暫く療養と入院、更に手術をしまして映画ブログは更新を怠っておりました。作品は鑑賞してますので、徐々に復帰させていただきます。今後共、よろしくおねがいします。


by turtoone
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カテゴリ:映画(た行)( 42 )

ツォツイ ~新作DVD~

b0046687_17592746.jpg昨年から今年にかけてアフリカの映画作品が多いが、この作品も南アフリカの現状をあらゆる角度から表現している。物語は不良少年が、赤子を拾い、人間的な感情を取り戻していくという(一部の映画雑誌には、「初めて人間の感情に目覚める」と書いてあるがこれは違う。)至って単純な映画作品であるが、その背景になるものは大変大きく、そして重い。筆者も劇場公開中だけでは、この背景になるもののとの関連が一度観ただけでは分からずに、DVDの発売を待っていた。

アフリカの民主化ということが世界的にも叫ばれているのだが、果たして、アフリカに「国境」という西洋の概念を持ち込んだことの責任というのは何処にあるのであろうか。要するに、15世紀以降、西洋の国家が勝手にこの国土のすべてを蝕んだてめに、20世紀以降、欧米を中心とした「世界標準」の定義にそぐわないものは、すべて民主化という判で押したような方針を勝手に決められ、それを各地域のカリスマ性のある一部の人間の後押しをすることで、二次的な遠隔操作権を獲得していこうというのが、その後の欧米の考えだ。簡単にいえば、金は資源としての金は掘りつくしたから、次は政権を操作し、民から金をせしめようと言う方向性である。ここ数年はこの醜い欧米の争いに、ロシア・中国・インドまでもが参加し始めている。わが国は少しスタンスが違うが、ODAという隠れ蓑で国家の給付をアフリカ経由で民間が吸い上げる、なんとも遠まわしな方法で潤っている。しかし、これも税法上を考えると、日本企業でありながら、税収が国家に入らないから、国民的には一部の企業を太らせているだけだと怒りを持っても良い行為だ。南アフリカはネルソン・マンデラがいたから、余計にこの構図は複雑だ。以前はアフリカの黒人りヒーローであったが、今、彼を崇拝する人間は恐らく何も知らない層だけであり、喜んでいるのは欧米の資本主義国家だけである。そのことに象徴されるように、アフリカで「利口」な人間はたった一握りである。

物語で言えば、やはり赤子を拾ったところからそこを中心に見てしまうが、それよりも、特に車椅子の老人との関係、品位を語る仲間との関係のふたつに、主人公デビッドの現在の境遇と、この国の問題点を集約している。但し、意図してかどうかわからないが、デビッドの真の中身というのは表現しきれていなかったのも事実。車椅子というのは自分の意思があってもそこにたどり着くのは大変な苦難であるという国家の現状、意思は国家だが車椅子の大きな擁護があり、しかもそれが時として意思を阻むことを表現している。またそういう境遇になったのは偶発的な事故だと皮肉っている。またデビッドとの仲間の関係の希薄さは、アフリカの同胞だけで生きることが不可能に近いことを表現している。時には仲間を殴り、殺し、しかし又、敬う。その繰り返しである。ただ。光明が見えたのは、ラストシーンで、デビッドは責任を全うしようとするところで、アフリカの国々の今後への提言を行っている。だから、DVDの特典についていたアナザーエンディングは、ストーリーとしては面白いが、撃たれたり、逃げたりでは、アフリカの今後は今と変わらない。このストーリーは、やはり劇場公開のエンディングで、アフリカの希望を象徴している。その点は、一見尻切れ蜻蛉のラストの様だが、公開中も「希望」だと思ったが、今観ても変わりがないことを確認できた。

しかし、前述したデビッドの意思と赤子関連が希薄だったのは残念。あの場面で何か「アフリカ」として伝えるものは、極端な貧富の差(そんなことは、何もこの映画で言わなくたって日々の報道で誰もが知っている)とDV以外の何もなく、ストーリーの骨格と為すところだったでけに、何か強いメッセージが欲しかった。結果、全体的に前評判の割には単調な作品に見えてしまったのも事実。この作品を鑑賞され、多くの人がアフリカについてその実態をもっと知って欲しいと思うのだが、そこまでには至らないだろうと思う。

細かい台詞やシーンとして、殴られた「品位」が数日で感染症をおこしたり、赤子の体に蟻がたかったりというシーンだけでも、この大陸が政治以前に本質的な「世界標準」(こんなものはアフリカに不要だが)にないところにもメッセージが隠されていた。


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by turtoone | 2007-10-20 17:50 | 映画(た行)
b0046687_13102524.jpgヒロインの役は宮崎あおいがやっているが、本当はもっともっと子供みたいな想定だったのだと思う。どうみたってあおいちゃんでは髪がぼさぼさで、妙な服を着ていて、また成長ホルモンが足りなかったとしても、そんじょそこらの女子大生よりは可愛い過ぎる。だが、映画作品としてはあおいちゃんに対する気持ちを感情移入出来てしまうから、終盤は涙・涙のオンパレードになれる。そんな作品である。

