暫く療養と入院、更に手術をしまして映画ブログは更新を怠っておりました。作品は鑑賞してますので、徐々に復帰させていただきます。今後共、よろしくおねがいします。


by turtoone
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<   2005年 05月 ( 22 )   > この月の画像一覧

b0046687_2121229.jpgドン・シンプソンとジェリー・ブラッカイマーコンビ製作の最後の作品である。ここに至るまでにこのコンビは「フラッシュ・ダンス」、「トップ・ガン」、「クリムゾン・タイド」という話題作を残して来た。また、そればかりでなく、映画のスタッフというと、監督や脚本が注目される中にあって、製作という仕事が一般にも注目されて来たという点ではこの二人の功績というのは大変大きい。ドン・シンプソンはこの作品完成の後、公開を待たずに他界したが、この二人で培ったハリウッドの新しい風は彼の没後もブラッカイマーひとりが引き継ぎ、「コン・エアー」、「エネミー・オブ・アメリカ」、「パール・ハーバー」、「パイレーツ・オブ・カリビアン」等に引き継がれている。

コンビ時代には、製作という役割の中でも、演出面をブラッカイマーが、キャスティングをシンプソンが分担していたという色分けがあった。この作品でも、ニコラス・ケイジが、当時まだ知名度的には今ひとつだっただけに、ショーン・コネリーとエド・ハリスという、人気と演技で観客動員に繋がるドル箱スターを共演させている。しかし、以前、「エネミー~」でも書いた様に、ブラッカイマーは、ひとりになってからは、このシンプソンのキャスティングの妙を見事に引き継いだ。そもそも、演出とか、エンタティメント性、及びプロモーションには実績のあるブラッカイマーなので、そういう意味ではキャスティングの手腕が上がり、一流のプロデューサーとなっていくに比例して彼の知名度も、又、興行収入も上がり、今年は「ナショナル・トレジャー」の大ヒットに繋がった。

この作品も、かつては脱出不可能といわれた「アルカトラズ島刑務所」通称"ロツク"に、81名の人質を取って立てこもったのは、海軍でもベトナムの英雄をトップとした屈強な面々。そこに、乗り込む一団には、かつてこの刑務所から唯一脱出をした元英国諜報員と、FBI科学兵器処理員が随行するが、鑑賞者の予想通りSEALチームは全滅。残された二人に、人質と近隣500万人市民の命が委ねられるというストーリーである。

途中、過去のアクション名作を彷彿させる場面もあるが、最終的には、人間の良心や正義感に帰着するところが、この二人がプロデュースした作品に一貫して底辺を支えるテーマとなっている。そして、その辺りに安心するのが、他のアクション作品と少々違うところである。

コネリーとエドと比較すると、まだこの時期のニコラス・ケイジには貫禄が無い。しかし、代わりに彼特有のキャラで作品全体の緊迫したムードを部分的に緩和してくれる要素を放っている。この俳優の持ち味はこれで良く、多分、歳を取っても、ずっとこの路線で行けば良い。

ラストのブラッカイマーのメッセージもほっと一息させてくれる。


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by turtoone | 2005-05-31 23:37 | 映画(さ行)
b0046687_1719338.jpg1987年、伊・英・中国合作で第60回オスカーでは作品賞・監督賞を始め9部門を独占した作品である。まさに映画における西洋と東洋の文化融合である。公開前には個人的興味として、なぜこの時代の中国を選んだのかは疑問であった。映画という媒体で、4000年の悠久なる歴史をもった中国を世界に紹介するこの限られた機会に、もし筆者がテーマを選べる立場にあったとしたら、やはり、「秦の始皇帝」や「項羽と劉邦」、月並みだが「三国志」、それに「玄宗皇帝と楊貴妃」とか、そういうテーマを選んだと思う。しかしこの時代、しかも「西太后」ではなく、「愛新覚羅溥儀」である。確かに作品名のように「ラスト・エンペラー」という観点からいけば題材としては面白いかも知れないが、正直鑑賞前は戸惑った。

実際、作品を鑑賞してまず思ったのは、この作品は溥儀を描きたかっただけでなく、20世紀まで残っていた「皇帝」という歴史上の定義と存在を、激動の20世紀を送った中国の歴史と併せて取り上げたかったのだということが分かった。筆者が前述した中国の歴史よりも地味な時代である一方、現代に残っていた最後の中世的権威が失墜していく過程として、教科書には決して語られない、見事な歴史的資料と証言を残した作品になった。

