暫く療養と入院、更に手術をしまして映画ブログは更新を怠っておりました。作品は鑑賞してますので、徐々に復帰させていただきます。今後共、よろしくおねがいします。


by turtoone
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カテゴリ:映画(な行)( 13 )

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音楽のブログでは稀に触れることがあるが、この「のだめカンタービレ」の原作者というのは、本当に良くクラシック音楽を知っているといつもながら敬服する。しかも単にクラシック音楽を知っているだけというのなら、筆者も含めてマニアックのパーセンテージは、もしかしたらジャズマニアと同じくらい存在するかも知れないが、更に言えばこの作者は楽器にも楽典にも、そして音楽家という人種を大変欲理解しているし、更に言えばそれらを含めて、それでは何故、この日本という国ではクラシック音楽が流行らないのかということも知っている。そう、日本人は残念ながら本質的にクラシック音楽がどんなものだということを理解していないが、それは文化・芸術の違いだから仕方がない。しかし、仕方がないというだけてなく、この原作者はそれでもまだクラシック音楽を楽しめる余地を残していることを実に良く知っている。だからこの作品がコミックから映像に土壌を変えたときに、初めて「音楽」がこの物語を脚色する一要素として加わったときに、大きくこの物語は再生し、そしてクラシックも随分浸透した。

例えば、ラヴェルのボレロのくだりで抱腹絶倒できた人。貴方はすでに立派なクラシックファンである。あの面白さというのは究極である。同時に楽団のオーディション風景。ファゴットのエピソードがその後に関しても極めつけで実に拘りがある。そういうコメディ要素をふんだんに盛り込みつつも、再編成した楽団の演奏曲、特にバッハのコンチェルトの弾き振りと、チャイコの悲創にのだめの心境がシンクロしているところなどは、新しい音楽の姿を描きつつ、さらに主人公である野田恵がこの物語の中心であることを見事に描写している。ただ、同時にクラシックファンとしては残念な疑問も残る。ドラマの特別編でのヴァイオリンコンチェルトから矢鱈とチャイコの曲が多いが、ヨーロッパでチャイコはあんなに絶賛されないし、大序曲1812(パリのオケだからこの曲が認められるのは分かるのだが…)を、まず1曲めには持って来ないところが少し残念だが…。こんなに最初から盛り上げてしまうと次の曲が続かないから余りこういう構成は多くない。ただ一方でこれがパリの市民に対してだという皮肉まで込められているとした(この原作者のスタンスとしてそれは無いと思う。彼女は常に調和とか尊敬というキーワードを持っている。それは音楽家同志でもあり、また客席に対してもそうだから)音楽界の現状、フランスへの風刺も訴えていて面白いのだが。また、今まではテレビで、如何に46型の大きな画面で、ホームシアターで聴いていても、やはり映画館の音響はずっと迫力があったので、この作品は映画して正解であった。

私は原作を知らないので後編への期待は大きいが、予告編を見る限り、後編はなんとのだめがミルフィと共演、しかもそれがショパンの1番、これはメモリアルイヤーを意識してもあるだろうが、ピアニストとしては最高の勲章。それと同時にショパンで与えられた幼い頃のトラウマをショパンで克服しようとするのか。そして更に時間の無いというミルフィはやはり耳が聴こえなくなってしまうのか。興味は尽きないが、クラシックにはまだまだ名曲が沢山ある。個人的には千秋真一のマーラーが聴きたい(まだまだ新鋭指揮者だからマーラーを振るには青臭いかもしれないが、ショパンが200年なら、マーラーも150年のメモリアルだから)など、後編で終わられてしまうのは大変勿体無いほど、コンセプトのしっかりした作品であることは間違いないのである。


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by turtoone | 2010-02-11 18:13 | 映画(な行)
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「20世紀少年 第1章」から僅か5ヶ月の続編の速さには驚いたが、今回の番宣は異常な程の力の入れようだったと思う。そして、第1章のレビューではこの3部構成の製作化に気合の入った試みだと高い評価を下したが、残念ながらこの2作目を観たところでは、試みは立派だったが、結局実績が伴わなかったという評価である。

筆者はこの3部作映画作品が完結するまで、原作は読まないと誓ったのには沢山の興味があったからである。その大きな理由のひとつは、この時代背景てであり、更にこの時代に略同世代で生きた「少年」を描いているからである。要するに「20世紀少年」というタイトル通り、日本で20世紀の少年を一番象徴できる世代はどこかというと、この60年代安保前後に誕生している世代である。この世代は未就学児のときに東京五輪が行われ、小学校高学年でアポロの月着陸をテレビで視聴し、そのお土産だった月の石を大阪万博で観る。松下館が考案したタイムカプセルを模写して、卒業記念に学校の片隅に穴を掘って思い出の品々を持ち寄り埋めた。また、秘密基地の好きな世代だったし、未来予測に対してものすごく前向きな世代だった。「よげんの書」の様なものは、クラスで1人は必ず書いていた。(そういう筆者も書いていたが、ミッションスクールだったので、どうも新約聖書の黙示録がダブル・・・)。よげんの書でなくても未来都市構想というのを殆どの人が持っていて、夏休みの自由研究は毎年、数人が「未来都市」を作って2月期に提出したと記憶している。卒業制作で作ったクラスもあった。だから、この世代の少年時代はまさに「20世紀少年」の名に相応しいし、第1章ではその背景が良く描かれていたのである。

