暫く療養と入院、更に手術をしまして映画ブログは更新を怠っておりました。作品は鑑賞してますので、徐々に復帰させていただきます。今後共、よろしくおねがいします。


by turtoone
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カテゴリ:映画(か行)( 49 )

鴨川ホルモー

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ここ数年、秋の京都に毎年行っているので可也この街には詳しくなった。少し前までは春・秋と年2回、桜と紅葉の季節行っていたのだが、諸事情があって現在秋だけ。学生時代に一緒にバンドをやっていた輩が京都大学の准教授になって以来、友人数名で彼のお祝いがきっかけで毎年訪問しているが、いつも一見では入れない料亭を接待してくれていて、恐らく彼ではなく教授の行き付けなのだろうが、その世界ひとつを取っても都が1000年以上も置かれていた場所は奥が深く、筆者的にはこの土地を探索し続けることをしてみたいと思ったりする。そんな准教授が以前にこの4大学の位置関係を話してくれたことがあり筆者も知っていることと併せて語り合ったことがあったが、折角だから雑学(当ブログのタイトルと趣旨なので・・・)として纏めておくと、そもそも春夏秋冬は色で識別すると、青春、朱夏(赤)、白秋、玄冬(黒)、方角にすると、青は東、赤は南、白は西、黒は北になる。更に、これを動物(四神)に当てはめると青龍、朱雀、白虎、玄武というとになる。実は作品でも説明していたが、そもそもの出典は中国天文学に拠るが、わが国ではこれに中国の五行説も取り入れて、中央にも「黄龍」が配置されて更に曜日と呼応させている。相撲の土俵に以前は柱があり、それぞれの色(現在は天屋根から吊るした房になっている)で表しているので良く分かると思う。ところで、その話の席では、玄武という架空の動物に話題がそれてしまったので、それ以上この京都の位置関係には発展しなかったが、本作品の基礎となる部分を観て、なるほど、彼はもっと詳しくこの話を知っていたなと今は後悔している。

「鹿男あをによし」をテレビで久々に殆ど全部観て、万城目学氏(原作は読んでいない。読もうと思う)の世界に興味があっての鑑賞だったから、この辺りのくだりまでは大変すんなりと自分の中に入ってきたのも事実。特に、四大学の位置関係と色、及び四神を扱ったチーム名は前述した通りの要素を、文字で表すと大変難しく、また、一度読んでも中々理解頂けない(文章表現も下手だしね・・・陳謝)が、この作品のように映像にすると大変分かり易く、この作品を観た方は、四神という考えは雑学としては最高レベルにあり、企業研修会の講義でも、PTAの先生との懇親会でも、或いは銀座のスナックでも、何処ででも通用する話だから(クイズ形式にすると良い、白色の季節と動物は何かとか、白秋、白虎と言うじゃないですか・・・、というように)、是非習得して欲しいと思う。

さて、作品に関してであるが、上記の様な理由で前半で大変満足してしまったために、中盤からは可也困惑したのも事実。実際にこの「ホルモー」という競技は戦前にはあったらしいというのだが、筆者の知識ではそれ以上は分からない。しかし、最近の京都通として四条河原に四方向から集結するっていうシーンは感動した。これは本物だって思ったのだが、問題はその後が思いっきりファンタジー(というかエンタメ)性に走ってしまって、あのポリゴンのオニは(確かに分かり易いのだが)どうにかならなかったのかと、ゲーム世代(FFファンの自分もその走りだが・・・)を意識した作りになってしまったのが残念。京都から一気にアキバに越して来た様だった。前述した「鹿男~」が良かったのは、古来の風習と、現代人の因果関係が最後まで密接で途切れなかったことに「歴史ミステリー」の要素を含んでいたのだが、今回は主人公とライバルの名前(何れも陰陽師から取っているのがすぐわかる)くらいで、例えば、栗山や芦名と言ったふたりのヒロイン(この二人のキャスティングはベターである)が居たにも関わらず、殆どホルモーの根幹になる部分で活かされなかったのは残念だ。余談だが、主人公が最初は芦名の「鼻」が良いといったのに、最後には栗山の「瞳」が良いというのも、一貫してなくて(そこがオチならよいのだが)構成と台詞の拙さを露呈している。残念だ。