純愛モノが流行っているが、愛とは純粋な気持ちなのだから、何かと、「純愛」なんて区別をする必要もないと思っている。またならば「偏愛」って言うのが純愛とどう違うのかっていうのも、当事者は兎も角も、人様がとやかく言うことではない。人間誰しも自分が大事であるし、自分が大事だと思わなければいけない。しかしその「自分」を形成していく構成要素の中に、人や物を愛する、大切にするという気持ちがどの程度あるかによって、その人間の度量が違ってくるというものだ。簡単な言葉でいえば「許容力」というのでもあろうか。愛というカテゴリーは、その構成要素のひとつになるものというよりも、もっと純粋な「感情」であるし、要素ではなく、その要素から発せられる結果でもある。だから、「愛」の解釈は人それぞれであるし、経験則が少ない内は、自分の表現の仕方、相手から発せられるメッセージの受け止め方は脆弱であり未熟である。
この作品が、その「純愛」というカテゴリーの中で強調しているのは「滅私な愛」である。そして、どう考えても、ヒロインの感情はそのことで尽きても良いという見方を変えれば「異常な行動」である。つまりは、みの論法で行くと純愛は異常行動を引き起こすということだ。勿論、この「異常」という言葉は悪い意味で使っているのではない(良い意味としても使っていないが)。そして、「愛」を否定するつもりは無いが、「愛」だけでは残念ながら人間は生きられないし、だからと言って愛が悪い訳ではない。「人間力」を高めるために
「愛」は不可欠なものであることは間違いない。

ご存知の様にこの作品は堤幸彦監督作「恋愛寫眞」のアナザーストーリーである。筆者はこの作品を見ていないから終盤の展開は涙オンパレードになったが、この辺りが純愛モノとして再生された効果であると思う。そそう考えると、最近の純愛作品ブームの根源は「泣きたい」というところに帰着するのかもしれない。日常で「泣く」ことが少なくなった、それは日本人のある種の美徳のひとつとして感情を表に出すのは相手に失礼だとされることの慣習とは別に、やはり感動がなくなって来ているのかもしれない。感動とは、43インチ画面の向こう側の特別な人たちが作り上げたものであって、一般の日常にあるものでは無いという勘違いと、感動できない心の貧困の相違ない。しかし、そういう意味では、この作品を「純愛ドラマ」と定義づけるか否かは兎も角、こういう感動は日常の身近なところで有り得る現象なのだということを気づかせてくれるのには大きな効果があると思う。こういう「感動の工夫」は大歓迎である。

宮崎あおいは本当に良い女優である。松嶋菜々子、仲間由紀恵と継承されている清純派女優路線を継ぐのは彼女であることは間違いないし、演技力からみても前述ふたりよりは素質が違うのだから、是非そうなって欲しい。勿論、この作品は、少女漫画のヒーローよりも格好良い、玉木宏の効果も大変大きいのであるが。作品の良し悪しで評価をするのでなく、こういう映画を観るのも良いと思った一本である。


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by turtoone | 2007-05-06 01:02 | 映画(た行)

ドリームガールズ

b0046687_213276.jpg
トニー賞を総なめにした舞台の映画作品化であるが、モデルがシュープリームスだったり、ビヨンセが自身の境遇に類するものがありと、色々と公開前から話題の多い作品であった。又、ジェニファー・ハドソンが堂々のオスカー助演女優賞を受賞し、公開直前では彼女が可也クローズアップされた作品となった。筆者にとっての音楽は、多分、余りにも近すぎて職業にしなかった程大事なものであるが、どうも、映画におけるミュージカルという試みは、何度もこのブログで書いているように、特に音楽的に余り褒められたものではない。但し、あくまでもミュージカルという領域で考えれば、この作品は、監督のビル・コンドンが「シカゴ」の脚本も手がけているから、多少「実験的ミュージカル」を期待していた部分もあった。しかし後述するが、彼の脚本の経験も、筆者の前述作鑑賞の経験の何れも、この作品を鑑賞するためには大変な邪魔者になってしまったのが正直なところである。

大体、ミュージカルって、どうして突然歌いだすのであろうか。それから、如何にもミュージカルですってというシチュエーションを作ってしまうのであろうか。つまり総合すると何故この作品をミュージカルにしてしまったか。この点は鑑賞が終わってからも随分引きずってしまった。だって、ミュージャンの作品なのだから、如何に原作がミュージカルであったとしても、それに拘る必要って何もなかったと思う。ハリウッドはどうして、舞台作品の映画化がこんなに好きなのだろうか、解せない。特にジェニファーが突然歌い出すシーンは多く、そのまま楽曲に入るのは良いが、やはりそれが、妙に説明調に転換する。しかも、ミュージカルには不可欠のダンスは無い。その辺りの空虚感は歪めない。筆者はオペラに然程造詣が深くは無いが、オペラがどちらかというと、先に音楽ありきという構成手法に比べると、ミュージカルって、音楽は後付けな気がしてならない。

もうひとつはジェニファー・ハドソン扮するエフィー・ホワイトとどうして主役にしなかったのだろうかと思う。ここも、原作に拘ることに固執してしまう必要性を感じなかった。映画って、もっと映画でなければ出来ないって事をやって欲しいと思うし、その為に、ジェニファー・ハドソンという10年にひとりの逸材にめぐり合えたのだから、そういう作品化もありって気がしてならない。つまりはこの作品でも、実はビヨンセ・ノウルズを主役に据える事によって興行の成功を演出したのではないかという物語さながらの勘ぐりもある。そう、この内容だったら、ミュージカルを捨てて、エフィーも主役にもってきて、グループが成功していくのと相反的に描くことによって、実在するシュープリームスの伝説をより表現できたのだと確信する。その方が、ボーカル交替の話も、盗作の話も、また、モータウンレーベルの大成功と黒人ミュージシャン台頭の新時代到来という現実についてのサブストーリーとして貴重な作品になれたのではないか。これはそう思うのでなく、確信している。そうすれば、ジェニファーも主演女優賞(尤も、この作品でも立派に主演女優という感じてあるが・・・)を獲得したであろう。同時に、序盤のカーティス・テイラーJr.(ジェイミー・フォックス)との関係から、リードボーカル降板後のふたり(エフィーとカーティスの二人)の光と影がもっと明確に描写されて、より、現実味を帯びたのではないだろうか。だからこそ、前述したふたつの点に、一鑑賞者の立場で生意気かもしれないが、拘りたかったのである。「愛についてのキンゼイレポート」であれだけ人間の内面を描写できたこの監督だからこそ、「シカゴ」でなくそっちの面に期待していたのも事実である。