原作は良く分からないが、多分、「20世紀少年時代」が可也フラッシュバックで沢山登場すると思うのだが、今作品の大きな失敗は、「ともだちランド」と「記念館」にあった。こういうストーリーが原作に有る無しでなく、この作品でここまで大きく描く内容であったかは疑問が多く、別段、ここをクローズアップしなくても、理科室やサダキヨの話はどうにでも結び付けられる。というのは、トモダチは今や、一宗教教祖ではなく、世界から尊敬されているという設定に、あの思いっきり洗脳されたトモダチランドのスタッフ(特に小池の顔は異常だ、本当に洗脳されているのではと過剰演出だ)は、この後の展開との乖離を著しくするものにほかならないからである。そして、別に基督教徒でなくても、キリストを知っている人であれば、意図も簡単に、「神になる」の意味の謎(というレベルの物ではないが)が解けてしまうのである。この点は非常に残念だった。

また、主役が唐沢からトヨエツではなく、かんなを中心に描いたのも、平が悪いというわけではないが、彼女には力量不足で、寧ろ小泉響子の方が登場人物的に魅力があった点も残念な点である。とって付けた様な「しんよげんの書」の出現も、作品の軸を何処に置いているのかを不鮮明にさせる(この点は第1部でも述べた、もし、わざとそうしているのだとしたら脚本ミスだった)要因である。結局は第3部への期待というのは「ともだちは誰なんだ」という事しか残らなくなったのも、この作品が第1部の良いところを残さず、数々の説明不足(例えば、藤木まで起用したチョーさんの孫ってあの程度? ホームレスから金持ちになった神、民友党党首とトモダチの関係)の上に余計な新たであるが陳腐なストーリーを乗っけたことにある。とても残念である。

当然であるが第3部にはケンヂが戻ってくる。そうでないと筆者は納得しない。第2部で裏切られたが8月29日が待ち遠しいことに変わりはない。


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by turtoone | 2009-02-08 18:56 | 映画(な行)

20世紀少年

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待望の鑑賞である。先週の三連休も含め、自宅近くのシネコンは映画作品の各シアターへの振り分けが大変下手だ。1000名入る会場から小さいのは150名程度だが、兎に角前から思っていたが割り振りが下手過ぎる。確かに住宅街にあり、また駅前にありというところで色々な鑑賞者の種類があるものの、だからシネコンなのであって、例えば、最新の興行ランキングなんか全く無視をしている。だから先週は「おくりびと」「パコ」は各回共売り切れ、「ポニョ」なんて未だに2スクリーン、しかも大きな会場を同時でやってて、片方はガラガラ。ランキングトップを独走中の本作品も今週になってやっと大きなスクリーンに戻った。しかし「ウォンテッド」が始まっているのと、同時に「アキレス」の入場予測を見誤った様で、そのお陰か、本作品はベストポジションでゆったり鑑賞できた。

この作品には二つの大きな期待があった。ひとつは主人公の境遇が同年代であること。もうひとつは邦画には珍しい3部作であること。同年代であることに関して言えば、それだけでなく、ケンヂとは随分ダブルことが多い。その筆頭はミュージシャンだったこと。筆者は80年代にまでグラムロックを引きずっていなかったし、ミュージシャンは皆27歳で死ぬなんてことは、言われてみればであって当時そんな意識をしていなかったが、日本の音楽シーンを考えるとあの時代にグラムをやるなんて全くの時代錯誤かよっぽど翔んでいるかのどちらか(そういえば「翔んでいる」なんて言葉は筆者の青春時代に流行った言葉だったような・・・)。ケンヂのその後(例えば安易にコンビニを始めた経緯)を考えると前者なのだが、「よげんの書」のことを考えると実は後者だったのかも知れないが、この種明かしは思いっきり次回作の主題になりそうだ。(この部分は筆者の思っていた通りの展開になりそうで思わずニンマリ・・・)。邦画の3部作というのも、これがとてつもないベストセラー(コミックは余り詳しくないのだが・・・)という訳ではないのに、それを60億円を掛けての制作という「気合」がとても気に入った。筆者における映画鑑賞って、偉そうなことを書いていても、時代設定とか気合とかで、もう相当良いところまで行ってしまうのだ。そして豪華キャストもそのひとつの要因だ。

唐沢大好き、常盤(生誕日が一緒、年は違うけど・・・)大好き、トヨエツ大好きだから、もうこの段階でこの作品はオッケーなのだが、今回はこの時代設定に沢山の拘りを見つけた。裸足で走る子っていたし、自転車の変速機ってそうそうあの場所についていたな。そして大阪万博の松下未来館の影響もあって「タイムカプセル」はあの当時、どこの学校でも流行っていたし、個人的にも実家の庭には、妹と当時の彼女と3人の宝物を色々埋めた(その後全面改築したので、多分掘り返されたと思うけど)。少年誌のノンブルもああだったという、基礎的なところに加え、同年代でないと見落としてしまうような細かい設定に迄生かされていたところが個人的には嬉しかった。実は欲を言えば、もっと時代的な部分で「音楽」に拘って欲しいと最初は思ったのだが、ケンヂが音楽を断念したという設定からのフラッシュバックだから、逆に音楽を最小限に留めたというところも作品のポリシーを感じられる。