作者の万城目さん自身も一浪京大だから、もしかしたらこのサークルを作ろうと思っておられたのか、興味はつきない。もしかしたら冒頭に書いた友人の准教授も(奴は京大卒ではなく、東京の私大卒後、京大の院生だが・・・)このサークルの顧問だったりして、今秋逢うのが今から楽しみだ。それから、織田信長の時代にもシャンプーハットがあったという発見が出来たのがこの映画作品のもうひとつの収穫であった。おっとこれは拙いオチかなぁ・・・。


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by turtoone | 2009-04-29 10:51 | 映画(か行)

グラン・トリノ

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このブログでも度々書いているように、筆者はイーストウッド監督作品に、「人間の尊厳」という観点をもって鑑賞している。特に「ミリオンダラー・ベイビー」以降、それは顕著であり、「父親たちの星条旗」で決定的になった。映画という総合芸術の世界で、俳優として、更には監督として一時代を築いたこのハリウッドの至宝とも言えるべく存在がその晩年に当っても、作品に作品を重ね言いたかったことは、本作品を見てもやはり筆者の受け取り方は変わりなく、それは「人間の尊厳」なのであった。

アメリカが変わった。そして、それは最初は主人公の目には大変愚かなことであるという描き方をしているが、多分、唯一の理解者であったであろう妻を亡くしてから、彼自身の中で彼の人生が何だったかを再確認していく。これはアメリカに関わらず、どんな人間にのもあることであり、同時に失って気づくものというのは、失ったもの自体でなく、自身に芽生えて来るものというのが大きいし、そりことに年齢差はない。ただ、彼はキリスト教徒でありながら教会に懺悔にも行かないし、半世紀以上前の戦争に対しての後悔を長いこと背負っていたが、それは自身がひとりで背負っていたのではなく、亡くした連れ合いが共に背負っていたということを牧師の忠言によって始めて気づかされる。その後、彼がこの半世紀前から全く変わり果てたアメリカの社会というものをひとつひとつ受け入れていく中で、隣人タオとその一家が大きく彼の世界と生活の中に入り込んで来る。「老兵は死なず ただ消え去るのみ」は、かのダグラス・マッカーサーの名言であるが、イーストウッド扮するウォルト・コワルスキーには、そういう人生の終着点を探していたのも事実。だから、彼はこれまでの人生では唯一得られなかった「友人」という存在をタオに求める。社会が変遷していく中で、人間というのがそれまでの経験だけで生きられなくなっているのは、いつの世にもあることであり、特に年老いた人間は時代の適応が難しい。社会は「老人は社会の宝」だとか「老人の知恵を生かす」だとか調子の良い文句を並び立てるが、本質は社会の弱者であることに変わりなく、また、その弱者は弱者の儘に放っておくということ以外に解決方法はない。何故ならどんなに美辞麗句を並べたところで全ての老人が快適に過ごせる空間など、この地球上には人類が誕生する前から存在しないのであるから。

しかし、だからといって人間という「尊厳のある」存在は決して卑下したり、諦めたりしてはいけないと言っている。「ミリオンダラー・ベイビー」以降、この「尊厳」は常に作品の主人公自身に問いかけて来たテーマであったが、今回は、主人公だけでなく、尊厳を忘れてはいけないということを物語の中で他の役柄に対して問いかけ促し、更に、鑑賞者にも強く訴えかけてきた。過去の作品以上にメッセージ性の強い作品になった。そして最も大事なことは、アメリカは昔も今も合衆国であること。アメリカが建国したときも、ヨーロッパをはじめ全世界から開拓の志の高いものが集まって出来た国であること。時を経て、現代はその構成比率が少しずつ変わってきているかもしれないが、それでもアメリカには世界中から人材と金が集まるということ。後者はどうでも良いが、「自由」を求める精神は変わることなく、そして、それをお互いに認め合っていかない限り、アメリカは国家でなく、一部の人間に支配されてしまう「機能」で終わってしまうという警告も含まれた「アメリカ人としての尊厳の回復」が主題である。