ミュージカルは否定したが、音楽性の大変高い作品であった。特に冒頭からグイグイ鑑賞者を引っ張っていったのは迫力は流石である。この演出は世界広しといえどもも、アメリカにしか無い事実であるし、又、良くこれだけ才能のあるエキストラが沢山いると思うと、日本を始め、世界中何処の国も、総力としての音楽性には到底適わないことを実感した。音楽もエンタメもこの国の宝である。そんな音楽帝国を築いて来た60年代の平均値を底上げしてきたのがシュープリームスの様なグループであった。アメリカの至宝を題材にした作品なのだから、もっと至宝らしく扱って欲しいと願うのは筆者だけだろうか? 蛇足であるがジェニファーは逸材だ。次はロバータ・フラックとかディオンヌ・ワーリツクとかも意図も簡単にこなしてしまうのではないかと、彼女を見ていると黒人女性ボーカルの音楽映画への期待は高まる一方だ。

序でながら、ラストは可也感動的である。特別な要素は無いが、最後の最後で「音楽的満足感」が一気に噴き出るのである。それからもうひとつ、ローレル役のアニカ・ノニローズの方がシュープリームス時代のダイアナ・ロスに似ている思ったのは筆者だけでないはず??


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by turtoone | 2007-03-21 21:14 | 映画(た行)
b0046687_16202365.jpgトランスセクシャルとは、性同一性障害の中で、特に強く自己の解剖学上の性に対しての不快感を感じ,外科的手術による解消の欲求が強い人と医学的には定義付けられているらしい。
そもそもその性同一性障害というのは、性に関する精神障害のひとつで、自分の解剖学上の性に対して不快感やそぐわない感じを持ち,反対の性になりたいと強く望むものである。そう文章で言われても難しく、簡単に言えば、正反対にある性を望み、特に、TSはその外科的にそれを解消しないと納得しないということらしい。しかし、筆者はその専門でないから良く分からないが、性同一性障害が精神障害に分類されているということも良く分からない。全然観点が違うかもしれないが、古来、生物というものは正反対の性を好むものなのである。本能的に、或いは情緒的にそれを好む類もある。但し、例えば人間においては、すべてが、情緒的でない場合もある。本能とはそういうものであり、それは昆虫の交尾と余りかわらない。だが、極めて理性的にいえば、反対の性への憧れは、その性への現実を成し遂げたいと思う心理というものに、別段、異常性や病的な要素を感じない。断っておくが筆者にはそういう要素はない。だが、ないからといってその要素がある人間、特に、この疾患に関しては、それが精神的病気だというようには全く思えないのである。要するに、対岸にあるものへの憧憬を現実とするだけで、それは究極の憧憬で良いのではないかと思う。無責任な、且つ、全く素養の無い発言で申し訳ないが、事実、そう思う。

ただ、この作品は実に、物語の設定は良かった。トランスセクシャルを実現させようとする主人公に、何年も会うことのなかった(というか存在すら知らなかった)息子が現れるのだから尋常ではない。しかし、その割に単調な流れだったし、方向性もこれで良かったのか筆者には纏めきれない内容である。又、残念だったのは、やはり結構安易にロード・ムービーに入ってしまったこと。ロードムービーって作品を纏めていくのには大変使いやすい方法である。だがそれ故に、逆に作品の主題を暈かす要素も持ちあらせている。この作品もそれらの例に違わず、父子の時間と理解を取り戻す為の手段として使われているのだが、そこで起こる出来事というのは、残念ながら普通の映画好きを驚かすような展開は出てこなく、すべて想定の範囲内←(もう古い言い回し?使ってて恥ずかしい・・・)で終着している。この辺りも残念であった。

しかし、フェリシティ・ハフマンの演技は見事だ。筆者は最優秀昨年の主演女優に彼女を選んだのは、この役柄は派手さがないから単調に見えるが、男から性転換した女性というさまを細かいしぐさ、たとえば、化粧するしぐさだったり、指先で物を掴んだりするところなどのこだわりは絶妙だった。見事に表現していて良かった。この辺りを見ていると、筆者はトランスセクシャルって、ジェンダー概念とリンクしているような気がしてならない。要するに、彼が求めたのは、性ではなく女性のような生き方であったのだと。つまりは、性同一性障害という精神疾患があるとしたら、それはジェンダー概念によるところのこの現代に自分の生きるところを見つけられないという社会性の欠如。それがイコール病的要因なのではないかと思う。男の性で母の役をやったって良いのだ。但し、彼の場合はその不快感が外科的手術に固執しただけではなかったのかと。

又、同時にこの作品では民族というルーツにこだわっている。ユダヤとネイティブという、とてもかけ離れた二つの対比。共通のキーワードがあるとしたら、蔑まされた事くらいではないか。いや、どちらも誇りを持っているという事が共通しているのかもしれない。当事者ではないから分からないが…、現代社会に投げかけているメッセージは多い作品である。