一方で難点も多く、出演人物が多すぎたこと。主要7人の顔ぶれだけでも贅沢なのに、そこに関わってくる面々がカメオ出演も含めて豪華絢爛。逆にこの作品に出ていないと邦画の第一線にいないみたいな印象さえある。また、時代の場面切り替えが不自然に多すぎた。筆者は全く同年代だから年号がでなくともその時代を象徴するものがひとつでも出てくればすぐに自分の歴史と重ね合わることでその時代を把握できるが、そうでないと難しいと思う。特に、60~70年代というのは大変複雑な時代で、大阪万博のコンセプトが「人類の進歩と調和」だったように、すべての局面で日々変化・発展をしていた時代であり、現代とはそのスピードが違う。また、同時に日本人の生活基準というのが大きく変わっていった時代であり、この辺りは1年、2年違うだけで全然時代の背景となるもの、生活のベースとなる部分が違っている。一緒に観にいった次女がやはり分かりづらかったのが、ケンヂたち主人公の目線だったという。その部分に関しては納得する。ただ、この作品がハリウッド的でなく、邦画の新しい可能性を引き出す役割をしつつあることは認める。3部作を制作費という札束で作るのではなく、ある意味で日本現代史の表裏一体で捉え、未来に対しての負の財産も踏襲したテーマの表現は、大枚はたいただけで作れるものではない。少しだけだが、そのことを証明してくれた第1部であった。

ラストもすっきりしていた。少なくとも「LOTR」みたいに尻切れトンボではなかった点も、邦画らしいといえばその通りなのかもしれない。


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by turtoone | 2008-09-21 15:19 | 映画(な行)

西の魔女が死んだ

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この原作が100万部を越えるベストセラーだということを、シネコンで見終わった後立ち寄った書店で知ったが、如何に原作に忠実だったのか、それとも原作を越えられたのかは別として、なんて色々な要素を詰め込みすぎた作品なんだろうかと思った。対比が都会の喧騒(というシーンは出てこないが)とか、登校拒否、ダブルインカムなどやたらと現代社会の病巣になりうる要素のてんこ盛りに、田舎のスロウライフ生活一本で通そうとしている部分にはそもそもの作品としての無理があり、速読が出来、文学青年だった過去と比べ、最近は特に日本の新刊は週に1冊程度しか読めないから原作の存在すら知らなかったが、批判している訳ではなくこういう類の小説が売れてしまうということに疑問を感じる。

同様にこの作品の構成に関しても可也疑問を感じた。所謂「魔女修業」というと「魔女の宅急便」くらいしか思い浮かばす、だが実祖母が魔女だというリアリティのなさは、その時点で残念ながらアニメの原作に負けている。勿論、箒に乗って宙を飛べとか鼻をクチュクチュさせて荷物を簡単に運べということでなく、本当に自分の祖母が魔女なのであればその誇りだけで十分実社会でやっていける筈だと思うのだが、前述したように、現代の病巣を全部詰め込んだような家庭を勝手に築き上げ、対してそこにやれ自然の営みやら、人間の尊厳や価値やら、非文明的な生活やらをぶつけた総称としての魔女を置いていることに、そうか、現代の人間社会ってそんなに酷いものなのかって疑問に思う。舞の家族って別に特別なものではないし、夫婦ともに仕事を持っているとはいえ両親共にしっかりしているし、作品で見る限りとてもわが子のことを気遣っている。今、子供のことに体当たりできない親が多い中で、立派な親だと思う。父親だってそうだ。魔女とは当然義理の母だからぎこちなさはあるが、義理の父を尊敬していることを娘になんの飾りもなくストレートに話す。久しぶりにあって多感な中学生の娘とこれだけ話ができるということは仕事もしっかりとしているということだ。つまり。そもそも作者が想定していた対比は残念ながらこの物語設定では生まれない。欲張りすぎなのである。明治から戦後直後の作家作品はもっと骨太でイデオロギーがあった。今はこれがベストセラーなのかと思うとも残念ながら空虚感が広がるだけだ。

サチ・パーカー(確か本名はサチコ・パーカーだったかと・・・)は、親日派父、スティーヴが大女優シャーリー・マクレーンと別居してから以降、しばらく日本で暮らしていたから日本語も流暢であり、魔女って感じ(筆者の大好きなシャーリーは魔女役をやったけどね。母は今でも魔女みたいな雰囲気がある)はしない。寧ろりょうちゃんの方が狐みたいで、こっちが東の魔女みたいだと思う。余談だがりょうちゃんは雪女もできそうだが、雪女だったら「小雪」の方が適役かなぁと、余計なことを考える時間を与えてくれたほど、中盤は暇な作品だった。ただ、ゲンジの存在だけは場所は田舎とか自然に囲まれたかどうかしらないが、人間社会を描いている。そのゲンジに対して舞が最後まで受け入れられない部分はこの物語りで唯一よくわかるところであるが、問題はそれが年頃の娘に対してのゲンジが、ぶっきら棒な田舎の人間だからか、大人の男としてなのか、ただ、第一印象で嫌いなのかは彼女の内面でもわからないというのがこの年頃の娘であり、だからそれに対して結論を迫ったり、彼女の応対に必要以上に理を通そうとする魔女の対応も、どうも魔女らしさを感じないし、祖母らしさのかけらもない。説得力にも欠けている。一体、舞のバカンスの意味はなんだったのかというのが最後まで霧の中に包まれてしまったところが残念だった。だから最後の自動車のシーンで一気にまとめに入った舞の台詞は頂けない。