フォード・グラントリノ・スポーツは、そんなアメリカの象徴である。この名車の名前を聞くと(クルマファンでなく)エンタメファンなら、スタスキー&ハッチを思い出すと思うが、あれも名車だが1976年製。本作品では1972年のヴィンテージカーである。主人公が半世紀以上勤めていた会社の最高傑作は、自分の息子と同じであるが、一方でその父を理解しない息子たちの隠れ蓑としての作品の大きな役割にもなっている。平均的なアメリカ家庭の中にも「父親の尊厳」を失わせてしまった元凶は一体なんだったのか。一意見としてそれは「朝鮮戦争」に始まるアメリカの局地戦争への介入なんだと言っている。そして、彼は、この国家を牽引してくれると思われる「新しい世代」にそれを継承する。まさに、黒人大統領が就任したタイミングにも相応しい映画作品化なのであろう。

素晴らしい作品である。しかし、このところ(昨年の年頭もそうだったが)良い作品が続いている。筆者の採点が甘いのでなく、映画の題材になってしまうほど、現代は問題が山積しているとも言えないか。そして、最後にもう一言、この作品をオスカーに選ぶという妥協をしなかった今年のオスカーの決断には、この秀作と共に大きな拍手を贈りたい。


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by turtoone | 2009-04-26 23:13 | 映画(か行)

グーグーだって猫である

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以前、私が実家に居たときには犬を飼っていたが、現在の家族ではまず、猫を飼うことは未来永劫にない。理由は3つあり、長女が猫アレルギーであること、集合住宅なので基本的にペットが飼えないこと、そして3つ目に、私も家内も子供の頃にペットへの死別を体験している身としては、あの悲しみをもう二度と味わいたくないというのがあるだろう。最近の風潮としてペットを家族だと位置づける方々もいらっしゃるが、筆者は犬や猫はやはり「飼う」ものであって共棲しているとは思えない。犬が私の替わりに仕事をそてくれるか、猫がゴミを出してくれるのか? そう考えると、良い悪いは兎も角、日本の社会に於いて、犬や猫は人間の暮らしに迎合するほかはなく、それはもしかして犬や猫にとってはとても不幸なことなのかも知れない。私、というか実家で飼っていた柴犬は室外に犬小屋があり、長距離散歩もさせたが庭を我が物顔で走り回っていられたし、トイレだって自由(自分で後始末するしね・・・)。そこへ行くと室内で買われている犬猫は大変気の毒で仕方ない。親友が猫を飼っていた時期があったが、夜中になると室内を飛び回ったり、寝ている顔を舐められたり(でも親友の可愛がっている奴だから邪険にできなくて)つくづく自分は猫好きでなくて良かったと思ったことがある。その猫は親友が近くの公園に散歩に連れて行ってベンチでうたたねをしてしまったら、その間に姿をくらまして帰って来なかった。世田谷のお屋敷街なのできっと大きな邸宅に飼われて今頃は幸せな暮らしをしているのだろうと、そのとき本気でそう言っていた親友の発想を疑った。また、私も寒い冬に庭先でミュウミュウ泣いている猫が余りにも可愛そうだったので、冷蔵庫からミルクとパンの残りをあげたら喜んで食べた白い猫が、翌日、玄関先に鼠の死骸を置いていったのには驚いた。自らが幼少のとき猫を飼っていた父曰くは、この鼠は食事の御礼だという。猫の恩返しだったが、その鼠の死骸の始末も大変で、それ以来、猫の悲しい声が聴こえても、心を鬼にして絶対に食事を与えることはしていない。そんな訳で、どうも猫とは相性が良くないのである。