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by turtoone | 2007-03-05 16:03 | 映画(た行)

ディパーテッド

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スコセッシが監督賞を受賞したが、ゴールデン・グローブでは、「ギャング・オブ・ニューヨーク」に次いで二度目。いよいよ、ディカプリオと共に、オスカーに殴り込み! と、思いきや、レオさまの方は「ブラッド・ダイヤモンド」でのノミネート。レオさまは、この両方の作品でノミネートされていたゴールデン・グローブは受賞出来なかった。予告編でやたらと「ブラッド・ダイヤモンド」が気になってしまったのも事実である。筆者としても今、一番気になっているコンビなのであるが、常に次回作の話題がつきまとい、「酔いどれ天使」の予定が「ルーズベルト大統領」がこのコンビの次回作としては先になるらしい。一般的な評価は区々であるが、筆者の中では「ギャング・オブ・ニューヨーク」が、スコセッシ作品としても、又ディカプリオ出演作としても最も評価が高い。だからどちらかというと前作「アビエイター」もしかりで、このコンビでは、歴史モノか人物モノが有り難く、それ以外のジャンルというのは然程、大きな期待は出来ない。変な言い方であるが、スコセッシ監督は、ディカプリオをデ・ニーロ的に使って欲しくないという感じが優先しているのかもしれない。だが、筆者の勝手な思い入れや思惑とは別に、この作品で賞を取ったり、また、オスカーでもノミネートされているという高い評価を受けているという事実もしかり。又、筆者は、この原作となる「インファイナル・アフェア」という作品をそんなに深く知らない(微妙な言い方だが、観たことはあるのだが、余り覚えていないという事実。つまり、二度は見ていないということだ・・・)。だから、純粋に物語を追って行くというごく基本的な作品鑑賞をすることになった。

物語はそんなに深い内容ではない。但し、アイリッシュに拘っているところがスコセッシらしい。それから大きな驚きもない。これも、実にスコセッシらしく、ラストまで想定した通り(というか、ああいうラストでなければ150分も観て来た意味がないという言い方が正しい??)であり、こういう部分でスコセッシ監督はファンを裏切らない。また、それはラストだけでなく、冒頭部分も、成るほど、スコセッシの言うとおりだと妙に納得してしまう展開である。つまりは、オープニングとラストでしっかり主張しているから、中がそんなに深くなくても印象としては残る作品である。「ギャング~」はラストが今ひとつ(というか、妙に意見を述べすぎ)、「アビエイター」は冒頭で鑑賞者に余計なトラウマを与えすぎたのに比べると、この監督にしては普通っぽいけれど、全体的に纏まって見える印象を作り出せたのは大きかった。それと、ギャングモノ作品に位置づけることのできる中では、必要以上に合衆国国家を感じさせないところも良かった。ご存知の通り、ギャングモノは、必要以上にアメリカの裏社会を描くことによって国家論に繋がるところが多く、同時に、暗に国家を遠まわしに語りたがる。勿論、それはそれでも良いし、「ゴッドファーザー」などは、それが主題みたいな作品だ。だが、この作品は「ギャング~」と同じ、一地域の、一部分で完結させている。これは、アメリカ全国家の問題なのであるという様な押し付けがましや、過剰な取り上げもしていない。この辺りが大変好感の持てる作品だったし、結果、上映時間も全く気にならなかった。そう、筆者的には、内容といい背景といい、現代版の「ギャング・オブ・ニューヨーク」だったという見方である。

演技も良かった。ジャック・ニコルソンとマーチン・シーンは流石である。ディカプリオは、今回特に何か特別に印象的な演技をした訳ではない。ただ、前半の「刑事のカオ云々」の部分で、あれだけ簡単に自分の顔を変えてしまうところは驚きだ。いよいよ安心して観ていられる域に達して来たようで、この筆者の安堵感はオスカーで賞を取る取らないの次元では無い。また、マット・デイモンも、これだけ演技巧者に囲まれると、役者というのは上手くなるものだなぁと関心した。逆に言うと、それ以外の部分、例えは、音楽とか美術は特筆するものがなかったが、逆に言えば悪いところは無かったので、それだけ本筋に沿った作りになっていたというのも事実。「アビエイター」はそれぞれが主張し、印象が強かったために、作品全体の纏まりを悪くしたが今回は逆であった。

総じて、コメディ作品に「大逆転」という名作があるが、この作品はシリアス版大逆転とでも言えようか。ディカプリオがもう身分を偽っているのは限界だという辺り、同時にデイモンも、この際育ての父を裏切ってもというふたりの極度な感情の部分に、不届きにも筆者はこの作品を思い出してしまった。特筆すべき部分はなく、特別に評価は高くないが、良く出来た良い作品である。しいて言えば脚本が良かったのであろう。欲を言えば、スコセッシらしさが少なかったという別の言い方が出来るのかもしれない。


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by turtoone | 2007-02-03 21:36 | 映画(た行)