それから最後はあの花でなく、やはり野いちごを山一杯にしてくれなかったのかなぁ。魔女の最後の魔法でもなんでもいいからさって、ティム・バートンだったら原作を越えてやってくれたのに。


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by turtoone | 2008-07-05 17:57 | 映画(な行)
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前作の「第1章:ライオンと魔女」 では、映像化が不可能と言われた原作の世界観をディズニーティストに纏め上げ、今までにないファンタジー大作を創り上げた記念樹を映画界の歴史に残したが、今回は物語は単調であるものの、第1章との繋がりや前作で創出したナルニア国の世界観をどのように維持するか。また、勧善懲悪の内容と違い、様々な要因が交錯する表のストーリーとは違った裏にあるものをどれだけ上手く表現できるか等、注目に値する問題が山積しているこの作品であったが、鑑賞後の感想は、流石にディズニーの一言に尽きるのである。

全部で7章からなる「ナルニア国物語」はそれぞれは短い物語であるものの、この第1章と第2章にその後の物語のテイストがすべて詰め込まれているので少々この繋がりをこの時点で総括するのは小説の上では難しい。特に、作品でも処理が難しかったのがラストの部分と、同時に前作から1303年後のパラレルワールドとぺペンシー兄弟のロンドンでの実生活との連繋である。因みにこの太陽暦(という比較でよいのかは別として)とナルニア暦が1:3であることは、次回作の第3章「朝びらき丸 東の海へ」が本作より、英国で1年後、ナルニアで3年後という単純比較で初めて明らかになるが、パラレルワールドを行き来できる、キテレツの航時機みたいな感覚での時間移動だとすれば、その年代差が正しいかどうかは分からない。しかし、ディズニーの上手さというのは、暗に作品や台詞の中に未来を予測させるヒントを沢山残しているところである。特に本作では、前作でVFXの素晴らしさはすべて見せてしまったから、その技術を必要以上にひけらかすことをしていない。勿論、圧倒的に戦闘シーンが多いからひけらかしはしなくてもその恩恵には十二分に授かっている。しかし、更に一歩踏み込んだ部分が、例えば森の中のネズミが活躍するところだったり、木の根っこが巨大投石台を倒すところだったり、或いは、ナルニア族の戦法にも、ただ単にVFXの技術の駆使だけでなく、その可能性を引き出した仕掛けとその表現法のマッチングのひとつひとつに大いなる感動を与えてくれる。そうか、こういう風に使うのかって、最早、これは教科書である。

原作を大きく変えた効果も沢山あった。なんといっても、カスピアン王子の年齢設定である。原作では13歳であるが、映画では思い切って23歳にした。王位継承者が成人していて叔父が摂政というのも少し無理があるが、そんなことを考えさせない冒頭の展開と、もうひとつは一際光るベン・バーンズ効果である。映画ナルニアが前章から恐らく多くの鑑賞者に、前回、そして今回も与えていた不安は、この4兄弟で国が統治できるのかという部分ではないか。LOTRの強力なチームワークや、統治より精神世界を重視しているSWと違い、この物語はナルニアという国の歴史とぺペンシー4兄弟の歴史である。しかし、この23歳の凛々しいカスピアン王子への期待が、冒頭の疑問と不安を払拭した。だが、一方で4兄弟のナルニア入りも角笛リンクであるものの、この見方同士の出会いというのがぎこちなく、当然ながらナルニア第一帝であるピーターと、この時代では敵であるテルマール王子にとっては伝説が甦ったという現実の受け入れへの葛藤が描ききれず、結果、スーザンを媒介としてラストは結局そこに落ち着くのかという予測がこの時点で立ってしまうので、ディズニーお得意の13歳少年の未来観をもってきた方が良かったのかもしれない。しかし、それはひとつの意見であってこの王子の設定は見事である。

但し、作品の裏の部分では気になることも多く、特に基督教をベースとした宗教観は原作者C.Sルイスという人を考えれば当然で、アスランの存在が第2章で更に大きくなったこと、ネズミ一族のバグパイプ効果によるイギリスの歴史観、及び、ルーシーを女王陛下と称したナルニア族とこの国の未来観には、原作者の確固たる宗教観(信仰心)と当時英国への風刺が十二分に組み込まれている。この辺りは今後の作品化で最も危惧しなければならない要因で、果たしてディズニーティストで如何に覆いつくすのかという部分には今から興味津々である。そしてエドマンドである。第1章でも白い魔女との最初の接触が彼だったように、この物語はエドマンドを中心に見ると、この国や国の住人たち、及び現在についても、またぺペンシー4兄弟についても一番良く分かるのであるが、今回、目立たなくとも最も主張させていたのがエドマンドという役柄である。最初から次回作への伏線であり、且つ、役柄だけでなく俳優に対する思い入れもディズニーは上手い。なにしろ、アニメにおいては役柄も俳優も同じだから、そのオマージュの連鎖はなかなか他のプロジェクトチームでは実現できない部分なのである。

すべての面で前作を上回っていた。2作続けて尻切れトンボにしないラストを考えると、構成面でもLOTRを越えている。2010年公開予定の次回作にも期待大。


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by turtoone | 2008-05-25 23:57 | 映画(な行)