この作品はタイトルに興味があった。「グーグーだって」の「だって」である。「だって」という言葉は「ダトテ」の転換語で「○○でさえも」というのが正しい使い方だ。また、接続語として使用する場合には「そうではあるが・・・」、「そうだとしても・・・」という意味がある。つまりはグーグーではなく、それ以前に何かが存在するのであるが、その後に続く「猫である」という言葉には色々な想像ができる。素直に「猫」という代名詞として捉える意外に、例えば、漱石の韻を踏んでいるという考え方もできるし、猫は他の猫という考え、或いは擬人化した猫という考えも成り立つ。つまりは色々な解釈の出来る表題であるように、この映画作品ではその表題の通り色々な捉え方のできる作品であった。しかし、逆にそれで主題を見失ってしまう要素も沢山あったのも事実。例えば、吉祥寺の町をとても丁寧に紹介していて良かった反面、そこに引きずられてしまう危険もあったし、ナレーションがアシスタントのナオミ(上野樹里)と麻子先生(小泉今日子)の二本立てのために(更に言えば英会話スクール講師も部分的だがナレーターの一人)、二人のストーリーが猫との関係とは別次元で進行していまうというところ。この辺りは主題を見失う要素となってしまった。つまりは、結局麻子先生に訪れたアクシデントって、サバとグーグーに次々に人間のエゴで犯した罪の報いだっていうところが主題として理解してよいのか否かが不明だし、もしそうでないのならどうしてそういうストーリー展開にしたのかも理解できなかった。なので、この辺りはタイトルの「だって」の含みがどういう意図なんだろうかが分からないと主題が映画作品だけでは見えてこなかった。但し、原作を読む予定はないので謎にしておいても良いかなぁと思う。そんなことはないが、もし、どうしても猫を飼わなければならない環境になったときに読んでみようかと思う。

但し、猫が余り好きでなくて、また、タイトルや主題が良く分からなくても、映画作品としては結構楽しめたのは、細野晴臣の音楽に寄るところも大きい。あと、上野樹里だろうか・・・。映画出演が多いだけに、銀幕での存在感は大きい。ただ英会話講師の下りは頂けないし、意味が無い。それから青自は? 色々消化不良に終わった部分もあったが、これらをすべて「ダトテ」に集約させるのだとしたらコンセプトは面白いが構成には無理があった。


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by turtoone | 2008-09-15 17:56 | 映画(か行)

告発のとき

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映画における戦争をテーマにしたものは名作の確率が高い。筆者のビデオ・DVDライブラリーをみても、20%近くを占めているから、もしかしたらジャンル別に分けたら最もパーセンテージが高いかもしれない。しかし、一方で沈痛・悲痛な物、後味が悪いものも多い。勿論、戦争なんて良いものの訳はないが、例えば、同じ戦争でも中世とか、もっと前の時代が題材の作品に同様な後味が残るかというと、それは少し異質である。但し、それは現実感の問題なのではないかと今までは思っていた。平和呆けのこの国においても、第二次世界大戦の悲惨さは、祖父母や両親から伝えられ、語り継がれてきているし、ベトナム戦争時代に戦地に赴いているわけではないが、反戦運動や、わが国にも関連した学生運動が起こっていた事実に多少なりとも接触をしているからか、自分というものを軸に考えて、悪事だという判断と悲惨さの共感は心のどこかに潜んでいて、それが唯一、戦争に対する自身の良心だと思っていた。だが、この作品で分かったことは残念ながらそれは大いなる勘違いであるということだ。

ベトナム戦争を経て、アメリカの戦争に関する考え方も大きく変わった。これは核というものの存在かどうかは別として、戦いというのは、すべてにおいて強いものが勝つという構図を変えてしまったのが現代の戦争である。イラク戦争において、アメリカは勝った訳ではない。それは既にベトナムから始まっていた。世界の国々がこぞって「アメリカ」になりたがったら地球はどうなってしまう。そんな疑問も今はない、なぜなら、19世紀のイギリスを目指したアメリカと違って、今、世界は「アメリカ」なんか目指している国は、ちょっと勘違いをしている「中国」以外にはないからなのであろう。人間は100年かけて、少しだけその部分を学んだのかもしれない。そんなアメリカが21世紀になって、まだ、19世紀のイギリスを目指しているという部分の歪みがこの映画作品に出てくるイラク戦争兵士たちの世界に現れてしまうのである。そして、それは戦争につきものである「西武戦線異常なし」と同じ、大国の一部において、一兵卒の問題は何も「異常なし」という報告がなされるが如く、やはり全く変わっていない。同映画作品のエンディングが如何に本質を示し、変わることのない命題であり結論であることを、全ての戦争映画、及び、アメリカ兵の戦場の実際を物語っていることにも、改めて同作品は素晴らしいと思う。大いなる勘違いというのは、自身の戦争に関する体験云々でなく、人間社会が大きくなるが故に比例する国家と国民の非統一感とそれに対して何もすることができないという諦観な脱力感に他ならない。