父親たちの星条旗

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「ミリオンダラー・ベイビー」で、本当は凄い人なのじゃないかと自己の考え方を大きく変えたこのクリント・イースト・ウッド監督作品は、その筆者の「思い入れ」を更に強いものにしてくれた。この作品、「ミリオン~」のイーストウッド(敢えて「ミリオン~」のと言いたい、「許されざる者」「ミスティック・リバー」の~ではない)の主張を更に掘り下げ、また大きく前進した内容である。それは一言でいうなれば「人間の尊厳」である。但し、この作品が「ミリオン~」より、戦争映画でありながら好感を持てるのは、その「人間の尊厳」というテーマを「ミリオン~」の時の様に前面に出しているのでなく、静かにそれを語っている点である。イーストウッドは表現力という分野に関しても大きく前進したと言える。俳優・イーストウッドは筆者的に演技力という部分では平凡であるが、監督としてはいよいよ超一流の部類に入ってきたのではないか。

「硫黄島からの手紙」が今週公開されるとあって、いやいやのんびり構えていたのだが、急いでこちらを鑑賞しに言ったのだが、冒頭に述べた感動は、実は殆ど期待していなかった。というか、タイトルから察して(この「察する」という行為が筆者の一番悪いところ)あの太平洋戦争を象徴し、ワシントンにも銅像の建つ有名な写真の「真実の逸話」であることは大概の映画ファンであれば察しが着く。ましてや「父親」というのだから、戦後60年を経て、その子息が事実を究明するんだろうなんて展開まで容易に推測できてしまう。だからその程度であると勘ぐっていたのも事実。しかし、「とんでもない・・・!!」。筆者が、この映画で一番感情移入してしまったのは、アイラ・ヘイズ役のアダム・ビーチである。作品の流れからいけば、ライアン・フィリップに感情移入して良いのだが、敢えて、このキャストの設定に興味があり、この人物を中心に観た事によって、監督の主張がより良くわかったのも事実である。しかし、これには筆者的に伏線があつたのは、筆者がインディアンが好きだということと、アメリカの歴史の中で、唯一その本土が舞台となった南北戦争というのがもやたらと頭にこびりついていたからなのである。第二次世界大戦関連作品を観るときには、どうしても切り離せない観点が、本土決戦が無かったからこそ、アメリカはその後の世界で台頭できたという「国力」を失わずにすんだ点である。しかし、一方でこりアイラの先祖は、誇り高き、尊厳のあるネイティブアメリカンである。彼等は本質的に争いは好まない。ましてや自分たちからは仕掛けない。しかし、アイラは志願してこの大戦に参加した。このことは同時に、ネイティブの誇りを捨てたことでもある。そして、彼に取っては不運である、「旗立て」に参加してしまったのである。その後の「英雄」としての国内活動の中で、彼は本当の人間の「尊厳」とは何かと葛藤し続けるのである。そして、残念ながら、彼はそれを見つけることが出来なかった。この奥深いテーマを根底にしたところに、スビルバーグが持っていた作品権を譲って貰ってまでイーストウッドが言いたかったことは、「ミリオン~」に共通する。アダム・ビーチに関しては「ウインド・ストーカー」以来、またまた印象的な役をやってくれたと思う。

ライアン・フィリップも良い味を出していた。彼は、筆者が前述した「人間の尊厳」というテーマに関して直接関与している訳ではない。しかし、衛生兵として、決して仲間を見捨てない、一縷の望みがある限り自分の戦禍に於ける任務を全うしようとしている。そしてそれは、戦場でもそうであるが、英雄キャンペーンでもその任務に最も忠実に行った。しかし、そのキャンペーン中から、彼の中に徐々に芽生えてくるのが、戦場で共にした「本当の英雄たち」であり、しかし、戦場で英雄になってやろうなんて思っている人間は誰も存在しないということを、殉死した戦友たちが雑踏の中で叫んでいることに気づいていく。この難しい役を見事にこなしたと言える。

イーストウッドが監督として非凡な点は、これだけのテーマを「重く」圧し掛からせないところにある。何か淡々と語っている。しかしその意志は強い。「硫黄島~」は解らないが、この路線で来るのであれば、日本人に取っても、今までにない最も「人間の尊厳」を深く考えさせられる作品になっているのだろうか?


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by turtoone | 2006-12-09 19:48 | 映画(た行)

ダ・ヴィンチ・コード

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全世界で6000万部のセールスを誇る大ベストセラーの映画化である。普段はあまり映画化される作品の原作を読む機会に恵まれない筆者ですら、流石にこの作品は読んでいるものの、映画作品化に向いている原作とは全く思えなかった。この原作が映画化されることにより、多くの誹謗、中傷、偏見、批判が色々なところから発せられるのは分かっているし、同時に映画という「視聴覚」での表現は、字間に表現される微妙なニュアンスをも、明解に描写してしまうものだ。だが、一方で大いなる期待としては、ロン・ハワードが監督であること、また、世界のトップスターであるトム・ハンクスと、ヒロインにオドレイ・トトゥを起用したこと。この「エンタメ」度が、原作映画化の不安を一瞬吹き飛ばす大きな要因になってくれたのは間違いない。全世界同時公開を、それもカンヌ映画祭の最中という日取りを選んだことも、多くの思惑が交錯する選定以外に何者でもない。しかも、もしかしたらこれも製作者サイドの狙いだったかもしれないが、カンヌでの近来、稀にみる不評。原作の内容を考えれば当然であり、逆にこのことが、全世界的に「何故だ?」という動員を計れることに大きく繋がることも十二分に考えられる。事実、日本での出足は大変良いらしい。もっとも、日本人の大半は、この原作に対し、前述した偏見や批判の類いとは関係ない「宗教性」の枠におさまっているので、もっと純粋な意味での「映画鑑賞」が出来るのではないかと推測するが。

