ぶ点が多い。

基本的にバイオレンスのシーンは嫌いである。但し、井筒は実にこの点の表現は上手い。殴り合っていても妙に裏に信頼感があるという部分が伝わってくるのは、作品の延長上や脚本の過程上にあるバイオレンスでなく、そこから何を井筒自身が監督として得たいかが明確に示されているからである。「こういう映画を作りたかったんや、ええやろ」と鑑賞者に問いかける、大変正直な監督なのである。

残念だったのは、川を渡るシーンにクライマックスを持って来れなかったのが失敗。ここでエモーショナルが切れてしまったのも事実。低予算で努力賞というところか?


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by turtoone | 2005-09-03 13:00 | 映画(は行)
b0046687_22381511.jpgデミー・ムーアという女優には、これまでに3回も驚かされたひとがある。一番最近は・・・? 勿論「チャーリーズ・エンジェル・フルスロットル」の艶姿ならぬ、あの根性である。(但し、それでも現役エンジェルよりも迫力があったなぁ~。やっぱりエンジェルはTVシリーズが最高。筆者はジャクリーン・スミスが好きだった・・・)。最初にデミーに驚かされたのは、「セント・エルモス・ファイアー」と「ゴースト」の役のギャップ。そして、二度目に驚かされたのが何を隠そう、この「ディスクロージャー」の役どころである。筆者はデミーに関しては「ア・フュー・グッドメン」の様な清廉な役が好きになのだが、どうもご本人はそうではないらしい。それに、彼女は年代的にも何か同級生とかクラスメートの様な気がしてならない。それも、中学校とか高等学校とかではなく、そう、幼稚園時代かなぁ。それも、園ではそんなに意識していないのだが、ピアノ教室では一緒で、小学校は違うところに通っているのだけど、週に一度だけピアノ教室で会える。教室から帰る時間が大体一緒(というか、無理やりこっちが併せて)小さな川に架かってる小さな橋迄が同じ帰り道で何も会話がないのだけど、なんと無く前後して橋まで帰る。橋の向こうが彼女の家でこっちに取っては遠回りなのだけど、そこで別れるときだけバイバイとかじゃあねとか一言だけ会話を交わす。そんなこんなで過ごしたけど、いつの間にか見失ってしまった。そんな淡い思い出のある友達。幼馴染みというのだろうか、それが筆者にとってのデミー・ムーアのイメージなのだ。

だのに・・・、だのに、何故、IT企業のセクハラ上司に変貌してしまうのだろうか・・・。大人の世界の現実、遠き昔の淡い初恋の思い出は、泡と共に消えてしまう。と、ここまでお膳立てしてくれなくても良いと思う。そんな、夢と現実の両面を持ち合わせた、人間味があるという言い方をすればそれも正しい、そんな女優、いや、お友達がデミー・ムーアなのである。そういえば筆者は「フォーガットン」のレビューの際にも、ジュリアン・ムーアを級友みたいだと勝手な事を言ったことに今、気がついた。その内、キャサリン=ゼータ・ジョーンズを元彼女だとか言い出すかも知れない。クワバラ・クワバラ。

そのキャサゼタの旦那が頑張っているこの作品であるが、どうもマイケル・ダグラスというのは、女優の引き立て役っていうのが多い。「氷の微笑」ではシャロン・ストーンを、「危険な情事」ではグレン・グローズを、そして「アメリカン・プレジデント」ではアネット・ベニングを。演技をしないと格好良いマイケルだが、なるほど、よくよく考えてみればこんな形でハリウッドに貢献していたのだ。

しかしこの作品でテーマにしているのはセクシャル・ハラスメントでなく、重要秘密を隠蔽しながら企業合併とようとした倫理観。本来なら社長が処分される所を、結局は彼女の全責任にされた。勿論、好条件で合弁し自らもその会社のトップに収まるのが彼女の筋書きだから蜥蜴の尻尾切りは仕方がないことではあるが。といか、そんな単純なストーリーにも係わらず、幼馴染みでピアノ教室の淡い思い出のデミーが、余りにもセクシーに変貌する演技に惑わされてしまうところが、この作品の中々見応えがあるところである。ジャケットからして凄いですからねぇ。

但し、デミー・ムーアには、何か19世紀アメリカの歴史物で存在感のある役をやって欲しい。筒井筒の願いである。


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by turtoone | 2005-09-01 22:54 | 映画(た行)