考えてみると中国という国は、ヨーロッパや西アジアと陸続きであったにも関わらず、大変独自の歴史を歩んで来た。それもご存知の様に、シルクロードを仲介し、西洋とは陸でも海でも積極的に交易があり、日本の様に島国で多くの地域と交易がし難かった訳ではない。しかしながら、18世紀までは、国境を脅かすのはモンゴル地域からだけであった。そのために世界にも稀な歴史を歩んだ。「天子」という考え方も特有である。日本の皇室は、「天皇家」という神武朝に始まるひとつの系統であるのに、中国では支配者が皇帝となり、広い国土を統治した。元朝のようにトルコを超え、ヨーロッパまで勢力を伸ばした国もあったが、それ以外はやはり国内に大きな脅威を抱えていたのか、現在の中国という範囲内での勢力維持に努めるのが(勿論、それでもこれだけ広い国土であるが・・・)精一杯であった。確かに前漢の後の時代では「漢王朝」の系列というのがこの国での「正統的」な皇帝の血統の様に認知をされていたものの、日本や韓国のように然程、単一でも単純でも無い。だからこそ、ヨーロッパが自由主義・民主主義になった後でもこの「権威ある皇帝」は残っていたのであるし、20世紀、厭、21世紀になっても、ちょっと世界に例の無い国家体系を作り上げているのだろうと思う。そういう物をすべて総括した映画作品であるという点に高い評価をすることができる。

そして、全編を通して兎に角凄いのは「美術」と「人の数」である。作品の中で溥儀の家庭教師であるジョンストンが、皇帝の日常生活を支えるための膨大かつ過剰な「数」を羅列する台詞があるが、まさにそれを忠実に映像表現しているかの様なエキストラの数であり、贅沢な衣装、どこから集めたのか豪華で貴重なクラシックカー、沢山の宝飾品等は必見である。

又、この作品には公開当時より物議を醸した、実写の戦争映像が挿入されている。確か、日本公開では、中国兵が射殺される実写映像は一部がカットされたと記憶しているが、DVD版ではオリジナルを使用した。又、この作品には、坂本龍一、高松英郎を始め日本の俳優が沢山出ているが、満州国建設のシーンではみるからに「悪役」としていい味を出している。これを見る限り同じ国民でも、当時の日本軍の脅威と異様さ、更には愚かさを鑑賞することが出来る。

この作品も筆者評価は高い。但し、前述の様に単に溥儀という人物を描いたからでなく、タイトル通り、皇帝という権威の消去を描いた貴重な歴史的資料だからである。


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by turtoone | 2005-05-30 18:29 | 映画(ら行)
b0046687_1046134.jpg筆者の映画採点によると、この作品は特Aというランキングに入る。このブログで紹介する特A級の作品は、「アマデウス」に次いで2作品目。但し総得点は本作品の方が高い。マイベスト3か、ベスト5には必ず入る採点だと思う。確かに1990年のオスカー作品賞、監督賞をはじめとして7部門を獲得しているが、それ以上に筆者の好きなパターンに見事に填まったという事が高得点になった理由である。筆者の映画採点は1979年よりはじめたが、鑑賞した作品すべてを対象にしており、勿論、ビデオやDVDで再度鑑賞したときにも更新しているが、殆ど点数は変わらない。また、採点は極めて客観的に点数をつけているので、筆者の好きイコール高得点にはなりにくいが、やはり特A(95/100点以上)になると、プラスアルファの1~2点は感情的な物が入るのだと思う。昨年公開の映画で、最高点は以前にも発表した様に「パッション」の93点。95点以上というのは、「グラディエイター」以降、今年もまだ出ていない。いずれは当ブログでこれらの作品のレビューも順次書く予定であるので、その高い原因というのが、自己探求されてくると思う。自分で書いているのに自分で楽しみだ。

ところで、渡辺淳一の直木賞受賞作に「光と影」という名作がある。後の日本国首相になった寺内正義と、戦争中偶然にも同じ病院で同じ負傷により運び込まれた陸軍大尉の二人が、片方は腕を切り落とされ、寺内はそのまま落とされなかった処置をされたことが、将来の二人の運命を大きく隔てたという感動の名著だ。(余談であるが、渡辺淳一というと、どうも「失楽園」以降、エロイズム作家の様に思われ勝ちだが、正直最近の純愛ブームになっている作品に比べたら、ずっと文学的価値が高いので、是非、10代の人などに読んで頂きたいと思うのだが・・・) 冒頭部分はまずこの作品を連想させるシーンから始まる。そして、脚を切り落とされるくらいならと敵陣に捨て身で一騎果敢に攻め込んで大勝利の引き金となり、南北戦争の英雄となった男が勤務地を選ぶ権利を与えられ、フロンティアと呼ばれていた当時の最西部、サウスダコタのセッジウィック砦に赴任したところから物語が始まる。

