暫く療養と入院、更に手術をしまして映画ブログは更新を怠っておりました。作品は鑑賞してますので、徐々に復帰させていただきます。今後共、よろしくおねがいします。


by turtoone
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カテゴリ:映画(ら行)( 33 )

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昨年のカンヌ映画祭上映以来、まさかの作品二分割。そして、「レッドクリフ PartⅠ」に至ってはレビューにも既に書いたが、これまでの「三国志演義」に於ける、無論歴史的事実からみれば可也脚色された「通説」があったにも関わらず、新たにジョン・ウーとしての新解釈を随所に加えた「赤壁の戦い」ならぬ「レッドクリフ」は、自他共に認める「三国志フリーク」の筆者を困惑のどん底に突き落とし、しかし前作においては、この作品は「赤壁」では無いという自分自身の勝手気儘な納得の上に、何とか、この日の上映に併せ這い上がって来た。そして本作においては「孔明、風を呼ぶ」をクライマックスへの前兆として、一体どこまでこの「通説」に対して歪んだストーリーを修復できるのかをひとつの大きなポイントとして鑑賞に望んだのであるが、前作、趙雲の劉禅救出劇と同じく、この「名場面」を削除した。この事実が判明した瞬間、筆者のこの作品に関しての緊張が切れたのは言うまでもない。「三国志フリーク」がそれぞれどのシーンに思い入れがあるかは別として、ただ、その三国志の中の名場面、名台詞を二つも切ったことには、いくら、ジョン・ウー版レッドクリフだとしても合点がいかない。ウー監督自身のこの物語への思い入れも理解はできるが、但し、一方で中国五大文学の頂点に君臨する名作、多くの故事来歴を生んだに対しての敬意を感じられないのは残念であった。

「孔明、風を呼ぶ」は、現代文学で最も忠実に演義を再構築したと世界的にも評価の高い吉川英治の「三国志」の一タイトルにもなっている。勿論、孔明が祈祷で風を呼べる訳がない。演義にも注釈があるように、諸葛亮はこの時期に南東の風が吹くのは知っていた。しかし、敢えて、それを祈祷によって吹かせたことに、この同盟の名を借りた人質孔明が、呉に対して最後の奉公を果たす訳で、この場面がなくしては「赤壁」もなければ、赤壁後の、呉蜀の婚姻による同盟と、その後、蜀の擁立に対する、魏呉の同盟もすべてありえない。周喩はこの戦いで受けた傷が元でなくなる(赤壁の後、曹仁が周喩の病気を知って攻め込むが、逆に討たれてしまうという江陵の戦いもある)が、都督無き後の呉は一気に力を失い、周喩の最後の弟子である陸遜は魏の圧力に耐え切れずに、やむを得ず、関羽をだまし討ちにする。しかし、今度はそれを理由に曹操がまた呉を攻めて来る。いわば、赤壁は、曹操時代の終焉であり、もう一方で三国時代の始まりであるのだ。三国志フリークならよく知っている人物に「諸葛謹」と「龐統」が居る。何れも呉に縁のある軍師で、前者は諸葛亮の兄であり、魯粛と共に人質孔明を呉に招聘した人物である。後者はこれも有名で孔明と共に「伏龍鳳雛」と呼ばれ(孔明が伏龍、龐統が鳳雛)、この二人を軍師にできた者が天下を取ると言われた。龐統はこの当時、呉に居たが、そもそもが文武両道な呉にあって、周喩や陸遜のように「智に長けたものは武道にも長けている」というのがこの国の伝統で、諸葛謹のような軍師オンリーというのは珍しく、龐統も大きな功績を認められなかった。結果的には龐統は赤壁の後、孔明の薦めもあって劉備の傘下に入るが、結局、蜀は「伏龍鳳雛」を手に入れたにも関わらず天下を取れなかったのである。(これには近年の研究として、天下三分の計で劉備が蜀帝になっただけでも、当時の劉備の実力から考えると、天下を取ったことよりも大きな奇跡だと言われている)。実際にこの赤壁の後に、周喩は孔明が呉以外の国に居ては後々に呉に取って厄介なことになると、暗殺を謀るが、魯粛からそれを知らされると、呉軍赤壁の勝利を確かめず夜陰に紛れて蜀へ脱出する。この作品にあるようにこの稀代の天才軍師ふたりは「ライバル」であっても「友」ではなく、孔明にとって友は「魯粛」であったのが近年の研究成果である。その解釈に立つと、劉備が「孔明を待っている」(しつこいようだが、そもそも劉備は最初から呉との同盟で呉軍になど入っていないし、孫権・周喩などとは面識がないからこれも可笑しいが・・・)、という台詞、さらに、10万本の矢の際に孔明と共に舟に乗る魯粛の立場と心境は良く描かれていて、このあたりは、「レッドクリフ」らしくなく「赤壁」である。つまりは、後編になり、その辺りの「軸」にブレが出てきてしまったのも事実である。

ただ、筆者は前述した「歴史」及び「歴史小説」の通説を遥かに越えた試みとして、「デブ助」のくだりは高く評価したい。80万分の1であるが、いつの時代にも戦争があり、そして、その一兵卒はどう生きているのか。日本人は結構こういうテーマが好きであり、だから、下剋上だったり、木下藤吉郎が大出世したり、幕末の下級武士の活躍は好きであるが、儒教という国を治めることが最も大切だとされる国教のこの国で、一兵は80万分の1ではなく、存在すらが殆ど「無い」。そんな、中国文学の主流にあって、決して秀でていない普通の人間を描いた価値は大きく、それが、孫権の妹(尚香なんて人物は出てこないが、後の劉備夫人である孫夫人であることは前編のながれからも明らか)が絡み、彼女がおなじく「民」を国の中心とした劉備に嫁ぐというのも新解釈としては面白く、ここには、中国歴史編纂への挑戦が感じられる。また、曹操がなぜ天下を取れなかったかということに関しても厳しく追及しており、呉の二人を斬ったことはもとより、大事なときに「華佗」が居なくなって同様しているが、これは、この作品にも名前が出てくる「曹沖」事件の伏線を敷いている点が大変興味深い。そう、曹操は肝心な時に肝心なブレーンが居なかったから天下を取れなかったのである。しかし、一方で先ほどの一兵卒の心境になり「家族の元に帰るのだ」と言わせている。思うに、日本の歴史と比べると、中国は「裏切りの歴史」であり、「裏切り」に関しては余り、卑怯だとか思うことはない。裏切られた自分を「魅力のない人物、徳のない人物」だと省みることが多く、だから裏切りを恨んだりということは少ない。曹操が、それまでの天下人と違ったのは、そういうことに寛容でいると「国治」にはならないのだという新しい感覚を持った人だったに違いなく、そういう人物だったからコレだけ軍事力があっても、天下人にはなれなかったという、「レッドクリフ」的解釈を残してくれたのである。