結論から言えば、まだ原作を読んでいない方は、原作を読むの前にこの作品を先に鑑賞して頂きたい。原作はハードカバーで2冊、文庫本でも厚めの3冊だから、どんなに暇で早く読んでも2日は係ってしまう。だったら先に映画を観て欲しい。筆者の場合は大概、映画が良かった場合に原作で細部を確認することが多いが、この作品に関しては映画化の話以前に読んでいるからそれが適わなかったが結果論として後から読んだ方が、映画も原作もどちらも面白いので、それをお薦めする。

しかし、一方で原作を読んだ後の鑑賞でも、こ映画作品が大変良かったのは、ひとえにロン・ハワードに尽きる。筆者は「ビューティフル・マインド」「シンデレラ・マン」の鑑賞記でも述べたように、兎に角、この監督が撮る映像の美しさにはいつも脱帽する。今回も、ひとつひとつの映像描写が大変美しい。ルーヴルの撮り方であったり、出演者の心境描写、又は謎解き部分の、美術品と最新技術の合成描写に関しては、原作で個々が持ってるイメージをもさらに膨らませてくれる。超一流の美術品を100%忠実に、しかし、一方で己の持つ芸術性をそこに吹き込むことによって映像いう解釈の新しい美術品をこしらえてしまう。ロン・ハワードの素晴らしさはそこにある。同時に、脚本に関しても、必要最小限の要素を残すことによって、不自然でない物語を作り上げた。正直、原作は「ミステリー」であるから(和訳しか読んでないが・・・)文章表現や構成は雑である。文芸作品でないから、出演人物のキャラの構築も甘いし、問題提起の順序も必要に先を急いでいる感は歪めないし、何しろ出演人物が魅力的でない。又、ミステリー小説だと考えても推論の構築が甘い。単に基督教歴史の問題視をしたに過ぎず、タイトルにある「ダ・ヴィンチ」の芸術性は全く無視している。第一この長編をそのまま忠実に映像化すれば、ゆうに4時間に近づいてしまう。そこを150分に纏めたところも手腕である。確かに色々サイドストーリーとして不明な部分(例えば、ソフィーの血縁関係、シラスの入信等々沢山・・・)はあることはあるが、しかし、原作を知らずに映画を最初に観たとしたなら全く問題はなく、寧ろ、逆に何故こんな細かいことまで原作には書かれているのかと物語の構成上は疑問符を投げかけたい部分に変わっていた。そういう意味では映画化されることによって洗練された作品である。ラストへの持って行き方も、原作より映画の方がずっと分かりやすく、しかも、原作の間違いを質す節もあったのにはニンマリした。筆者も同じ様に思っていたからだ。

俳優に関して2つだけ書くと、オドレイに関しては、やはりハリウッドは女優を綺麗に撮ることをもっと勉強してほしい。確かにそういう内容ではないと言われるかもしれないが、オドレイは、本国フランス作品ではもっともっと綺麗に撮ってもらっている。筆者がもし、カンヌでブーイングを発するとしたら、この一点だけである。そしてシラス役のポール・ベタニーは、「ビューティフル・マインド」以来のロン・ハワード作品の出演であるが、実に監督の意図を理解していた。出演者のサイド・ストーリーが削られる中で、多少、このシラス役はパーセンテージとして露出が多かったのは、ロン・ハワードの持つ、基督教と欧州の歴史に対する主張と「自己犠牲」としての批判を描写しているものと受け止めた。「ビューティフル~」では主人公の空想の人物を見事に演じたポールが、今回は、原作にない監督の主張を演じきった辺りの共通性は、映画ファンとしては最大の醍醐味である。

最後に、この映画作品は多分、一般にも評価は高くないと思う。しかし、筆者の評価は特Aまでいかないが高い。理由は簡単で、6000万部売れたかはしらないが、ミッション・スクール育ちで信者ではないが多少研究材料として基督教を理解し、最後の晩餐の12人目をマグダラのマリアだという出発点からの邪推のみを繰り返しつつ展開する何の文学性も持ち得ない原作を、映画という総合芸術によってダヴィンチ美術の高い芸術性と、宗教対立やキリスト伝説を比喩したオブラートに包み込んで世に出した話題性を比べれば、この映画作品の役割りは大変大きく、また、評価の出来る内容に仕上がったからである。

前述したが、先に映画を観て欲しいといったが訂正で、映画で納得した方は、原作を読む時間は勿体無いと、筆者の多少自負できる読書経験と中世基督教研究歴、及び、一ダ・ヴィンチ・ファンとしてご忠告申し上げる。


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by turtoone | 2006-05-21 16:04 | 映画(た行)

ドミノ ~新作DVD~

b0046687_17513749.jpg劇場公開時はキーラのショート・ヘアーに惹かれて観にいったという不純な動機だったゆえに、余りにも予想外の作品構成だったので疲れ切ってしまい、とてもレビューを書く気になれなかった作品である。新作DVD発売でも実はそれは余り変わっていない。寧ろ、本人が登場している特典映像見たさに購入した様なものである。この作品は公開時に鑑賞記を書かれた方の殆どが言われている様に、題材やキャスティングは良かったのに、なんだかこねくり回し過ぎて、何を言いたかったのか全く分からなくなってしまったという典型的なパターンである。