人間の「光と影」、南北戦争、インディアンという筆者の大好きな要素が折り重なったという事もあるが、それにもましてこの作品は、今までアメリカ人にあった「偏見」を払拭する意味で、初めてインディアンの側から「南北戦争」に代表される、白人の支配権拡大というプロセスに触れた。ある意味でアメリカ的アンタッチャブルな領域でもあった。しかし、その重たいテーマを敢えて重たく見せなかったのが、画面一杯に映し出されたアメリカの大自然である。特に、バッファローの群れと、大平原の日の出・日の入り、四季を満遍なく映し出した光景は絶句。その大自然をバックに、インディアンとの交流の過程、その生活への興味を順を追って紹介し、極めつけは一頭のオオカミとの交流と、元白人でインディアンに育てられた女性との恋愛。様々なテーマが錯綜している様に思えるが、それらはすべて人間が生きていく上において本来的に必要なものばかりなので、全く違和感無く伝わって来る。

又、この作品は当時の世界的な思想を一歩先んじていた点に後々にも高い評価が与えられた。1991年の日本公開当時には、「アイヌ新法早期制定」東京アピール行動並びに国会請願が行われ、翌92年には「世界の先住民の国際年」として世界的に先住民への敬意とその保護に関心が高まった。これらの動きにハリウッドとして先んじて映像表現の主張を行使した点は、映画人の誇りであり、同時に一映画ファンとしても最高の敬意を表したい功績である。

上記の様な内容の故、余り作品の内容に関してこれ以上多くを語るのは野暮であるが、オスカーで、アクターの賞がノミネートされたのにも関わらずひとつも無かったのは残念であった。少なくとも、助演男優賞のグレアム・ク゜リーンだけはその年同賞ノミネートの誰よりも印象的な演技だったと思ったのであるが・・・。


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by turtoone | 2005-05-29 12:30 | 映画(た行)

バタフライ・エフェクト

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作品名の、“バタフライ・エフェクト”とは、カオス理論を“一匹の蝶が羽ばたいた結果、地球の裏側で竜巻が起きる”という喩えらしい。この作品、実は余り鑑賞の予定は無かったのだが、結構ブログで記事のアップも多く、ミニシアターでの上映だけだと思っていたら、近隣のシネコンでの上映もあったので、急遽、鑑賞に出かけた。日頃より映画作品に限らず、芸術というものは何でも、「単純明解」なものが良いものだと評価をしている。文芸などはその代表で、誰にでも分かる短い表現で、より多くとより深くを語るのが一番素晴らしい芸術だと思うし、その最たるものは、俳句であり、短歌だと思う。映画作品も同じで、基本的に難解な物は好まない。特に映画の場合はそれを可能にする要素が他の分野よりも色々と沢山ある訳だから、わざわざ難しくする必要は無い。監督の拘りだか何だか知らないが、邦画が今一番その方向性を間違えているのがこの部分であるといえる。

この作品も冒頭に前述の「バタフライ・エフェクト」の説明が出てきたり、いきなりフラッシュ・バックしたかと思えば、突然の効果音と共に来るシーンの切り替えが多すぎて、一体何をやらかすのだろうかと、途中までは展開に、可也戸惑いがあった。しかし途中からその展開がパターン化してくると、画像展開も効果音も共通しているので、大変分かり易くなった。

簡単に筋を言うと、主人公の男性がある年齢から、自分の人生を、過去で別の選択をすることにより、現在の自分と自分の取り巻く境遇を変えることができる能力を身に付け、それを試みることにより、ストーリーが展開していくのであるが、それが特別な能力なのか、本人の意識の中だけで起こっていることなのかはこの段階でははっきりしない。そういう展開でラストまで持って行く。そう、観終わってみると大変単純な内容であり、次に見るときには、この法則性を最初から当てはめて全貌が明確に理解できる。要するに、学生の頃、理数系で新しい法則や公式を教わった時に最初は解答を出すのが難解であるが、幾つか問題を解くことによってその使い方を理解して、解答が早くなっていく。理数系の苦手な筆者が述べても説得力が無いが、そういう感じである。この中盤以降の展開から翻って分析かると、冒頭の難解さは、逆にこの作品のいい「掴み」になっていると、その構成に感服する。却って冒頭が単純だったら、この作品は全体的にダレた作品になってしまったと思う。