トミー・リーとシャー子の共演は見事。この二人は本当に作品と共演者によって随分演技の質が変わってしまう俳優だ。しかし「依頼人」で対決したスーザン・サランドンと夫婦役だったが、スーザンの迫力があの作品ほど無かったのは残念だったが、役柄的に致し方なかったかもしれない。トミー・リー演じるハンクの元軍警察という役どころも一見すると単純に思えるが、物語が進むごとにそれが深くなりきめ細かな設定だということが分かってくる。アメリカの何かが崩壊していく、そんな、緊張感と虚脱感を十二分に髣髴させてくれる役柄である。また、シャー子演じる女刑事エミリーが、洞察力の鋭いハンクの言動・行動に刺激され、徐々に迫力が出てくるところも演出もさることながら全体の構成を踏まえた演技力には脱帽。「スタンド・アップ」に匹敵する彼女の名演を鑑賞できる。「クラッシュ」に関しては、テーマは良いものの映画作品としての構成が甘かったと評した筆者であるが、この作品は全く逆。テーマがこなし切れていない部分を全体の構成力で補っていて、それは、前述した役者の演技だけでなく、動画の効果だったり、写真や、兵士の台詞など細かい点にも現れている。宅配便の一件といい、米国旗の流れといい、そしてなんといっても、旧約聖書を引き合いに出した主題(何故、邦題は当初の予定通り「エラの谷」ではなかったのか? 勿論この邦題の「とき」という言葉に重きをおきたい気持ちはわかるが、この作品は直訳邦題で良かったので残念)に、母親としての女刑事が皮肉をいうオチまで、とにかく構成は素晴らしい。また構成が見事に完成されたが故に、初めて鑑賞者に理解される問題提起という部分では、最早映画作品の枠をも超えている。最近は物語や全体構成が伴わない中で、問題提起ばかりされる、ある種ドキュメントに近い作品が多い中、「事実に基づいた着想」というエクスキューズも生きた内容であった。

残念ながら、音楽や美術などの部分と、撮影や編集にもう少し斬新な点がひとつ欠けていたために最高ランクには到達しないが、この作品も戦争映画では極めて評価の高いランクになるA作品である。拡大系ではないが、是非、時間を作ってシアターで鑑賞して欲しい。


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by turtoone | 2008-07-12 22:22 | 映画(か行)

奇跡のシンフォニー

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なんで邦題はシンフォニーなのだろうか、演奏した曲はラプソディー(字幕では狂詩曲と出ていたが、これは原語のrhapsodyを直訳したからだと思う。全部が聴けなかったが、いずれにしてもシンフォニーではない。)なのにと思っていたら、そうか、これは演奏された曲の事ではなく、この物語の構成自体がシンフォニーであることに気が付いた。シンフォニーという音楽形式は「ソナタ形式」の楽章をもった楽曲のうち、一番規模の大きなもののことを言い、そのソナタ形式とは二つ以上の対照的な主題が呈示され、様々に議論を展開し、やがて安定した状態で再起する音楽の構成法である。また、コンチェルトと違い、ひとつの楽器が傑出して引っ張ることはない。様々な要因が奇跡に繋がったという作品全体の総称であるのだから、この邦題をつけた人間は相当、音楽に精通している。