回想シーンを繋ぐ作品という形式、所謂、主人公がストーリーテイラーになる構成は別にものめずらしくもない。ただ、歴史物ならいざしらず、その本人がその場、しかも今回は、取調室でFBI捜査官の質問に答えるという内容だから、正直なところ、彼女の回想シーンには、何もスリリングな内容を感じない。もしかしたら、この取調べ自体が過去完了であるのなら、その後に新しい事件も生まれるものの、その後のやりとりでそうでないことが分かってしまうと、後は、「賞金稼ぎ」っていう、西部劇時代に失業してしまったような職業の人物像の面白さしかなくなってしまう。「賞金稼ぎ」っていうのは、賞金を出す奴がいるから成り立っている商売で、要は、幼少時代から自分の居場所がなかったお嬢様がなぜ、この「雇われ」に行き着いてしまうという主人公のエモーショナル・ラインが最後まで理解できなかったのは、この作品の構成の悪さであろう。なぜなら、彼女が個々に行き着いた部分というのは、特典映像の彼女自身のインタビューを聞いている方が、実に良く理解できるからである。

逆に、彼女の真実を、大袈裟な効果演出を使うことによって別のものの仕上げてしまった責任は大きい。これでは舞台が戦場でないでけで、おんなランボーみたいな存在になってしまっただけであった。キーラの余計なメイクも大変気になった。本人が素顔で出ているのに、当時こういうメイクをしていたかどうかしらないが、正統派美女女優のキーラの顔をこんなに弄る必要はなく、むしろスッピンギリギリの方がずっと迫力があった。それこそが美人の特権ではないか?冒頭にも書いたが題材、つまり、「現代の女賞金稼ぎ」っていう設定(しかも真実・実在の人物)が良かったのだから、悪戯にこんなあっちこっちとんでしまう複雑な脚本にせず、時系列で話を進めた方がわかり易かっただろう。

実はこの作品で筆者が最も興味を持ったのは、主人公の父親がローレンス・ハーヴェイだということ。彼の作品はそんなに沢山は知らないが、筆者が印象に残っている彼の作品は、1954年英国製作版の「ロミジュリ」のロミオとジョン・ウェインの「アラモ」、それに「刑事コロンボ」のチェス世界チャンピオン役である。特に、コロンボの犯人役はよく覚えているのは、コロンボが相手をする名だたる完全犯罪仕掛け人の中でも、そのトリックは十指に入るものであった。リトアニア出身の彼はイギリス作品に出ることが多く、オスカーにはたった一度だけ第32回に「年上の女」という作品で主演男優賞にノミネートされ、同作品の主演女優であるシモーヌ・シショレは見事に栄冠に輝いたが、彼は相手が悪かった。そう、ご存知の通り、この年は「ベン・ハー」が11部門を獲得した年で、当然ながら主演男優賞はチャールトン・ヘストンだった。1973年に45歳の若さで逝去したが、もしもっと生きていれば晩年は「濃い顔立ち」を活かした良い役どころが回ってきたのではないかと思うと残念な人であった。彼の主演作に「殺しのダンディー」という二重スパイの役があったが、何か、自分の存在を見つけられなかったドミノ・ハーヴェイに通じるものがある。

新境地に挑戦したキーラだったが、企画物っぽくなってしまったのが残念。キーラはやはり正統派でもっと力を付けた方が良い。


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by turtoone | 2006-05-06 17:56 | 映画(た行)
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期待のリメイク作品を、最高のパフォーマー、ジム・キャリーの出演ということで、当初より可也の過大評価をしていたようだ。

ジム・キャリーの昨年を振り返っておくと、「エターナル・サンシャイン」と、「レモニー・スニケットの世にも不幸せな物語」。「エターナル~」は、作品のコンセプトが良かった。オスカーの脚本賞を取っていたが、脚本という意味では斬新さも秀逸さも感じられなかったが、後々に色々考えさせられる作品で、そういう意味ではジム・キャリーというのは、その作品のシーンを思い出させてくれるのには、インパクトの強い俳優と演技だけに、大変好都合だ。これは「マジェスティック」でも同じである。「レモニー~」に至っては、もう俳優の域を超えて、ひとつの「美術・効果」にまで成りきっていた。しかし、こう考えると「ブルース・オールマイティー」以来、純粋なコメディ作品には出演していなかったことにになる。筆者の様なジム・キャリー・ファンは彼の才能の全てを見たいからこういう年があつても良いが、コメディファンにとっては、久々の期待作だったのではないかと推察する。もしかして、ジム自身が一番ジレンマを感じていたのかも・・・。

コメディ作品というのは、日本人には大変受け入れられにくい分野である。「笑い」という領域は、この国では「文芸」や「報道」に比べると格が下に見られているが、これは何もこういう領域の水準が低いという訳ではない。日本人は生活の中にユーモアを持たそうとしない民族いであり、それが長いことこの国を支えて来た伝統でもあった。質素であること、慎ましやかで、質実剛健で、厳かで・・・と、そういうモノに偏重してきた長い歴史と正反対にある要素である。だから、アメリカの「コメディ」が如何にインテリジェンスが高いという説明をしたところで、日本人の考えるインテリ定義には合致しないのである。従って、ジム・キャリーのような存在は、日本人からは一番遠いところにあるハリウッド・スターという言い方も出来る。筆者の鑑賞した上映回でも、明らかにオリジナル版のファンというシニア及び夫婦50割引以上のふたりで2000円というカップルが多く、(日頃シアターで見慣れていないから?)五月蠅く(特にビニール音)、勝手な解釈をのたまっていた。筆者も勿論、オリジナル版は「キングコング」同様鑑賞しているが、殆どストーリーを覚えていないし、大体、オリジナル版は筆者にとって魅力的なキャスティングではない。