しかし、この法則性が理解できたものの、ではこの映画の主題は何だったのかというと、そこは残念ながら伝わるものがなかった。ラストシーンを見る限りは主人公のヒロインへの思いと、そのヒロインが幸福になるということを最優先に考えたのかも知れないが、その思いが作品上で表現し切れなかったのと、そう思う動機となる部分が、よくある幼児性的虐待体験と、途中で出てくる幾つかの「結果」パターンに於けるヒロインの総括にしか過ぎない部分しかないところが、全体的に説明不足の感が歪めなかった。筆者は理数系だけで無く、「カオス理論」の理解も浅いので、もしかして、この部分の解説に関して知識不足や誤りがあったらお許し願いたい。

主役のアシュトン・カッチャー以外は、まだ知名度の低い俳優が多いが、それぞれに味のある演技をしていた事は今後も期待できるし、作品が初監督になるエリック・ブレスという人も、今後は注目に値する逸材だと思う。

シアターで観るそれなりの価値はあったが、一方で一度では理解するのが難しいので、よほどのカッチャーファンか映画好きではないのなら、DVDまで待って何度も観た方が正解。


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by turtoone | 2005-05-28 01:15 | 映画(は行)
b0046687_14152874.jpgドクという奇想天外な科学者が、人類の進歩と科学の探求のために開発したデロリアンの時間旅行もこれが最終章を迎えるが、前2作と違って、この作品は見事な「ラブ・コメディ」に仕上がっている。しかも時代は19世紀、スピルバークは西部劇が大好きだそうだが、筆者もインディアンは大好きで、いわば、最後にやりたいことをすべてやったという贅沢な作品である。

しかも、シリーズの総括としての本作品は、「お約束」パターンの連続で、マクフライがベッドで悪夢を見たと言いながら起きるシーン、ビフの祖先がマクフライの祖先に「ここに来るな」という台詞、デロリアン時間移動の模型を作って説明する場面、恋人がドグの自宅を訪れるところ、マクフライが銃で早撃ち芸を披露したり、相変わらず「チキン」という言葉に反応し前後を弁えない部分など、これまでと同じシーンが連続することにより、物語の関連を強く表現していると同時に、シリーズを通しての鑑賞者に違和感なくストーリーを追って貰うことにより、逆にこの作品で述べたかった事を印象づける効果に徹している。

そのメッセージとは、「自分の人生を切り開くのは自分であるということ」と、マーティンという同じ祖先が居たことによる輪廻転生的な戒めと、ジュール・ヴェルヌである。特に、ジュール・ヴェルヌに関しては、単に冒険小説家としてだけでなく、科学者として、或いはクリエイターとしての側面での高い評価と尊敬の念を作品を通して表している。スピルバーグはこの19世紀から20世紀にかけての冒険小説家を高く評価していて、ご存知の通り最新作でもH・G・ウェルズの「宇宙戦争」を扱っている。筆者もこの映画を境に、それまで断片的にしか知らなかった、ジュール・ヴェルヌの功績とその作品を総括することが出来たという恩恵に授かっている。

そして、今シリーズ最後の冒険旅行もスリリングに満ちている。特に1885年の蒸気機関車を使用した限界点到達へのプロセスと、最後に駆けつけたクララの行く末に関しては、「じれったい」を通り越し「声に出して応援」したくなるシーンに仕上がった。まさに時間旅行の集大成である。

アクションもSFファンタジーのも、その後色々な作品が登場したが、物語といい脚本といい、作品自体のコンセプトといい、このシリーズを上回った物はもとより、近づいた物すらない。それほどこのシリーズが素晴らしいのは、映画という媒体を通して、その可能性を納得のいくまで探求し、同時に製作者の伝えたい沢山の物を整理・凝縮し吟味を重ねた上で、さらに演出という最終仕上げをして送り出された物であるからだ。スピルバーグとゼメキス、それにその周囲に集う素晴らしいクリエイター達に拍手喝采を贈りたい素晴らしい仕事である。

しかし、どうでも良いことであるが、筆者としては、ジェニファー役がパート2から変わってしまったのが残念である。それゆえに、パート2.3は、マーティよりドグに、感情移入してしまうのである。これだけが、このシリーズの心残りな点だ。


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by turtoone | 2005-05-27 23:53 | 映画(は行)
b0046687_102109.jpgご存知の様に公開時より第一作目のエンディングからいきなり「つづく」という表示が出て、次回作品があることを告知しているのも有り難い。しかも、続編に関しては、そのストーリーを一般からも広く募集したり、その結果、良い原作候補がたくさんあり、結局続編は2編作成されるなどという情報も意図的に流出したり、所謂「シーズン・オフ」も色々と楽しませてくれた。これがすべて計画的なプロモーションだとしたら脱帽である。(スピルバーグとその仲間たちならやりそうだと思って・・・)