素晴らしかったのは、音楽をひとつの効果としながらも、同時に中軸に据えていたこと。冒頭のボーカルとチェロの不協和音の融合にはじまり、生まれた赤子に回転木馬のオルゴール音を小さな手で握り締めるシーンはこれから展開するこの主人公の運命と、同時にストーリーの進行を鑑賞者に予測させる、秀逸な場面であり、殆どの映画ファンはこの時点でラストは想像できる。しかし、そのラストへのプロセスが今迄のよくあるこのパターンの作品とは違う。

ただ一方でかなりの無理もある。エヴァンが日にちを正確に覚えているのは違和感がないが、母ライラが事故の日からの日数を覚えているか? (彼の存在はずっと後に知ったのだから・・・)口笛だって施設の誰かが吹けた筈だし、また、11年も第一線から退いて音楽教師になっていた彼女がすぐに世界一のオケのソロチェリストになれる程、クラシックの世界は甘くない。一方でエヴァンのパートは良く考えてあり、幾ら天才でも音階という理論は習得できるが、楽器演奏の実際では、ギターの場合右手のピッキングはそう容易くできる物では無いから、この奏法しかなかったところは良く考えられた作品だ。

ミュージシャンもの、コンサート映像やドキュメント、更にはミュージカル作品以外でここまで音楽を主題に持って来た作品は私の記憶にない。特に空間にある音、世の中に溢れる音をひとつひとつ丁寧に追いかけ、それをひとつの曲という完成された形にまで頭の中で作り上げるという天才少年のプロセスを見事に示した点の評価は高く、さらにこの試みの斬新さには心から拍手を送りたい。オスカー・ミュージカル作品「シカゴ」にも一部こんな実験が見られたが、その比ではない。また、昨年の「魔笛」とも違うコンセプトであるが、音楽(及び効果音としての音と音楽の使用に関して)を映画という総合芸術の中でここまで全編に渡り、引き上げた功績は大きい。賞讚したい。

だからこそ残念だったのが少年の指揮。ここ迄天才なら指揮も、全身で自分の音楽を伝えられた筈。なぜなら彼は一貫して音楽で親を探そうとしていた訳で、いわば、このラプソディーはその集大成である。天才子役の彼に、本当の指揮を指導すれば、ラストに向けてもっと感動的になった筈で、前述した脚本の無理と演出不足の減点は歪めなく、この点は本当に残念だ。そのために総合評価は若干落ちるが、「テラビシアにかける橋」(奇しくも今週DVDが出た!)と同じ様に絶対に劇場で、(特に父子セッションは戦慄が走るぞ!)観て頂きたい作品だ。

それとエヴァンが作曲した曲は全部聴きたいな。DVDが発売になったらメイキングに入らないかなぁ。いや、それよりも父子セッションをもう2~3曲聴きたい。DVDの特典につけて欲しい!!


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by turtoone | 2008-06-28 23:38 | 映画(か行)

紀元前1万年

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この作品を製作するにあたり、かのローランド・エメリッヒ監督は「歴史は映画の教科書ではない」と断言している。だからこちらも細かな歴史的考証に全くツッコミを入れる積もりは無かったが、いざ鑑賞をすると、そもそもこの映画作りに関しては前作同様、もうこの「なんでもあり」体質には、嫌気がさしてきた。ツッコミ云々より、鑑賞を中止して大いびきをかいて寝てしまおうかと思ったほどである。

そもそも人間の起源とはいつのことか。2001年に発見された「トゥーマイ」は定説を覆した頭蓋骨といわれ、起源は500~600万年前の東アフリカから、700万年前のチャド(中央アフリカ)に訂正されたのである。現代人より大きな脳を持っていたと言われるネアンデルタール人の滅亡が25000年前、言語能力が低かったのでクロマニョン人に滅ぼされたというのが一番新しい研究により導かれた説である。それで、問題の紀元前1万年というのは何かというと「氷河期」である。この最後の氷河期が終わるのが今から10000年前、つまり、BC8000年であるからにして申し訳ないがこの作品は設定からしてもう駄目なのである。多分10000という数字が限が良かったに過ぎないというその程度なのだろう。歴史的考証以前の問題である。また、ピラミッドも色々言われているが、筆者が注目したのはそれよりもスフィンクス。あの顔といい大きさといいどうみたってカフラー王の大ピラミッドにあるスフィンクスである。ピラミッドと違い、スフィンクスはそれぞれ顔が全然違うが代表的なものはカフラー王のピラミッドを守るあのスフィンクスであり、最早代名詞にもなっている。このあたりは検証が甘かった。ようするに、一応総合芸術を担う映画人が、こういう短絡的なミスを犯すというのは、一映画ファンとしてだけでなく、絶対に許せない初歩的な誤りであろう。前作といい、こういう基本的な所は「自由解釈」と開き直るのではなく、映画人の誇りとして注意して欲しい。