しかし、一方で、周喩と諸葛亮が音楽に精通しているところに対し、詩人曹操という側面(曹操は武人としても一流だったが、詩人としての才能も大変高く評価されている)をきちんと表現してくれたり、単なる通説だけを追うのでなく、文化面も加味してあるところは作品としての評価はとても高い。これまでの三国志というと、諸葛亮は「三顧の礼」の三度目の際、昼寝から起きていきなり詠んだ詩が素晴らしいと、次の間に控えていた劉備が感激したという逸話が残っているが、実際に作品も多数残し、また、詩の形式を新しくしたという才能溢れる曹操の姿に触れたものは少なかったからだ。

筆者が周喩と共に大好きな趙雲は、前編に続き、今度は友の大事な人を救出する。これも、演義にはない、趙雲の名場面だから、まぁいいか。それから、もう一度書くが、リン・チー・リンの美しさは「奇跡的」だと思う。そう、この美しさは数学の確率でも証明できない「奇跡的」な範疇なのである。(しかし「苦肉の計」は小喬の策だったとは驚いたって、このレビュー突っ込みなしで行きたかったが、唯一の突っ込ませて欲しい)。

最後に、まだまだ書ききれないが、採点は複雑で、Part2も特A入りは難しいが、この作品は通して観たら、つまり、カンヌの上映に立ち返れば多分、特Aである。なので、年末、前編・後編のDVDを通して観てから最終採点をすると思う。でもやはり映画館で通して見たいものだ・・・。


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by turtoone | 2009-04-12 17:35 | 映画(ら行)
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ディカプリオとウインスレットの共演だからやはり映画史に残るあの作品「タイタニック」を思い出してしまうのは仕方が無いことだと思う。当のディカプリオですらその類の発言を何度もしているのだから。しかし、あの作品の呪詛を取り除くが如くのウインスレットのゴールデン・グローブ賞での受賞には驚いた。彼女もさることながら、流石にサム・メンデス。そしてかの監督といえば、オスカー作品賞の「アメリカン・ビューティー」を想像するのも当然の流れであり、つまりは一映画ファンとしては色々なことが錯綜した鑑賞になったことは予めご了承頂きたい。

色々な観点を持てる作品だが、やはり中軸に起きたいのは米社会が世界一になった結果と、それによる国内の大きな歪みである。1955年アメリカ。まずはこの時代設定に多くのメッセージが込められている。第二次世界大戦から10年、名実共にアメリカは世界一の大国になったが、並行して国内には様々な歪みが現れた。米国民の目指す方向性が定まらない。景気は好況だが、広がる貧富の差、人種差別、海外に不安が無い国民の関心も建国以来始めて国内に、そして突き詰めれば自分たちの、その身の回りに大きな関心を寄せるようになり、言い換えれば大きな変革の時期を迎えていた。レボリューショナリー・ロードはまさにそんな米社会の象徴である。ここに住む格上の人々の中でも特別扱いされる夫婦は様々な問題を内に秘めているが、それはアメリカ社会そのものである。更に、この社会は一瞬違う方向への可能性を考えるが、しかしそれは本当にこの国の進むべき道なのかどうかを自問自答し、結局は道を修正することなく、この路線を更に進行させ、この路線でもっと強大になることを考える。この二人の夫婦の行動はまさにこの時代のアメリカそのものである。そして、その結果はいわずと知れた、現代のアメリカ及び世界情勢を招いてしまったのである。

しかし、この作品はそれだけではない。まずは冒頭に書いたように、「タイタニック」の続編だと思うと面白い。この作品は船で救助されたふたり(あの作品では片方は死んでしまったが)の後日談だと思うと面白い。なんといってもキャシー・ベイツがまたふたりの間に入る重要な役になっている事もこの作品をダブらせる。最初に「港湾の仕事」をしていたというのも実に面白い。また、「アメリカン・ビューティー」との絡みで考えると、サムメンデスは「家」に可也の拘りを持っている。この両作品ともに家探しのシーンがある。良い家を持つことが良い家族の基本であるが、一方で人生というのは家を手にいれる事が目的ではないという主張が両作品からも観てとれる。そしてもうひとつの大事なキーワードが女性の自立である。人間の長い歴史の中で、どこの国にも無かった「女性たち」が国家の中枢を為すという地盤を築いた時代であるが、その土台作りの時代には、こんな夫婦もあったのである。こういう「変革への挑戦」が新しいアメリカを作ったのであり、それは前述したように強ち悪いことばかりではない。こういうところがこの監督の深い部分なんだろうと思う。ジョン・ギヴィングスという精神を患った数学者が出てくるが、この人が当時の社会の中でもしかしたら一番まともなんだと、風刺ではなく本当にそう描いているところも大変深い。

そして、やはりこの二人、ディカプリオとウィンスレットはゴールデンコンビである。なるほど、ウィンスレットは納得の演技であり、また、夫のメンデス監督はこの女優の素晴らしさをすべて出してくれたが、今回、決して派手な場面は無かったが、ケイト以上の演技をしながらオスカーにノミネートされなかったディかプリオに対しては、最早、オスカー審査員の彼に対しての僻みのほか何物でも無いと思う。