「バック・トゥー・ザ・フューチャー」のレビューでも書いたが、この作品は公開当時(1989年)、26年後の2015年を描いているが、その近未来世界の構築は当時としては大変興味深かった。特に筆者がいつも感心するのは交通システムの考え方である。「マイノリティー・リポート」でも触れたが、2015年には空を道路として使用し(同時に、空を飛ぶ自動車が発明されるということ)ているが、この部分は今から10年後にいきなり自動車に羽根が生えるとは思えないから、どう考えても無理であろう。しかし、1989年当時に「もしかしたら・・・」と思い込ませてしまう作品づくりは見事である。翻ってそれは、交通システムをこの映画の中で構築しているからだと分析する。それ以外にも中々面白いグッズが沢山ある。衣類や靴が伸縮自在で、人間がサイズを選ぶのでなく、物が人間のサイズを選ぶという逆の発想も、コンピュータ管理下に置かれた人間社会の揶揄だと思える。特に、筆者が興味を持ったのは、「スポーツ年鑑1950-2000」という書籍(購入したのはどうも骨董品ショップの様であるが・・・)の表題である。2000年以降はペーパーレス時代に入ると考えたのでは無いか。確かに公開当時はパソコン時代の到来を思わせ、日本でも21世紀はペーパーレスになると想定されていた。一方で新聞だけは存在している処に拘りがあり、且つその新聞がごく一部のローカル紙であるところに、2015年時代のメディア存立を構築しているコンセプトには今更ながら脱帽してしまう。こういう部分を見ていると、このスピルバーグとかゼメキスとかいう人たちが、それまでの「映画屋」である製作者とは違い、新しい映像コンテンツ創作者であることがはっきり線引きできる境界ではないか。

ところで、この映画の中でもドグが指摘している「科学的に重要な日なのかも知れない」という1955年11月12日という日であるが、興味を持って検索してみたが、それらしい物はみつからなかった。因みに主な出来事としては、ビルボート誌が始めてトップ100ランキングを発表した日であることと、一時期全米を席捲したベイ・シティ・ローラーズのリード・ヴォーカル、レスリー・マッコーエンの誕生日だったくらいである。スピルバーグ周辺の人たちの記念日でもないし、この謎は解明されなかった。スピルバーグ自身は8歳くらいであるから、少年スティーブに何か衝撃的な事が起こった日なのかも知れない。しかし、"1955年11月12日"と入れて検索してみると、このシリーズ作品のタイムトラベルに関して、色々な人がたいへん興味深い研究や論文を発表しているので、その方が面白かった。時間のある方、「バック~」ファンの方には、是非お薦めである。(個人のサイトなのでここでのリンクは避けた)

筆者にとっては物語の進行よりも、近未来世界の映像表現とその構築コンセプトの方に興味を奪われた作品であったが、そういう意味では「意義のある」続編だった。


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by turtoone | 2005-05-26 23:22 | 映画(は行)
b0046687_117125.jpg以前にもこのブログでも述べさせて頂いたことがあるが、この「バック・トゥー・ザ・フューチャー」という作品が公開されてから以降の映画を取り巻く環境というのは大きな「暗黙の了解」が出来てしまったと考えている。それは「過去」や「未来」との時間移動に関して、意図も簡単に表現されるということである。それは、「時間移動」という面もそうであるし、特に「近未来」に関しての解釈が色々な意味で多様化して来たという側面である。そして面白いのは、観客が映画という範疇の中で、この時間移動という感覚に対して、全く違和感を感じなくなっていったことである。同時に、「タイムマシン」という極めて科学者の創造物にしか過ぎなかったものが、「デロリアン」というスーパーカーの王様の様な具体的物体へと置き換えられ、ひいては代名詞となっていった。

こうした映画界の大きな「革命」に寄与した作品というのはそんなに沢山あるわけではない。では、今更ながら、なぜこの「バック・トゥー・ザ・フューチャー」がそれほどの影響力を持つ作品だったのかを考えてみると、映画制作の「模範解答」というのが導かれるから面白い。

第一に、この作品は「コメディ」である。なぜコメディにしたかというよりも、一番分かりやすい手法を取ったものと思われる。この作品以前にひとつの「近未来」の指標となっていた映画作品は何といっても、キューブリックの「2001年宇宙の旅」である。「近未来」については、「パート2」が殆どなので、詳細はそのレビューで書くが、キューブリック作品の難点は哲学的過ぎて可也難解であることと、残念ながら人間社会が殆ど描かれていない点にあった。又、本作品が公開された1985年から考えて、16年後の2001年(今となっては既に過去であるが)にあの名作に描かれた「宇宙の旅」というのが、実際には不可能あろうという観が、映画ファンの間には蔓延していた。この辺りを踏襲して分かりやすさイコールコメディという手法を取ったのが見事であった。