また、今回はティア・レオーニが良かった。ジム主演のコメディ夫婦モノでは、「ライアー ライアー」 のモーラ・ティアーニも良かったが、それに匹敵する演技だし、「ライアー~」と違うのは、この奥様はアメリカらしくなく、良妻賢母である。こんなところも、日本人では分からないが、アメリカのコメディとしては、「なんて暢気な連れ合いなんだ」と、笑いの対象になってしまうのだと思う。我々の文化からみれば、こんなに素晴らしい奥さまはいらっしゃらないのに・・・。ジムはこの作品でも「製作」に関わっているので、もしかしたら彼の提案で、「ライアー~」のパロディだったりするんじゃないかと勝手に憶測したりする。このように、ジム・キャリーいう人は、一映画ファンにも想像を逞しくさせてくれる逸材であり、彼のことを大好きになれば、映画だけでなく色々な世界へ導いてくれる資質を持っている人なので、是非、ファンになることをお薦めしたい。

コメディだからこそ出来るこの設定とストーリー展開と、最後には誰もがハッピーになってしまう内容には脱帽する。かくいう筆者も、冒頭から「コメディだ」と勝手に線引きしているのだから、やはり根っからの日本人らしい。それよりも、筆者としては、最初ディックが乗っていた、BMW(ビーマーと呼んでいたねぇ・・・)320が懐かしく、自身も一番惚れこんだ車だったので、7シリーズに乗り換えたり、貧困になってもあのクルマだけは維持して欲しかった(という部分もコメディにして欲しかったという願望・・・)。


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by turtoone | 2006-01-07 23:07 | 映画(た行)

デーヴ ~My Collection~ 

b0046687_15521983.jpg9月以降、本当にシアターに行かれなくなってしまった。忙しいのは良きことと尊敬する仕事仲間に言われたが、一方で作品を観ていないと不安になる。シアターにいけない分、暫くは、新作よりも自分のコレクションのレビューが続くかもしれない。さて、アメリカ人というのは、色々な意味で大統領が好きだ。これは他の国の人間には分からない感情であり、少なくとも、日本国における総理大臣というのとは全然違う。「アメリカン・プレジデント」「インディペンデンス・デイ」など比較的新しい作品では、さらにその大好きな大統領を好意的に描いている。思うに、これは、皇室のある「王国」が、ロイヤル・ファミリーを好意的に大事にしている姿に似ている。その点でもイギリスと日本は世界的にも特異だなぁと思ってしまう。つい先日「SHINOBI」でも書いたが、大英帝国と極東の両島国は類似点が多い。この大統領への尊敬と王室への敬意というのは、例えばベルギー辺りの感覚に似ているのであろう。但し、合衆国民の民意の象徴でもある大統領の場合は、その行動・言動に関しての国民のチェックは当然厳しい。

また、大統領モノを見ていて一番面白いのが、「主席補佐官」という立場の人間である。日本には、このポジションにあたる人間というのは存在しないから少し分かりづらいが、アメリカ大統領の中でも例えば、フォードとか、レーガンという半ば「飾り物」の大統領が実際に職務についていたあたりから、この「主席補佐官」のポジションをクローズアップする作品が映画でもテレビでも増えて来た。要するに、大統領自身が「スポークスマン」であり、実権は主席補佐官の任務であるということだ。主席補佐官は、法律の作成から議会の運営、更にはCIA、FBI、軍隊の全てを統括し、大統領が適切にそれを処理できるべくお膳立てを作り上げる。「ペリカン文書」やテレビドラマ「大統領を作る男たち」等でわかるように、本当のキレ者はこのポジションなのである。しかし、実際はというとパパブッシュの時代、湾岸戦争時には国務長官がその力を有していた。クリントンも同様である。つまりは、ブッシュやクリントンの様に、大統領自体に力がある場合、主席補佐官には然程権力が集中しない。又、クリントンの場合は、ファースト・レディーがイコール可也の野心家であり政治的発言力も持っていたし、東西の冷戦が終止符をうった時代以降は、世界地図が大きく変わり、その時代変化に対応できる専門性が必要とされ、役割も分担された。そんな中で力を有して来たのが副大統領の存在であった。強力二大政党の興亡であるアメリカ議会政治では、大統領選でも副大統領選びが大きなポイントである。クリントン政権はまさにその上になりたっていた。共和党は少し事情が違い、下院である。パパブッシュの時代は下院の動向が支持率にも影響したため下院議長の発言力は大きかったと言える。冷戦終結以降、アメリカの政治も大きく変化をしたきたが、それでも大統領は、やはり国民を代表し、憧憬の対象であることは間違いない。

この作品では、瓜二つの一般人(零細人材派遣会社社長)が大統領の代役をする。派遣会社社長自らが大統領の代行をし、国民の頂点に立つというパロディ、設定は大変面白い。そして、その代役が最後まで代役に徹するところが痛快なのかもしれない。しかし、現在でもフセイン(捕まってしまったが)の影武者が何人も居るとか、金正日も同様だったりと言われている時代、(日本では戦国大名以降はあまり聞かない話であるが・・・)こういうことが実際にあってもおかしくないし、それがイコール国民を偽っているとは思わない。大事なことは、国家の未来を指標するビジョンとその構築のためのイデオロギーであり、更にいえば、タックスペイヤーとしての国民に責任を持てる国家運営なのではないか? それが出来るのなら、デーヴの様な物語が現実であっても、筆者はいっこうに構わないのである。


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by turtoone | 2005-11-02 23:59 | 映画(た行)