ラストシーンがこれから起こる(我々の時代にとっては既に起こって来た)米社会の現実と、それに対しての皮肉の両方が込められているのが良い。更にいえば実はこの作品の続編は、先に公開された「アメリカンビューティ」にあると言って良い。奥の深い、そして必見の作品である。


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by turtoone | 2009-01-24 21:43 | 映画(ら行)

レッドクリフ Part I

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「ワルキューレ」の国内年内公開がなくなり、年頭の筆者の期待度ランキングでは結果的にトップなった作品がいよいよ公開された。というより、ここ数年「スペクタル史劇」の映画作品が大変多く、このブログでも、中国といえばなんといっても「三国志」であることを何度となく書いてきた。しかし、そのためにはハリウッドの巨大マネーが必要だが、同時にに三国志だけでなく、悠久なる中国4000年の歴史を踏まえている人間でないとこの作品化は大変難しいと思っていたが、ジョン・ウーという適役がいたことをすっかり忘れていた。この作品化が昨年の今頃明らかになったからなんと一年間。待望の鑑賞であり、まず、そのことに感謝である。「三国志」は日本でも人気が高く、筆者も自称フリークだと思う。そして、数ある名場面の中でやはり、スーパースターが揃う「赤壁の戦い」が題材にしやすいのは当然だと思う。しかしながら、後述するが、そのスーパースターを無理やり一堂に会しすぎてしまったのはどうかと思う。ジョン・ウー監督なればこそ、「三国志演義」に沿って欲しかったと思う。

そもそもの「三国志演義」という書物自体がかなりのフィクションであることは間違いない。実際、正史である「三国志」はつまらない。また、この当時には邪馬台国も出てくる「魏志」が文献として残っているが、これも少し後に書かれたものだから信憑性は低い。今回の作品はニ分割されてしまったが、最初から申し上げると、所謂一般的に言われる「赤壁の戦い」の場面は今回は出てこない。それよりも「長坂の戦い」が冒頭に出てきて(これは予告編での予想通り)まず、監督の作品に対する方向性が十二分に表現される。特に、趙雲が劉備の長子、阿斗を戦乱から救いだし、敵陣を突破して劉備の元に届けたときの劉備の名場面がカットされたのはこの作品が、単に「三国志演義」に捉われず、新しい解釈を加えた赤壁の戦いならぬ「レッドクリフ」を創作しようという意欲と意図が感じられるのであるが・・・。(劉備はこのとき、わが子を地に投げ捨てて「この子のせいで大切な将軍を死なせるところだった」と言ったという。自分の世継ぎより優秀な家来を大事にするという意味では劉備の人柄を感ずる一節だったので、カットされて残念であるが・・・)。つまり、4月の後編になるが、「10万本の矢を集める」、「孔明風を呼ぶ」などという、所謂「赤壁の戦い」における名場面はすべてカットする方向にあるのかもしれない。そういえば、周瑜と諸葛亮が戦法を手のひらに書いて見せ合うシーンもなかった。

また、前半のクライマックスに設定された「赤壁の戦い前哨戦」に関しては、三国志演義には出ておらず、「三国志」に「戦いがあり、連合軍が勝ったが、詳しいことは分かっていない」とかいてあるが、このとき曹操軍は僅かな手勢しか出陣させておらず、連合軍の手の内をみるために出陣させたという。周瑜がここで流れ矢に当たった設定になっているが、それは、赤壁の戦いの終盤の部分であるが、この辺りを上手く繋げたところはなるほどと頷ける部分でもある。しかし。決定的に違う点は、この戦いは「連合軍」になっているが、本当に連合したりは、水上戦になってからで、この時点で諸葛亮は半分人質のような形で呉軍と共に行動しているが、殆どが周瑜、程普、呂蒙が率いる呉が戦ったもので、この時点で劉備(まだ蜀という名前は名乗っていない)軍がこの呉の領内に居たということは全く考えられない。孫権の妹を娶るのも、赤壁の戦いが終わった1年後の「同盟」のためであり、この辺りは、初めてこの作品を見て「三国志」を知る人たちには誤解を与えてしまうと思う。特に、筆者的には、三国志で一番好きなのは周瑜と趙雲だから、彼等ふたりのツーショットシーンは涙が出るほど嬉しいから、ものすごく複雑である。しかし、この脚本が、所謂「三国志ファン」の心を捉えているところは見事。つまり、三国志の主要人物である、曹操、劉備、孫権、周瑜、関羽、張飛、趙雲、魯粛といったところのひとりひとりをとても丁寧に描いていることだ。だから有り得ない戦いや饗宴はこの際仕方ないと思う。それから関心したのが数々の戦法を見事に再現してくれた。このあたりは、孫子の兵法でしか読んだことがないので、実際にこの様に軍が動いてくれると、これらの陣形や戦法が如何に実戦的なものなのかを証明してくれた。ただ、残念なシーンも多く、特に、孫権が机を刀で叩き切ったのは真っ二つだったのに、端っこしか切れてないし、呉と劉備軍のひとりひとりを丁寧に描いていたにも関わらず、魏の人物、例えば張遼とか荀彧、程昱(それぞれ、それらしき人物は居たが)等をきちんと描いて欲しかったと思う。それと、小喬を演じた映画初出演のリン・チーリンは絶世の美女である。

いずれにしても色々斬新なところは高く評価できるが、これらは後編を観てから総合的に評価をしたいが、今作品だけでも期待通りの出来上がりで、高評価である。但し、願わくば、三国志を知らない方は、中途半端に関わるのであれば、全く関わらずこの「ジョン・ウー版三国志」で終わってほしいし、もし、しっかりと関わりたいのなら、「Part.2」までの間に、ゲームやダイジェスト本でなく、是非、吉川英治先生の「三国志」全8巻を読破して欲しい。その方がもっと、この映画版「レッド・クリフ」の狙いが良く理解できるから・・・。


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by turtoone | 2008-11-03 16:30 | 映画(ら行)