第二に、この「パート1」の主題というのは、主人公を「未来に返す」ということだけである。1985年で可能であることを30年前にどのように出来るかとということを「デロリアンのエネルギー確保」を中心に描き、その回答の導きに対して、研究と偶然の遭遇が科学を生み出すという学問の本質を鋭く突いている。マクフライが1985年のチラシを持っていなかったら不可能だったところなどが、如何に天才科学者でも研究能力には限界があるが、偶発的な発想や外的要素が科学的発見と発展に貢献してきたことを暗に促しているところは注目である。またこれは科学も芸術も一緒だというスピルバーグの映画人としてのプライドを"Johnny B Good"の演奏シーンに反映しているところがコメディなのである。

第三に、時間移動というテーマを扱うことによって、人生は一瞬にして変わるというメッセージを全編に渡り送り続けていることだ。30年はひとりの人間にとっては長い月日であるが、それはどんな些細な事でも、その30年を大きく変えてしまうし、逆に言えば、これはアメリカ人の大変好きなフレーズであるが、「運命は何時でも自分次第で変えられる」という点である。そして、これは主人公のマイケル・J・フォックスの人生観ともオーバーラップして、特に、後々この作品と彼自身の人生との関連が感動を呼び、映画ファンの心に今でも残っているというのが大きいのではないか。

これは、番外として、この作品の功罪であるが、「じれったい」シーンを一般的に流行らせたのも、このシリーズと「インディ・ジョーンズ・シリーズ」の影響である。

最後に筆者の率直な感想をいうと、最後に恋人のジェニファーが出てきて、マーティ(マイケル・J・フォックス)が綺麗だと見とれるシーンがあるが、なんともあの気持ちは本当に良く分かる。


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by turtoone | 2005-05-25 23:14 | 映画(は行)

ザ・インタープリター

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「愛と哀しみの果て」のシドニー・ポラック監督、「イングリッシュ・ペイシェント」のアンソニー・ミンゲラ製作総指揮、「シンドラーのリスト」のスティーブ・ザイリアン脚本、「めぐりあう時間たち」主演女優のニコール・キッドマン主演、「ミスティック・リバー」主演男優のショーン・ペン共演と、こんな風に羅列しているとまるでオスカー大安売りの作品みたいだ。

おまけにこの映画の唯一の売りといえばプロモーションでも盛んにプレスで書かれている様に、「初めての国連本部撮影」である。このところ色々な意味で物議を醸し出す「国際連合」という体質・組織が舞台のサスペンスという以外には、然程、この作品を見る価値という物を見出せなかったのが筆者の感想である。ニコールには(良い意味で・・・)騙される。ニコールが主演している作品というのは、何かシアターで観ておかないと後々物凄く後悔する気がしてならないというのが実際であるが、今回も物語自体だけで考えるとそのパターンで、さて、鑑賞記を書こうと思っても中々、何をここに残すのか、又、ブログという性格上、ここを閲覧される方に何を伝えたら良いのか分からないというのが正直なところである。

サスペンスというジャンルは1980年代から様々な「仕掛け」を実験して来たtが、映画という土壌においては特に「音響効果」、「撮影効果」をいかに競ってきたかという点にのみついつい着目してしまう。しかし、こういう効果重視の作品を観ると、肝心のストーリーというのがいつも後からついて来るという気がしてならない。日本に居るとあまりタイムリーに分からないのが、原作本の大ヒットなどである。邦画でもそういうパターンは多いが、所謂原作本が大ヒットして、それを映画化するというパターン。そして映画というのは、常に「原作」以上の物を作ろうとして(当然、モノつくり人間たちの宿命であるが)ついつい「以上」ではなく、原作に「無い」物を求めようとしてしまう。それがサスペンス作品における映画というフィールド特有の「効果」という手段である。本作品はそういう意味から分析すると、過度の効果は無い。それ以上に「国連本部」という有形の効果が大きい。

もう一点、このサスペンス作品を必要以上に脚色したのが、「マトボ共和国」と、その国の「クー」と名づけられた言語である。マトボ国という架空の国でしかも、訳の分からないクーという言語をニコールが巧みに操ることで、より事件の奥底に観客を誘導するという演出は、有形な国連本部に相対して無形な効果を見事に演出した。特に、中盤、バスのシーンでのやりとりは必見である。

という訳で、もしこの作品が新しいサスペンス劇の提案であるのなら、ある意味で歓迎である。必要以上の余計な効果ではなく、原作の本質を崩さず、そこに映画にすることによって強調される素材を見出し、プラスアルファの興味を惹きつけることで、鑑賞者に原作とは違った感動を与えることは、「モノづくり魂」の本領発揮に繋がるのではないかと思う。