ノーカントリー

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今年度のオスカー作品賞。但し、2年連続、オスカーは何を基準に作品賞を選んだのかという疑問だけが残った作品鑑賞であった。

9.11以降、アメリカは何を基準に何処へ行こうとしているのかが本当に不明瞭に成ってきている。昨今の大統領候補選びもそうだ。民主党といい共和党といい、勿論候補者を選ぶ合衆国民が、国家になにを求めているのか、また、それ以前に自分たちが何を要求したいのかが分からない。しかし、これは何もアメリカだけではなく、昨今のわが国も同じかもしれない。だが重大事としては、本来そういう国家の姿勢に苦言を呈することの出来る人物や組織、団体がなくなってきているということも事実。特にマスコミの体たらくは全世界に共通することだ。映画というのは広い意味でいえば、芸術という部分にも、報道ではないが主張するという部分とメディアということではではマスコミという分類にも入る。少なくとも、その映画の世界での最高峰にある表彰が、なぜ、こういう作品ばかりを選出するのかが全く理解できない。

とはいうものの、作品を否定しているわけではない。こういう作品があっても良い。少なくともその作品の奥底に潜む主張は理解できるからである。前述したが、今アメリカが何処に行こうとしているかの問題点を見事に現した作品だし、それは暗に今に始まったことではなく、1980年に始まったことであると言っている。この時代設定は無視しても構わないと思うが、この年代を重視したほうがこの作品化はより理解できる。特にモスの行動である。200万ドルという大金を冷静に処理するかと思えば、思ってもみない行動に出る。しかし、それはベトナムを戦った男のその後の時代では全く無意味になってしまった誇りである。そして二人の追う男がいる。一人はユーモアを持たない男である。アメリカ人に本当の意味でのユーモアがなくなったのは何時からだろうか。そう、丁度この時代に関わってくる。世界の頂点に立っていたアメリカ。世界で最も強かったアメリカは、1979年にロシアにアフガニスタンに侵攻されその面目を失うこととなる。中東にも多くの火種を抱え、もはや、第2次世界大戦終戦の頃からの勢いは全くみられなくなった。ユーモアをなくした国、それが今のアメリカであり、その起源は丁度このころである。さらにもう一人の追う男こそ、昔ながらのアメリカである。恐らく、南北戦争以降ずっとこの場所を統治してきた一族の末裔である。自由の国アメリカで一番似合わないもの、実力の国アメリカに一番必要でないもの、それは世襲である。そして、それがもうこの時代には通用はなくなっている、こんなアメリカのど田舎でも通用しなくなっていることを主張している。この特異な3人の人物をうまくバランスさせることで、作品を見事に構築した。

もうひとつ、今回はネタバレスレスレで言わせていただくが、この3人の物語からの「消し方」に興味がある。そう、この3つとも「消却」してしまわなければ、これからのアメリカは無いという風刺が込められている。モス、シガー、ベル保安官の順番で前述解説したそれぞれの役割は、この物語にあるように「消えて」いかなくてはならないというのが、この物語を通して主張されたアメリカの将来への提言である。武器や戦争はいらない、ユーモアを取り戻せ、そして権威は自ら捨て去れというのが、コーエン兄弟が提唱するアメリカの道標であろう。この辺りの流れは一方で呆気なく思われるシーンもあるが、どうして作品全体を通して考えると可也深い。

但し、冒頭に述べたようにこういう作品をオスカーに選出した意味は全く分からない。作品として出来が悪いといっているのではない。沢山ある作品の中ではこういうものもあっても良いし、奥底にあるものを考えると高く評価をすることも出来る。しかし、これが年度を代表する作品だということには可也問題があると苦言を呈しておきたい。本当にここ数年、いや、極端にいえば、筆者は2001年「ビューティフルマインド」を最後にすべての作品がその年を代表するとは思えなく、納得していない。もうひとつ、ハビエル・バルデムの助演男優賞も非難する。予告編を観て「海を飛ぶ夢」以上の演技を期待したが、全くもって外された。勿論彼の演技は好きだし、今回の太りっぷりといい、髪型といい役作りは工夫が見られるが、これでは、ジョージ・クルーにーとシャー子さま、レネーと同じ「太ったデ賞」でしたないではないか。はっきり申し上げ、ケイシー・アフレックの方が上であった。そう、ケイシーで思い出したが、これだけの人と人とが関わる作品なのに、「ジェシージェームスの暗殺」のような心理戦が殆どなかったのも残念。その辺りが加わるともっと評価も上がったのだと思う。

筆者的にはラストの2シーンにやたら注目。子供のシーンと保安官の夢。シガーが去った直後の子供の会話には注目して欲しい。そして、保安官の台詞が案じるアメリカの未来にも。但し、ここも、最後で問題提起に長々係ったことを一気に纏めに入った、というか慌てて纏めたという印象だけが残ってしまった作品になった。要するに、この作品はモーツァルトの「レクイエム」やシューベルトの第8番交響曲を高く評価しているようなものである。ちょっと例えがまずいかな??