ラスベガスをぶっつぶせ

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大袈裟な邦題が鑑賞中にもずっと脳裏に残り、物語は大したことないと思いつつも、カードだけではなく一体どんな映画的秘技が隠されているのかと思いきや、要するに、「レインマン」程度の21の知識ではまったく理解できないカード・カウンティングが根底にあり、でも、最後まで見たら、なんだ別に自分とあんまり変わらないじゃん!って、妙にすっきりとした感想を持った。

久々のレイト・ショー。しかし眠くならなかったのだからきっと銀幕に集中していたのだろう。ストーリーは省略するが要するに大金が必要になり、天才的な頭脳と暗記力でカードをカウントすることでベガスでブラックジャックをやって儲けようという映画作品だ。カードを数えること自体は違法ではないが、でかく稼ぐからカジノにとっては厄介だ。筆者はギャンブルを全くやらない(性に合わないし、ギャンブルで勝てる気がしない。宝くじすら買わない。昔は馬を見るのが好きだったのでついでに馬券を買ったこともあるが、馬が好きなのは昔乗馬をやっていたから)から根本的に分からないが、21ってカードをああいうように数えていて、どんな場面で勝利になるの。勿論ルールは知っているが、この作品、途中でレッスンがある割には、そのカウントがどのように勝利を導いたかというプロセスが全く分からない。主人公が喜んでいるから勝っているのはわかるけど、ただただカメラはたまに21になる絵札を写す程度で、要するに、どうカウントしているからどういうカードが来て、だからディーラーにはこういうカードが行って、結果、このゲームはこう勝ったのだという説明がどこにもない。だからカードのシーンは全然面白くなかったし、筆者はダスティン・ホフマンの「いいとき2枚、悪いとき1枚」の方が単純でずっと良く分かったのだが・・・。

ただ、この物語冒頭に述べたように、数学の天才がベガスを舞台にしているから特別なものの様だが、翻って自分に照らし合わせてみたら。進学とか就職とかの人生の節目って気持ちがらついて色々迷い、冒険をしたくなるものではないかなぁって、自らの経験上そう思う。筆者もそうだったし自分の友人たちも、特に大学や就職が決まった時はそうだったし、それは人それぞれ様々だった。オトナの異性と火遊びした奴。ポンギでナンパをしまくった奴。インペリアルのスイート借り切って毎晩パーティやってた奴。クラブ(うそうそ、筆者の世代はディスコだよ)でDJやってパトロンとこで寝泊りしていた奴。突如アメリカに行って一流商社入社を蹴飛ばした奴。カレラで卒業式に来て切符きられた奴(実は、この中のひとつが筆者だったりして・・・)。前述したカードの部分の説明が不足していたので、30万ドルの学費が必要なのはわかるけど、主人公が本当に欲しかったのは、金なのかジルなのかどっちなんだか分からなかった。筆者だったらジルだなぁって、ベガスのシーンはそう思った。

余談だが、数学者と呼ばれている人たちの思考回路って自分と違うと思う。多分、脳の伝達組織が著しく発達しているのだろう。友人に何人か数学者がいるが、彼らは、唯一筆者が人に自慢できる速読すらもできる。最近分かったのだが「読んでない」のである。構成を分析する能力が高いから、文字ではなく、数式のように分析するのであろう。文字だって数字だって、人間社会においてコミュニケーションツールという見方をすれば同じであるから。

ラストも弱かった。ただ、たまにはこんな映画作品を見ても良いのかなあとも思った。レイトショーだったし、たが、ケイト・ボスワースだけは後を引いてしまい、帰宅してから「スーパーマン・リターンズ」と「ビヨンドtheシー」を観てしまった。夜更け迄(ついでにスペンサー迄、トホホ)。


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by turtoone | 2008-06-06 23:42 | 映画(ら行)
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不思議なのだが、日本人はなぜかラフマニノフ好き。モーツァルトが好きなのに、ラフマニノフっていうのも良く分からない。いいじゃない音楽なんだからって言われるかもしれないが、それは要するに何だっていいじゃないって事なんだと思うが、一方でこの国の芸術教育にもよるところである。それでもって、美術は印象派が好きだっていって、ルノワールだとミーハーっぽいから、ちょっと理知的にセザンヌとか、美的にドガとか、少数派でシスレーが良いなんて言ってみせたりしている。兎に角ハチャメチャな芸術観には、それで良く正常で居られるといつも関心する。ラフマニノフに戻れば好きな曲の殆どはピアノ協奏曲第2番。日本人的一般知名度もベートーベンなら5番、ブラームスなら1番、モーツァルトなら40番、ラマニノフなら2番(セルゲイはシンフォニーではないが…)と言う感じ。これも良く分からないが・・・。ただ、ウォルフガングに沢山有名な曲があるのと比較して、セルゲイはそんなに沢山曲があるわけではないからだろうが、でもピアノ協奏曲第2番って例の逸話がある以外はそんなに日本人が好きな旋律かどうかは疑問である。そうそう、なぜそんなことを言っているのかすというと、漸くここのところ落ち着いたが、この作品はミニシアターだからかもしれないが、連日混雑していて中々好きな行きたい時間に良い席が取れなかった。

だから可也無理な時間で鑑賞したのだが、良いと思ったのは最初の演奏会の部分だけで、後は全く面白いところがなかった。同時に何を描きたいのか不明瞭であった。さらにいうのであれば芸術家とは偏屈が多いが、彼はそれ以前に駄々っ子であるということだけが印象づけられた作品であった。邦題に「ある愛の調べ」というからには、彼の音楽をどのように誰が支えていったのかという興味が沸くわけであるが、そんな愛が満ち溢れたという以前の超自己チューであり、音楽的に行き詰っても自分を省みることを しない行動。このことが事実がどうかは別にして、今までラフマニノフに抱いてきた良のイメージを一転させてしまう内容でもあった。懸命な日本人ファンはこれを機に、イメージだけでなく、彼の音楽性を評価して欲しいものだ。