また、残念なことにメッセージ性に欠けていた。部族を超えた心が芽生えたという訳ではないという前置きの元に、しかし一方で神という存在の前にひれ伏す以外何もないとする恐怖感を上回る、奴隷化されたそれぞれの部族を助けるというのは単に「お告げ」だけの問題なのか。古代物というのは、つまるところ必ず出てくるのがシャーマニズムであり、しかし、それぞれの部族のいう「神」と、祟りを与える「神」が同レベルで語られるところにそもそもの無理がある。簡単に言えば自然神よりも生き神を上に見ているところが最後まで違和感として残った。このあたりは例えば黒人部族の繋がりの後ろ盾には同一の「自然神」があるというようにことを匂わせるとか工夫が欲しかったと思う。そうすれば、この欧米あたりを意識したデレーの部族(しかしティクティクって名前はちょっとないよな・・・)をサーベルタイガーだけで「予言」だと受け入れる以外に、これらの部族との境界線と、同じ大陸の部族との団結力を見事に表現できたと思うのに残念だった。それからマンモスなんだけど、集団で逃げておいて、一頭はぐれたからといって急に攻撃してくる習性を持っている動物ってちょっと現代の感覚では分からない。古代にはそういう動物っていたのだろうか。殆どが本能で行動する動物だから、そんなに戦闘本能を持っているのだとしたら、人間から集団で逃げたりはしない。それから起源前1万年のマンモスとしては顔かたちがもっと古い時代の出土の骨から復元されたマンモスだったのも残念だった。最近の調査で、マンモスは狩猟で滅亡したのでなく、植生の変化か伝染病の説が強い。前者は氷河期が終わり、海面温度が10℃以上も上昇したことによる食料不足、後者は人類がアメリカ大陸に上陸することによる家畜から発生する伝染病という環境の変化である。だが家畜らしき動物は集落に見られなかったから後者ではない。それから例のピラミッドではマンモスを家畜として使っていたが、これは「L.O,T.R」でやはりトロルを家畜的に使っているシーンと同じくらい笑えた。これではマンモスでなく、ただの象ではないか。この映画では最も大きなみどころのひとつ「マンモス」がこういうの部分で自滅してしまったのだから、他の部分はどうでも良いと思う。

ただの娯楽大作だとするのであれば、紀元前1万年なんてタイトルで時代を特定してしまうのもおかしい。だから筆者はそうでなくメッセージ性を期待したが、「ID4」の様なメッセージには、前述した理由で繋がらなかったというのは、如何に作品の土台作りが大切だということを教えてくれた。少なくとも歴史は映画の教科書ではないのなら、そうでない分野の作品を作れば良いのだし、中途半端なメッセージとしてしか受け取れないような出演人物の構成造りが如何に無駄であるかがよく分かる作品である。そういう意味では、ほんの少しだけ歴史考証をきちんと構築していれば、(というか、監督自身が知っていれば)きっと彼なりの気づきによって、メッセージ性の高い作品になったと思うと残念だ。彼は、そういう資質のある監督なのだから。