国連本部の映像を大きな画面でご覧になりたいのならシアターはお薦めするが、それ以上は無いというのが筆者の結論である。


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by turtoone | 2005-05-24 21:05 | 映画(さ行)
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実はここのところ「スペクタル歴史劇」は当たり・はずれでいうとはずれっぱなしではないだろうか? そもそも、昨年公開された久々の大作「トロイ」を皮切りに、「キング・アーサー」「アレキサンダー」と、このジャンルは次々に作品のクオリティが下がってきている。今改めてこれらの作品群を振り返るとあれだけ「良くない」と思った「トロイ」が一番良いと思うから不思議だ。「グラディエーター」や「ブレイブ・ハート」、さらに言えば「ベン・ハー」等が良すぎたという意見もあるかも知れないが、例えば、先にあげた3作品の何が悪いのという訳では無い。共通して良いと思うのは、美術と音楽である。美術は、「キング・アーサー」が少し劣るものの、その当たりは「撮影効果」でカバーしている。音楽に関しては「アレクサンダー」が抜きんでいる。同様に「トロイ」の美術は「グラディエーター」以上である。そしてこれは「グラディエーター」の功績が大きいが、時代考証や衣装考証にもかなり力が入っていて、新しい「歴史の再発見」を感じさせる。日本でいえば、例えば「赤穂浪士」や「新撰組」が作品化されるときに、その衣装に新しい考えが吹き込まれたり、織豊時代の作品なら「本能寺の変」に新解釈が入ったりするように、この分野も次々と新しい考えが吹き込まれるところは興味が大きい。

その一方で、なぜ、作品の出来が今一なのかというと、やはりトータルバランスが悪いのである。他のジャンルではこのバランスの悪さというのは余り目立たない。なぜなら、こういう歴史大作は美術にしても、衣装・効果・そして何よりその時代設定がすべて日常からすると「特異」だからである。音楽も聞き入ってしまうし、美術なども必要以上に捉われてしまう。そうしている内にストーリーは進んでいるので、見落とした部分が個人個人で欠落してしまうというハンディを背負っている。また、現代の話ではないから、出演人物への感情移入も難しい。その出演人物も多いので、誰に移入するかも迷うところであり、さらに言えば移入する動機付けが必要である。これらを考察すると、「グラディエーター」や「ブレイブ・ハート」の完成度の高さは、主人公の「動機」がはっきりしているところにある。「家族を失った者の復讐劇」という筋を一本通すことで、この時代を超えたテーマに、鑑賞者は目的を失うことが無い、これが大きな点である。

ところで今回は実に期待が大きかった。十字軍の物語であるということ、そしてリドリー・スコット監督であることの2点である。オーリーはまだ若いし、演技力に期待の出来る俳優ではないので(しかし、その割には悪くはなかった)人物への興味と新しい人物解釈は捨てていたが、それだけに、ストーリーに集中することが出来たのも事実である。

そして、このジャンルでは欠かせないお約束の戦闘シーンは、「グラディエーター」以上であった。特に、聖地エルサレムをサラセンが攻めてくるシーンは圧巻である。この映画の歴史的背景を言うと、1187年にエルサレムが陥落するという第2次十字軍遠征の最後の物語である。1187年というと、1185年に源氏が平家を壇ノ浦の戦いで滅ぼしたのであるから、わが国では「やぁやぁやぁ我こそは」とか、敵方の扇に矢を射止めてヤンヤーヤンヤーと喜んでいる時代である。それと同じ頃に地球のはるか西側ではひっきりなしに火の玉が飛んでくる戦争をしていたと思うと、フィクション性が強いと分かっていても驚きだ。その100年後、日本は「元寇」があったが、その際はまだ弓矢で戦っていた鎌倉軍は、「てつはう」(飛んできて弾ける鉄の玉)に驚いていたというのだから、もし、この火の玉の攻撃戦車を所有しているサラセンや十字軍が日本に攻めて来ていたら今の筆者自身が存在していなかっただろうと余計な事を考えてしまった。

また、リドリーが「グラディエーター」で必要に取り組んだ出演人物の内面描写は今回も健在。しかし、前作は主役3人を演出し表現しきれたのに比べ、今回は前述した様に主役級には残念ながら求められないレベルであった。その代わり、脇がしっかり演技してくれた。リーアム・ニーソンであり、ジェレミー・アイアンズであり、さらにはデビット・シューリスである。リドリーの巧みなところは適材適所な人員配置をするところであろう。勿論CGを使わないという姿勢も評価できるが、だからといって素晴らしい戦闘シーンなのではなく、人間ドラマとして人物をひとりひとりを丁寧に描いているところである。この監督は一般的に「エイリアン」や「ブレード・ランナー」のイメージが強いせいか「舞台設定」 や凝った映像を追求する点の評価が高いが、筆者にはそれよりも最近は「マッチスティック・メン」等に見られる様に人物を掘り下げることに秀逸な監督だと思う。それゆえに、オーリーの演技も然程気にならなかったのだ。これはまさに演出の妙である。