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by turtoone | 2008-04-06 22:45 | 映画(な行)
b0046687_13171858.jpg冒頭から申し訳ないが、昨年公開を見逃した作品で、だから今、このレビューを書きながらとても後悔をしている。筆者がこの傾向の作品を筆者が見逃す事は珍しい。題材も好きな要素が揃っている。開拓史時代、ネイティブアメリカン、歴史人物モノと、忙しくても時間をほじくり出してでも観に行く内容なのに、何故留ったのか。その理由は、ファンには申し訳ないが、多分、コリン・ファレルなんだと思う。それも、やはり、歴史モノである「アレキサンダー」を引っ張ったのと、ジョンスミスの印象との不一致があったのだと思う。鑑賞以前に配役面で、その有無を決めることは滅多にないのだが、確かに公開時は丁度一年前くらいで、忙しなくても作品鑑賞の有無を、ブロガー皆様の記事で判断することも新しい基準として取り入れた時期だったから、前述の固定観念を打開する記事にまで辿りつけなかったのかもしれない。そういう訳であくまでも筆者としては総合的な評価は別として、かなりこの作品は色々な意味で「好きな作品」であるが、それについては後述する。

さて、ジョン・スミスについて少し知っていることを書くと、実は知っている事は余りなく、歴史的事実でいうと一般的に「ヴァージニアを命名した人」というのが残っているのと、所謂、17世紀当時の探検家であり色々と書物を出版しているが、日本語訳はないので、筆者が読んだ書物は一冊もない。前者は、命名というよりヴァージニア社の一員としてジェームズタウン建設者として入植。その後、この作品にもあるように先住民と交易を試みて失敗、処刑されかかったところを一族の長の娘、マトアカ(ポカホンタスー正式な発音はポカハンタスで「小さないたずら者」という意味の幼少からのあだ名)に助けられる。又、後者に関しては、「New England Trials」や「The Generall Historie」という書物を出版し、この中でポカホンタスに助けられたことを書いているが、これは既に、彼女の死後で、その信憑性に関しては怪しいのが後世の判断である。

一方、ポカホンタス側から書くと、先に述べた入植者の身代わりとして誘拐され、捕虜となり、解放条件として捕虜となっていたイギリス人の解放、大量の武器の引き渡し、トウモロコシによる多額の賠償の支払いという過大な条件を提示された。この時期、彼女は英語を教わり、洗礼を受けたところは、その通りこの作品にも描かれている。後、彼女はヴァージニアにタバコ栽培を確立したジョン・ロルフと結婚し、名を「レベッカ・ロルフ」と変え、平和な生活を続けた。ところが、ヴァージニア植民地の出資者たちは、ジェームズタウン事業継続の困難を悟り、ポカホンタスを、新世界の安全を広報するための材料として使うことを考え、夫ロルフと共にイングランドに連れられ、ジェームズ1世に謁見し、「インディアンの姫」と紹介され大センセーションを巻き起こし、新世界アメリカ最初の国際的有名人となる一方で、より多くの投資と王の関心をもたらした。実は、彼女が最初に捕虜にされた時に、それ以前から入植者に恋人が居たという噂があり、それがたまたま後世のジョンスミスの救出話と一体化したのが彼等のロマンス話になったのだと言われているが、どちらが本当かを証明するものは何もなく、どちらかというと恋人は作り話であるという説が強い。ご存知のようにディズニーは恋人説を取っているが。

作品評に戻ると、兎に角好きな要素が多い。まず作品全体がゆったりと流れる。これは、この当時の時代を感じると共に「ネイティブの時」を感じる。一方で入植者が来なければ、今でもアメリカ大陸はこういう悠長な生活をしていたのだと思う。スローライフなんていう言葉が負けてしまうほどの印象を上手く描写した。更に、セリフが少ない。憶測であるが、多分、当時この大陸では実際にはそんなに喋らなかったのだと思う。喋る必要もないのと、人間生活というのは、人間同士のコミュニケーションだけでなく、もっと自然との対話であるとか、そういうことかが大切だったんだということも教えている。更に、カット割りが良い。自然の風景を合間、合間に入れることでネイティブが自然と共に生きている事を暗に示している。そういう処をとても大事に撮っている。そして、前述したジョン・スミスとポカホンタスである。蛇足であるが、ポカホンタスは、ディズニーアニメのヒロイン中ではムーランと、アリエル(リトル・マーメード)と共に筆者の三大ヒロイン。良く人にかなり変わった選択だと言われるが、動のポカホンタス、知のムーラン、美のアリエルであるし、他にも筆者の好きな要素の言い方で変えれば、インディアンのポカホンタスであり、歴史のムーランであり、音楽のアリエルだから間違っていない。

前述したが、カット割とシーンの構成は見事である。特に、新しい手法ではないだけにこの構成には脱帽する。シアター鑑賞しなかったのが悔やまれる作品であるが、今後は名画座での再演を見逃さない様にしたい。


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by turtoone | 2007-04-09 02:23 | 映画(な行)

ナイロビの蜂

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今年のオスカーでレイチェル・ワイズが助演女優賞を獲得しなかったら、多分、見向きもしなかった作品である。というか、勝手にこの部門はフェリシティ・マクドーマンドで決まりだと思っていたから、レイチェルの名前が呼ばれたとき、「エ~ノミネートされてたっけ~?」って。これは実は、助演男優も同じ現象で、ここもジアマッティで決まっていたから、クルーニーの名前が挙がったときは監督賞だと思った。そんなわけで知り合った作品も、「ホテル・ルワンダ」(しまった、これもレビュー買いてなかった)の後でアフリカモノを観たところで、多分、色々不平不満を残すんだろうなと思いながら、しかし、レイチェルの演技だけは抑えておきたいという一念の鑑賞である。