但し、物語中には可也興味深い部分もあった。リスト以上の才能といわれ。リストは作曲家としては二流という発言があったが、これは注釈が必要。というのは、作曲家よりも演奏家を上に見ているところが感覚的に違うという誤解をお持ちなってしまう展開であるが、ラフマニノフの音楽の才能で筆者がその卓越したものをひとつあげろといえば「編曲」である。彼は、ピアニストであると同時に偉大なる編曲家であった。特に独奏のための編曲は素晴らしく、バッハ、シューベルト、チャイコフスキーと数が多い。それから、チャイコフスキーが尋ねてくるという設定があったが、彼は既に19歳で歌劇「アレゴ」を書き、初演でピョートルから絶賛されているから、これは少し時代がおかしい。また、亡命の時期とアメリカツアー、及びロシア革命の時系列も少しおかしかった。そのアメリカンツアーで、スタインウェイ社がパトロンで、なるほどこの会社がこうして名を上げて来たのかという経緯には納得。20世紀初頭からアメリカは広告の国であり、こういう手法がいともたやすくマスコミ、ひいては巨大メディアに継承されたために、現代までのプロパガンダ大国を作り上げたピエロだったということが明解である。スタインウェイは今でいう、ベヒシュタイン、ベーゼンドルファーと並び称される言うビアノの3大メーカーであるが、リストがベヒシュタインを支持、ドビュッシーに至っては「ピアノ音楽はベヒシュタインのためだけに書かれるべきだ」とまで言わせており、また、ベーゼンドルファーは各国の皇室ご用達品だったのに比べて、スタンウェイはピアノ作りが根本から違っていたために幾度も経営に苦労をした。前2社はそもそもがチェンバロメーカーで、音響的に残響豊かな楽器つくりをコンセプトとしていたのに比べ、スタンウェイはアメリカを市場と考え、中規模なコンサート会場でのビアノ製作に目指したのが所以である。(因みに筆者の家にあったのはベヒシュタインのアップライト、宝の持ち腐れであった。今も実家に20年以上調律していない家具として埃を被っているはずだ。) ラフマニノフは広告塔として新しい楽曲を「このピアノから生み出した」ことに価値がおかれる猿回しの猿だったわけで、そう思うと、なるほど、欧州やロシアでなく、アメリカ直輸入のクラシック音楽であり、イギリス出身でもアメリカ直輸入のビートルズやストーンズと変りが無い訳で、日本人が「好きな訳」だ・・・。このスタンウェイ社との経緯が分かったことだけが、筆者のラフマニノフに対する新しい発見であり、あとはマイナスイメージが大きく(そんなに大好きな音楽家ではないが・・・日本人なのに。だってピアノ協奏曲ならヨハネスやピョートルの方がずっとずっと旋律も技法も上じゃない?)正直、内容はどうでも良かった。

残念なのは、音楽家を扱っている割に、音楽が良くなかったこと。これはもう論外。最後のテロップで芸術的創作で事実と異なる旨のエクスキューズがあったが遺憾。事実の究明こそ芸術の追究であり、追究のない芸術的創作なんていうのはは無い筈だ。


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by turtoone | 2008-05-24 23:07 | 映画(ら行)
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また新しいファンタジー作品の登場である。

「テラビシアにかける橋」でも書いたが、ファンタジー作品というのは製作者は創造という作業から世界観を導くが、鑑賞者には想像力を与えるどころか、寧ろ低下させるのではないか。実際にパラレル・ワールドという考え方は随分昔から存在している。大体から神話といわれている時代の書物にある「神々」と呼ばれる存在も、地球人からすればパラレル・ワールドの存在だ。例えばギリシャの文学にはそういう物も多いし、旧約聖書だって、そういう観点からみれば立派なパラレル・ワールドである。筆者はパラレル・ワールドを否定している訳ではない。ただ、どうしてこんなに次から次へとファンタジー作品が必要なのかという現実に疑問を持ってしまう。所詮、物語にはフィクションとノンフィクションしかないし、作品の殆どはフィクションである。歴史だったフィクションの部分が相当多い。だが、歴史のフィクションは国家とか体制とかを維持するための知恵であると考えれば、極端に言えば、ナポレオンが日本に攻めてきたという全くありえない事実まで脚色しなければ、然程の修正は致し方ないと思う。いつもいうようにどうせ歴史とは「勝者の理論」であるのだから。しかし、創造力というのは自らが作り出すものだから、現代のように家庭のテレビも50型くらいになって、10畳程度のリビングに置いてあれば映画館のスクリーンを一番後ろの席で見るのと変わらないくらいの視聴覚を日々支配されてしまう中で、一体何人、何パーセントの人間に物事を空想し創造する力が養えるだろうか。ファンタジーも良いが、現実に世界の至るところで起こっていることの本質は何なのか。現実逃避をしないための有益な映像の製作をお願いしたいと思う。

この作品も、娘たちの鑑賞の要望と、筆者的には二コールが出ていたから観にいったようなものである。この作品でポイントになっているのはダイモンという存在である。しかし、残念ながらそのダイモンという考え方を作品の中で受け入れるのには、予備知識がかなりあったにも係わらず相当な時間がかかったのも事実。この点が随分、この作品の方針を理解するのに勿体無い時間であった。比較的われわれ日本人はこのダイモンという考え方は捉えやすいと思う。例えば霊魂という考え方にあまり抵抗がない。守護霊なんていう考え方も日本人は結構平気で受け入れられる。しかし、問題は守護霊が先祖であるのなら受け入れやすいが、それが動物霊だったらどうなんだと思う点だ。キツネツキなんていうのは一般的には歓迎されないし、わたしはキツネがついているのよなんて人に言ったら、何なのだろうと勘違いされて敬遠されるだろう。もうひとつは映像的にダイモンを表現することに可也の苦労をしたと思われる反面、結構他の部分が雑に描かれていたことは残念だ。ダイモンの大きさも難しかったと思うし、ライラの場合はまだ色々変化するといっても、変化しすぎなのには可也戸惑った。結局最後まで、その変化する法則性を見つけられなかったのも筆者的には残念。ダイモンに拘らないといいつつも、やはり作品大きなキーポイントだから、それに引き摺られるわけだから描写的にもちょっと邪魔だし厄介だった。