ラスト・メッセージは重く受け取らなければいけない。なぜ、十字軍を選んだのか、その中でもこの場面を描いたのか。リドリー監督の真意が最後に分かるからである。

参考までに十字軍関連年表を 


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by turtoone | 2005-05-20 22:39 | 映画(か行)

シカゴ ~My Collection~

b0046687_11422860.jpg筆者は音楽評論家ではないし、ましてや多少演奏は出来るものの音楽家ではないので詳しいことは良くわからないが、そもそもミュージカルの発祥って何なのだろう? ネット検索や専門書も読んでみたが今ひとつピンと来ないのが実感である。歌という点ではオペラがあり、舞踊という点では(無論、オペラに舞踊も含まれるが)バレエが上げらる。ただ、音楽芸術の世界というのは、舞台に比べると、女性が舞台に上ることに肝要だったと言える。その伝統を残すものは、わが国の「歌舞伎」くらいになったが、以前は舞台は男性だけのものであったことは周知の通りである。ルイ14世が天才的なバレエダンサー(この言い方も最近だが・・・)だった様にこの時代まで遡るとバレエも男性だけの物であった。

何でこんな話を書いているかというと、最近、ミュージカルが「難解」になって来たと思うからである。ミュージカルというとその代表的作品として、筆者が思い出すのは「サウンド・オブ・ミュージック」であり、「ウエストサイド・ストーリー」である。つまり物語の進行上に「歌曲」があり、演出の基本は、ストーリーの中で観客に印象付けたい部分、または、俳優の心境を誇大に表現したい場合、或いは、大勢の人間が一度に台詞を発する場面(この発想はモーツァルトのオペラに原点があるという専門家もあるが・・・)を意図的に歌曲の使用挿入しているものだと考える。

しかし、昨今のミュージカルというのは、例えば「ムーラン・ルージュ」がそうだったり、この「シカゴ」も物語の進行上というよりも、歌曲のクオリティが高く、寧ろ歌をメーンにしている嫌いかある。簡単にいえば、「歌だけの面白さ」や「歌だけで完結独立」している点を指摘できる。だからというわけではないが、特にこの作品は公開時にシアターで観たときと、後日DVDで何度見直している時と、随分印象や内容に対しての感想の開きが出ているのである。

一例を言うと、この作品におけるリチャード・ギアの役割である。公開時にはこの役柄をわざわざギアにやって貰う必要が感じられなったし、ましてや、レネー(最近、メディアでレネー・ゼルウィガーという表記が多いので、当ブログでもこれからはレニーでになく、レネーにする)とキャサゼタの二人がいずれもオスカー主演・助演女優賞にノミネート(キャサゼタは受賞)されたのに比べ、ギアがされなかったりとかという尾鰭もついていたので余計に感じたのかもしれない。

しかし、DVD版を観て、やはりこの役は彼では無いと作品の魅力が半減してしまうことが良く分かった、特に、なんといっても最後のシーンで二人がマシンガンを持って登場したときの、リチャード・ギアの表現力って、この作品全編を集約・象徴しているスゴイ演技力である。そしてあの顔もそうだが、あれが出来る俳優っていうのは彼しかいないとなると、やはり一番不可欠なキャスティングだったに違いない。これは一例であるが、他にいくつもこういう劇場ではまったく発見出来なかった要素がたくさんある。

前述した様にミュージカルは単純明快な方が良かったのだ、当然「歌」に重きを置けば、物語とは別の「歌のヒストリー」というのは生まれる訳で、例えば、それが「踊り」にも現れて来るようになると、(例えば「コーラス」の様に作品)ミュージカルの可能性も更に拡大してくると考えられる。同時に、新しい実験的土壌としてミュージカルが試験的に使われるという傾向になれば、それは大変面白くも、また興味のあるところでもある。

この作品を見ていて、レネーってどことなくモンローに雰囲気が似ていると思った。是非、マリリン・モンローの作品化をレネーが主役で制作し、レネーは念願のオスカー主演の方も獲得して欲しい・・・と、こんなシナリオを考えてしまった。勿論、「実験的ミュージカル」で。



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by turtoone | 2005-05-19 23:24 | 映画(さ行)