しかしながら、正直なところこの作品の意図、及び主題が全く分からないという結論である。アフリカという地域のことを考えてみると、ヨーロッパの犠牲であるということは、何も今に始まったことでは無い。冷たい言い方をしているのでなく、ヨーロッパが16世紀以降にやって来たことは、全世界に対してであり、何も対アフリカに限ったことでない。21世紀の人間社会の軸で考えると、世界の飢えている人たちは殆どアフリカに集中しているとか、エイズを筆頭に人類科学では未知の領域にある病原の源であるとか、文明社会と名の着く人間、つまり我々は勝手なことをほざいた挙句、哀れむ。これは人間のエゴである。筆者も勿論勝手側の人間であり、「アフリカの~」なんていう言い方や思い方をしている段階では、エゴの固まりなのであり、あんたなんかにこの地域の現状を語るは愚か、考える資格すらないというものだ。そう、何もしていないのは、何の思いも無いのと同じ、「クリックで救える命がある」は毎日クリックしているから、それが一体なんだっていうんだろうと、自己の無力さと不甲斐なさをいつも感じる。

だから、こんな無力の認識は日常のニュースで充分である。この作品、一体、何を、問題にしたかった?製薬会社の人体実験? アフリカに今日はびこる不正、利権、汚職の数々?そんなことはわざわざ映画作品にしなくても分かっているのが当然。日本経済新聞やNews week読んでいれば、NHKスペシャルやCNNを観ていれば、最低月1回はこんなニュースを報道してくれる。つまり作品にするには、可也突っ込みが甘かった。単なるドキュメントタッチだけでなく、文芸作品に仕上げたかったのか、それとも、冒頭の展開から、ミステリー要素を入れたかったのか、ストーリーは問題点が確信に近づくと男女の愛と誤解にアングルが振られ、同時にそのたびに焦点が惚ける連続であった。筆者の鑑賞の仕方が甘いのかもしれないが、この作品の様に、鑑賞側のエモーショナル・ラインをぶっつん・ぶっつん切られてしまうと、正直、最初から「鑑賞の方針」を決めている訳でないので、最後の最後まで戸惑った。穿った見方かも知れないが、人間愛という観点から考えると、愛なのか任務なのかその線引きを妙に暈かしつつ、最終的にジャスティン(レイフ・ファインズ)の後半の行動を、アフリカの現状と同軸で描こうとしている「エゴ」が妙に鼻につき、又、悲しかった。無論、前述したように、筆者にそんな悲しむ資格などないのであるが。

また、残念ながらレイチェルの演技はオスカーモノだとも思えない。冒頭は「コンスタンティン」のパロディかと思ったが、この作品の演技と然程かわらないのは、テッサの中にある真実が彼女の演技から伝わってこなかったからであろう。尤も、これはレイチェルの演技の問題でなく、前述したエモーショナル・ラインをぶつ切りにしてしまった脚本の問題だと思うが。寧ろダニー・ヒューストンの演技が見事であった。この人って監督業が本業なのだろうが、「功名が辻」の三谷なんかと違って、役者としての活躍も今後期待できそうだ。ヒューストンってどこかで聞いた名前だと思ったら、父は「黄金」でオスカーを獲得したジョニー・ヒューストン監督。この人も監督と役者の両建てだった。次いでながら、この「黄金」に出て、助演男優賞を取ったのが、ジョニーの父、ウォルター・ヒューストン。って、ことは、あのアンジェリカ・ヒューストンはダニーの姉(彼女も「女と男の名誉」でオスカー助演女優を獲得)ってことで、そう、知らなかったこととはいえ、最後はオスカー一家ヒューストン家の紹介になってしまったようだか・・・。そうそう、音楽は良かった。

早いもので、オスカー主演女優作となった「ウォーク・ザ・ライン」のDVDが発売されたので早速購入して改めて鑑賞したが、このレイチェルが助演なら、あごムスメの主演もありかって妙に納得してしまった。この作品は随分身近に観にいきたいという人が沢山いるのであるが、筆者的にはDVD、それもレンタルで充分だと思う。


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by turtoone | 2006-05-30 21:27 | 映画(な行)
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「指環物語」が映画化されたときに、まさか、この表題作品もがこの様な実写で作品化されるとは夢にも思わなかった。しかし、ハリウッドというところは、時折、夢を現実にしてしまう場所であるから、もしかしたらアリかなぁって期待もどこかにあった。世界三大ファンタジーというのは、実は日本人には大変馴染みが薄い。もう一作の「ゲド戦記」は、ジブリでアニメーション作品になるらしいが、確かに、筆者の想像の中でも、ゲド戦記が一番映像化が難しい作品である。勿論、この「ナルニア国物語」だって、動物が人間と同じ会話をしてしまったり、物語に出て来るこの動物たちは、本当に人間と同じ考えや行動をする。そういうある種の「違和感」というのは、「読み物」の中では読み手の想像力の範疇で解決してしまうものであるから良いが、映像世界での表現や感動はなかなか完成しないという認識がある。しかしながら、この作品というのは、「ディズニー」というキーワードをもってしてみれば全てが解決してしまうという結論に達した。