そんな中で、出演陣はすごい人たちの勢ぞろいだった。特に、ダニエル・クレイグとエヴァ・グリーンに関しては何故そんなに出し惜しみしているのか残念(というか可也の消化不良)だった。二コールとは連作の共演であるダニエルに関しては、やたら「インベーション」が被ってしまったのも事実。それをいえばエヴァも同じなのかもしれないが、パラレル・ワールド効果というか、キャラが違うからか、「カジノ・ロワイヤル」とは流石に混同しなかった。そのほかにもクリストファー・リーなんかが出てくると一瞬「LOTR」なのかと思ってしまうから、この辺りも筆者の頭の中はパラレル・ワールドには程遠い狭い狭い世界なんだなぁと創造力の低下を反省しつつの鑑賞である。二コールは美しかったが、それよりも、完全にダコタ・ブルー・リチャーズに食われましたな今回は。認めたくないけれど、ダコタの存在感は二コールを上回っていたと思うのは筆者だけ? 最も、「ナルニア国物語」のように、主役より女王の方が存在感が出てしまうティルダよりは良かったのかなぁ。二コールを観にいったはずなのに、二コール以外の逸材を発見できたのはこの鑑賞の唯一の収穫だったかもしれない。

まぁエンディングは予想通り。しかし、もっとスキッと終われないのかなぁ。その辺り、やはりスターウォーズという作品は凄かったのだと、今更ながら賞賛してしまう結果であった。


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by turtoone | 2008-03-20 23:39 | 映画(ら行)

レンブラントの夜警

b0046687_22214172.jpg
映画が総合芸術だと思うのは、例えば、美術と音楽と文芸と舞台を1枚のスクリーンの中で表現してしまうことである。言い換えれば映画という芸術そのものが既に色々な芸術のコラボレーションになっているのである。筆者は特に歴史物、人物物というのは好きで少し得意としている範疇であるが、しかし一方で完成され、発表されたこれらの作品に関しては見方が厳しいのかもしれない。だが、やはり筆者が高評価する作品の殆どは、この類いなのであるから、好き故になのである。

この作品は冒頭とラストのシーンが印象的だった。レンブラントが「色」を求める。「色って何か」を問いかける。確かに色ってなんだろうと思う。色がわから無い場合、それを何にたとえるのか。これってなかなか面白い(物語の意図とは違うが)試みだ。例えば、色を人に説明するときどんな表現が必要か。「血」や「とまと」だったら赤とか、具体的にその色を持っている物体名をあげないでその色を表現するということは面白い。そして、更に絵画ってなんだ、ひいては芸術ってなんだ。と、この作品はその根本、本質にオランダの偉大なる画家を題材にして迫りメスを入れるているのである。

レンブラント・ハルメンス・ファン・レインといえば、ルーベンス、フェルメールと並ぶ、17世紀バロック美術のオランダ3大画家である。バロック美術の発祥はイタリアであり、強烈なコントラスト、躍動感あふれる構図を特徴とする。特にイタリアではカラヴァッジオの絵画が代表的で、ルネサンス期には理想的な姿で描かれた聖人画が、生活感あふれる庶民の姿で描かれたことも特徴的である。オランダと共に、ディエゴ・ベラスケスはスペイン絵画の黄金時代を形成した。「夜警」は1642年の作品で、この年彼は、最初の妻を亡くし、愛人から結婚不履行で訴えられた。やがて多額の借金を作り、最終的にはこれだけ生きている内に画家として大成していた人が共同墓地に埋葬されている。物語は丁度この辺りを全く新しい仮説をもって描いている。当時のオランダは、まだオランダという国ではなく、独立戦争の最中であった。ネーデルランド連邦共和国が独立した一方で、いち早く海上とアジア進出に目をつけたこの国は東インド会社を設立した。オランダとは連合東インド会社の総称としてつけられた言葉で、略してオランダと称されたのである。レンブラントの時代は芸術もそうであるが世相が中世から大きく変わろうという時代であり、特に民衆の考えがそれまでになかったことを求めようとしていた。簡単に言えば、多分それは群から個の時代だったのだと筆者は仮説する。この絵画も「夜警」とついているが、レンブラントは群とか集を意図した作品背景にもかかわらずモデルになった人たちには既に個が占有していたという論法にたった脚本になったようだ。

しかし作品としての物語は退屈だった。というか筆者は退屈でなかったが朝一番の回だったのに方々から寝息が聞こえたのも事実。前述したが、人物作品というのは難しく、ましてやレンブラントというのは、美術史的にも位置づけが分かりにくいところにある。印象派がお好みの日本人にも馴染みが薄いし、名前はご存知でも、作品だってまさにこの「夜警」くらいしかご存知ないだろうと思う。その辺り、ルーベンスやフェルメールの方が一般的に有名な作品が多い。そして、この作品の構成だが、題材がレンブラントだけに撮影の試みとして、銀幕をキャンパスにみたてた手法を取ったようだが、それが成功せず、鑑賞者に伝わらなかったのは、幾つかの前提をはっきりさせなかった事にある。

ひとつはオランダと言う国である。この国の風土と国民性を序盤で定義づけられなかった点は大きい。終盤の裁き、つまりは絵が出来てからの評価になって、漸くそれまでは、登場人物各々の身分や個性だと思わせたところに、一気ににオランダ人の国民性をてんこ盛りに盛ってごちゃまぜに出された。それまでも結構理屈っぽい内容だったが、ここで更に今まで繋いで来た作品への感情を断ち切られてしまった。

もうひとつは天才レンブラント自身のこの物語における「位置」である。「夜警」を主体にしたいかったのか、それともレンブラントにスポットをあてたいのか、はたまた、彼を取り巻く人物と時代だったのかがはつきりしなかった。従って映画というより、絵画の中の人々が会話しているという様な印象を与えるこの構図の取り方は、一件面白いが長続きしなく、また、舞台と違って、誰の台詞なんだか、俳優の声質を見極められない序盤は大変見づらかったのも事実。焦点を前述のどこかに絞りきった方が良かったのだと思う。

ピーター・グリーナウェイ監督だから「コックと泥棒、その妻と愛人」でも見られたように構図的には凝っているのだが、やはりオランダの巨匠レンブラントをこの作品に完全にコラボさせるのは少し無理があったのかもしれない。残念だ。

そういえばレンブラントは色盲だったと言われている。序盤の色へのこだわりと物語りの結末には、彼のそんな苦悩と、「夜警」と名づけられたが、実は昼間の光景だというこの絵にまつわる様々なミステリーを通して、現代の世相に芸術者として問いかけいる彼の姿を彷彿する。


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by turtoone | 2008-02-02 22:24 | 映画(ら行)
b0046687_1703654.jpgこの作品は、「ホテル・ルワンダ」に先んじられてしまったが、アフリカ大陸における、16世紀以降ヨーロッパ諸国による線引きに始まり、世界各国の餌食とされた悲劇の時代を最も象徴的に表した出来事の作品化である。筆者がアフリカの「いま」に興味を持ったのが、丁度この、フツ族、ツチ族の対立の頃だというのは、以前「ホテル・ルワンダ」のレビューで触れた。ただ、ホテルは、筆者が一番興味を持ったところとは、少し時代が外れていた。「ホテル~」はある意味でその第一報的に要素があったために、可也注目されたが、筆者にとっては期待以上、いや期待を満たせてくれるまでの内容だしなかった。というか、時代的に少し後になってしまい、悲劇が最高潮にあった時期からズレてしまったといえる。正直、映像的な残虐さを求めていた訳ではない。いまや、文芸作品ですら残虐なシーンはつきものになっている。映像として残虐かどうかより、作品の背景となる当時の事件が残虐なのであるから、それを表現するには時代の軸が作品の持つ時間軸を一定でなければ本当の事実は伝わってこない。そういう意味で「ホテル・ルワンダ」より良いと思ったのは、筆者の知っているこの部族の争いとその背景にある出来事との時間軸がぴったり当て嵌まっていたからだと考える。

この両族の争いはヨーロッパ諸国がこの大陸に介入するずっと前から起こっている、いわば、世界の至るところで起こっている民族の紛争である。もともとルワンダには農耕民だったフツ族が定住していた。牧畜民のツチ族がやってきたのは15世紀になったから。彼らは武力によってフツ族を支配し、その後1962年に独立した。90年代に入ると両民族間の抗争は激化し、フツ族が実権を握る政府に対して、ツチ族のゲリラが優勢になっていった。1994年、フツ族の大統領がなぞの飛行機事故で死去したことをきっかけに、今度はフツ族政府が組織的にツチ族を殺害しはじめたが、ツチ族ゲリラが政権を奪取し、結果、復讐を恐れる多数のフツ族が西隣のコンゴに亡命し、難民キャンプがつくられた。大変簡単に書いてしまったが、これがこの争いの背景である。「ホテルルワンダ」の「ミル・コン」同様、何か、フツ族が攻撃的でツチ族が被害者的に表現されているのが不可解であるが、このルワンダの問題だけを取上げるとそうなる。なので、この作品ではその後から現代に至る流れも描き、かつ、本当の真実はどこにあるのかを追求している。

文明国家だといいたくないが少なくとも欧米と同じ側に立っている国民から色々研究しても、やはりこの大陸の民族に対する細かいことは分からない。無論、分かろうとしても民族を超えることはできないが、ただ、余りにも他の地域に比べ、言語が多様化し、筆者から見るとみな同じに見えてしまうが沢山の民族があり、その数だけ風習があり。例えば、彼らには余り「宗教的」な感じがしないが、それは我々の言っている宗教であって、彼らの考えにあるのは自然教に近く、いわば、彼らの方がずっと「神」という存在が身近なのかもしれない。だから、この作品では牧師という立場にあるクリストファー神父の存在が大きい。そして、神父と接する現地の民族の中に、かすかではあるが、今後、この地域の人たちと共にどう人間の営みを良い方向へ創造していけるのかという希望が感じられるのである。

マリーの最後の台詞に、どんな境遇でも時間は平等にあることを示唆。エンドロールも含めて静かたが説得力があり印象深いラストだ。だから余計に悲しく、最後は邦題通り、涙のオンパレードになる。


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by turtoone | 2007-12-05 22:07 | 映画(ら行)
b0046687_1982972.jpg以前に「食人大統領アミン」という映画があり、わが国では食人族のブームもあって注目された。勿論、アミンが食人しているわけでなく、それほど残虐だったということであるが、正直内容は殆ど覚えていない。しかし、いずれはまともなこの人物を描いた映画作品化があると思っていたが、ジャイルズ・フォーデンのこの小説作品を原作に持ってくるとは意外だった。アミン大統領はこれまでにその足跡等は書かれていないのである。

イディ・アミン・ダダ・オウメが、世間から注目されるようになったのは、多分1978年にタンザニア侵攻し、大失敗したときが最初だったと思う。筆者も当時はまだ現代のアフリカというものには然程興味を持っていなかった。無論、歴史という観点からみれば、15世紀以降の悲惨な状況については、色々研究材料にしたり、文献も読んだ。ただ。この当時は国際ニュースの中にも今のように頻繁にアフリカ情勢は伝えられなかった。大体、マスコミが国際ニュースを一日何度も報道するようになったのはバブリー前夜で、日本人の投資先がアフリカを関係する資源やビジネスに向いてきてからの話である。なので、それ以前のアミンの消息自体、筆者はリアルタイムでの知識はない。ただ、ウガンダ共和国には、丁度この前後に、有名なアユブ・カルレというボクサーが居て、確か、日本人チャンピオンを破って世界チャンピオンになった筈である。デンマークの選手とだったが、出身はウガンダということだったのでとてもよく覚えている。そういえば、アミン大統領もボクサーで、ヘビー級チャンピオンだった。アントニオ猪木との異種格闘技試合を計画されたが、その後のクーデターでお流れになった筈だ。