そう、流石にディズニーという、その持てる力を惜しみなく発した作品である。

全編を通して、まず、撮影技術や美術が大変細部にまでわたり凝っていて、更に最新の技術と、何よりも技術者の拘りがある。しかし、だからといってそれをひけらかしている訳では無い。変な言い方かも知れないが、ディズニーは今まで、アニメーションで様々な手法や表現を試みてきた。そしてそれらは、アニメという土壌でしか出来ない表現でもあった。しかし、この作品には、今までアニメーションでしかできないと思われてきたことを殆ど可能にしてしまった。この点に関しては、今まであった沢山のファンタジー作品のどれよりも優れている。つまりは、新技術なのに全く不自然でない描写表現を、違和感の無い構成の中に纏め上げている。実に見事である。

また、子役の遣い方が上手い。これもディズニーならでは経験値蓄積の賜物である。これもアニメーション作成の際にはキャラクター考案から始めるのであるから、役者選びに関してもそのノウハウが如何なく発揮されたのであろう。特にルーシーのキャスティングといい、彼女への演技指導といい、更には、ジョージ・ヘンリーという子役俳優をこれだけ魅力的で、幼いヒロインとしてスクリーンに登場させたことは残念ながら世界の中で、このディズニーという名のチームでしか出来ない離れ業なのである。勿論、ペベンシー兄弟は4人ともみな魅力的である。そして、この兄弟には、これまでディズニーが培って来た「魅力的な役作り」の全てが投入されている。いつしか、このディズニーマジックに観客は填まってしまう。

そして、何といっても「感動の連続」である。そう、過去にこれほど「泣いた」ファンタジー作品があっただろうか? 過去にあった色々なファンタジー作品とは全く違うコンセプト。つまりは、自分達の理論とノウハウというディズニー方程式に当てはめただけでなく、それで新しい解を導き出してしまったのである。

ベタ褒めをしてしまっているが、本当に最初から最後まで、ディズニーの底力を感じた。そして、ラストに残るものも、単に物語の終焉でなく、それを完結させるのは、この作品を鑑賞したひとりひとりに委ねているという、「ディズニーらしさ」なのである。ここまでディズニーらしさに徹してくれたとき、この物語は第一章の時点では「遥かに原作を超えた」もしくは「原作とは全く違う作品」を作り上げたのである。映画という試みが「総合芸術」だと、こういう作品を鑑賞するとつくづく実感し、さらに満足するのである。


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by turtoone | 2006-03-06 23:05 | 映画(な行)
b0046687_19401212.jpgジャケットにもあるように全米を震撼させた実話の映画化である。勿論、良識ある判断の持ち主であれば、マスコミの垂れ流すすべての報道・情報を100%信じている訳ではないのは、日本も同じである。テレビが視聴覚というマジックによって「真実の婉曲」を諮る手法を用いるようになった1970年代から(元はといえば佐藤栄作の無知な発言が拙かったのだが・・・)新聞の報道合戦も過熱した。日本でいえば、今は当時の勢いの欠片もないが、写真週刊誌5誌の熾烈な報道合戦は度々法廷沙汰にもなったが、日本人というのは肝要なのか「人の噂も75日」で、その時は飛びついても、事件の殆どが忘却の彼方に葬られている。その点、アメリカという国民性は、基本的に自己の存在と主義を守ることが必定であるから、こういう「不正」には厳しく、結果映画作品化も多い。

鑑賞前から興味深かった点は、トム・クルーズの製作総指揮と、その作品にヘイデン・クリステンセンが起用されていることである。筆者は兼ねてから、ハリウッドの若手男優の層の薄さを心配していて、このブログでも何度か指摘しているが、かつて、ロバート・レッドフォードが若い才能の発掘と育成に私財を注ぎ込んだ様に、トムは映画界の将来を真剣に模索している一人である。その彼が今回、この難しい役にヘイデンを選んだことに意味と興味を持った。序ながら、トムは"show me the money"という名台詞までヘイデンに伝授するという期待の高さを感じられる。

ひとつ作品の構成について書くと、物語の進行は主人公の事実の回顧と母校で客演講義をしている願望が同調しているが、筆者としては「クイズ・ショウ」の様に、完全にドラマ仕立てし終始してしまった方が内容が分かりやすかった。筆者は敢えて、そういう手法を取らなかった部分は作品の構成としては評価できないが、逆にいうと「クイズ・ショウ」は前述のレッド・フォード作品であり、寧ろ、テーマ性も含めて、同じジャンルに挑戦してきた(んじゃないかと勝手に・・・)トム・クルーズの意気込みを強く感じる。但し、この事件と「クイズ・ショウ」の事件を比較すれば、後者の方が国民の関心は現代でも高く、逆に直近の出来事である前者について、正確な日時まで入れて克明に描いたことには、製作者の記事捏造に関する強い憤りを感じる。巨大メディアで起こった事件と、大統領専用機で唯一読まれている伝統と由緒はあるが、一般的ではない雑誌の事件と、どちらも奢り高ぶったマスコミ権威主義の汚物であることに違いない主張を、この作品構成から汲み取れるのである。

もしかしたら、この全世界的に腐敗したマスコミに唯一意見を出来るのは、映画という芸術手段しか残っていないのかもしれない。勿論、前提として鑑賞者の良識を信じての話であるが・・・。


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by turtoone | 2005-07-16 22:48 | 映画(な行)