アミン大統領には余り良いイメージはない、後々の言われたことであるが、ヒトラーを尊敬していたとか、40万人の虐殺を行ったことから「食人大統領」だとか。だが、この作品では、アミンのイメージから比べると主演のフォレスト・ウィテッカーは、ずっと優しい感じがあり、結構それが最後まで払拭出来なかったが、考えてみれば、前述した通り、筆者の知っているアミンというのはウガンダで大量虐殺を繰り返し、国際的に批判が高まり「人食いアミン」などと言われた頃だから、この作品のラストよりも後の事である。そういう意味では、ガンジーのベン・キングスレー、マルコムXのデンゼル、レイチャールズのジェイミーの様に、本人にそっくりになってしまうというパフォーマンスは、役者魂を感じると同時に、実物に左右されてしまう嫌いがある。
勿論、ハリウッドスターだから物真似の域からは突出しているが、一方で本人を越えられないという悲しさがある。有名人を演じるのは色々難しいというものだ。

しかし、この作品では、敢えてアミンに似せなかった事で、かなり新しいアミンの人物像を取り入れられ、同時に新しい「アミン」を鑑賞者に提供できたのでと思う。そもそも軍事クーデターなんて、一参謀総長ができることではなく、その背後には必ず黒幕がある。アフリカ大陸諸国においては殆どが欧州各国である。舞台をアフリカ大陸においているだけであって、要は国と国とのボードゲームの範疇に過ぎない。アフリカはいつも犠牲者だ。アミンにはダークな部分が多いが、ただ、この作品ではその匂いは極力抑えて、人間アミンを描こうとした点は見事である。タイトルにあるように「スコットランド」に拘ったのも良かった。彼自身は英国でいえば、大統領になろうがなるまいが「一方面隊長」でいるよりも、ラグビーやボクシングで活躍し、五輪のイギリス代表になった方が良かったのじゃないかと思う。作品はそこまで極端には言ってないが、そういうところを彷彿させる箇所は幾つかあった。

作品も全体的に単調で、もう少し起伏を持たせれば良かった。ただ、フォレスト・ウィテッカーの演技は流石であり、このオスカー受賞は当然である。


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by turtoone | 2007-10-24 18:59 | 映画(ら行)
b0046687_2222660.jpg何かとても久しぶりにレビューを書く気がする。

本年の上半期は良い作品が多かった。多かったが故に、ちゃんと作品に関して、未熟ながらも自分の意見名を言っておきたいと思った。だから、上半期の作品は、DVDで再鑑賞して、きちんと自分なりに纏めたいと思っている、幸い、10月くらいまでには、殆どの上映作品が出揃うということと、ある意味ラッキーなのは、下半期はそんなに期待作品が多くない。

この表題作品の素晴らしさは、「アメリカの病巣を一家族に押し込んだ」ことにあり、かつ作品の発想が最高である。オスカーで脚本賞を獲得したが、脚本もさることながら、この作品の構想が素晴らしい。今、この作品を作ろうとした趣旨も意図も、それに賛同したスタッフも出演したキャストも、すべてが、この共通観念を統一していなかったら出来なかった作品である。それは「家族」に対してであり、また同時にこの国のテーマである「家族に対する考察」である。

現代はアメリカだけでなく世界中で家族という定義が多様化していて、いわゆる、人間本来の営みである、肉親で形成される家族ではなく、性や年齢、或いは道徳を超えた家族というのが、普通でなくなって来ている。筆者はそれは時代の趨勢であるから、そのことに関しての善悪は問う積もりは毛頭ないし、だというのならそもそもの家族という定義や、法律的公式って何なのだろうと思う。日本という国は比較的明瞭に家族という定義を少なくとも7割以上の人が同一の見解を持っていると考える。それは即ち、「土地」であり、その元は「稲作」である。日本の民族は「自分」の土地を「開拓」することを繰り返して来た、世界的にも例のないいたって強い民族である。欧米のように「土地が欲しい」とか「土地を守る」という、欲望の固まりかち、消極的な民族とは質が違うのである。それが転じて「家族」となったから、つまりは家族に対する責任感というものも、欧米や、他のアジア諸国とは比べ物にならない。この点は、日本人が全世界にもっと誇って良い点であると思う。

「家族」という定義に関しては統一化をすることが難しいといいつつも、現代、つまりボーダーレス時代で、言葉や人種を越えた交流というのは素晴らしいと思う一方で、ボーダーがあった方が良い側面も世の中には沢山存在する。極論をいえば、形而上下にあるもの、現実と非現実などの世界を仕切るボーダーは介在するのが当たり前で、この箍が外れた時、人間は大きな過ちを起こすきっかけとなる。

上記を踏まえて、だからこそこの作品が、家族に拘り、且つ、前述したように、現代米社会の病巣をすべてこのオンボロワーゲンに詰め込んだことを賞賛する。そして、それが一番如実に表現できることを可能にするロードムービーという形式を選んだこともである。

また、家族の設定がユニークである。特に、長男と叔父は最高で、この二人が最終的には一番分かり会えるであろうという、比較的早い段階からの大方の観客の予測を裏切りことなく、まるで、ペンでなぞった様に、その通りに話を進めて行く。そう、この辺りは脚本の妙であり、オスカーの選択が正しかったことを証明する。

ただし、コンテストシーンでのラス前部分の家族総出演は余計だった。この作品は、観客に何を考えるかを提言するので終わってよかった。だから、提言した回答を自分で答えてしまったために、それ以上の強いメッセージは必要なかったのではないか。残念ながら、筆者の言う、こういう細かいところが超一流作品になれるか、なれないかの瀬戸際なのでもある。


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by turtoone | 2007-08-11 23:41 | 映画(ら行)