そうそう、不覚にもいびきはかかなかったが、オリオン座を見て「Little DJ」を思い出してしまった。


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by turtoone | 2008-05-06 19:08 | 映画(か行)
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公開前から情報が限られていたこともあったのか、筆者の予想とは違い、意外に信頼できるブロガーの方々の評価も思ったほど悪くなく、中には絶賛をしている友人もいたので、ならばということで少し公開から遅れたが鑑賞した。結論としては、この作品を筆者は「映画作品」として論ずることはできない(別にそんなに偉そうに言っている訳ではない。ただ、筆者は映画評論家でなく一映画ファンであるから・・・)。これは映画ではない。映画としての採点は不可能である。しかし、金を取って物を 見せるという、所謂、興行としての感想・評価を述べたいと思う。無論、以下、映画的表現を使わざるを得ないボキャブラリーの貧困さにはご勘弁頂きたい。

この手持ちビデオによる85分の映像を見て「この程度なら自分でも撮れる」って言っている輩が鑑賞後に沢山いたが、勘違いするなよ。このアングルといい撮影といい、とくに照明との兼ね合いは絶妙である。プロが使えば、家電に毛の生えたホームビデオカメラでも芸術作品が作れるっていう証である。これは兎に角脱帽。この撮影機材は知らないが、本当に、我々が子供の成長記録に使っているようなカメラだとしたら、スゴ過ぎである。重複するが照明は更に素晴らしい。映像とか画像って、やはり最大の難関は採光・遮光なんだということを教えてくれた85分間である。しかし、残念な点としてはカメラがうますぎた。例えば、左から右へのスパンのときの静止がうますぎた。ビデオカメラの撮影を経験したことのある人ならお分かりだろうが、右目はファインダー越しに、左目は(初心者は殆ど瞑ってしまうが・・・)直接被写体を見ているから、素人映像っていうのは、左へスパンする場合は被写体の位置を把握しているからぴたりと静止できるが、逆は被写体を確認するのがスパンするのと同時になる。勿論、今は、液晶ファインダーで確認ができるが、そうすると被写体を探すのに今度は多少カメラが上下してしまうのである。これを防ぐ方法はひとつだけ。そう、三脚(一脚だとブレの原因になる)を立て、ファインダーで確認しなくても予めスパンと同時進行で被写体を確認するしかない。しかし、このストーリーでは三脚を立てた形跡はない。つまり、ハッドは冒頭でカメラの使い方を分からない節の台詞を言っているから却ってこれは余計だった。任せとけ、オレはこう見えてもカメラだけには自信があるんだぜとでも言ってくれたら、前述した「残念」にならなかった。また、凝っているのかどうか、最後にこのカメラがオートフォーカスだった余分な映像があったが、これも最後に逆効果になった。実は筆者は最初からこのカメラの焦点照準の速さには驚いていた。勿論、これは皮肉で、素人があれだけスパンを繰り返していたら、子供の運動会の大玉ころがし映像と同じでピントはしょっちゅうズレル。だからある程度動きのあるものは、固定でとるのが素人でも定石である。しかし、この作品はずっとオートで撮影していたらしい。前出のハッドはカメラの初心者だから勿論ピントとズーミングを同時にできる技術などない。もうひとつ、余計なことをいうと、室内も、夜の外も、店の灯りも、、そして早朝もすべて同じホワイトバランスで撮っていたのであろうか。この辺になると余計な突っ込みなのかもしれないが、この素人映像という閃きがあったのだからここまで凝って欲しかった。途中で入った夜の電気屋(?)でも蛍光灯による映像の乱れがなかったし、全編を家庭用ビデオで撮影しなかったというところも暴露してしまった。まず、これが映像に関しての感想である。

しかし、この作品に託されたメッセージというのは色々あって興味深い。まず、映像というものの信頼性に関する警告である。この作品は現在進行の映像と撮影者のコメント、さらに回りの人間の言葉によって出来上がっているが、しばしば、映像と言葉か合わないところがある。勿論、脚本的にわざと併せていないのであるが、要するに、カメラり持つ範囲と人間の目の範囲は視野が違うということと、撮影者とそうてない人の視野も違うということである。我々は眼に見えるものは信じるが、それはあくまでも実際にその現場を見たものだけであって、カメラを通したものは既に違う、極端に言えばマスコミやメディアのフィルターがかかったものは既に真実ではないという警告である。今に始まったことではないが、それを、同時進行している「人間の言葉」とシンクロさせて批判したという試みは始めてだと思う。この手法には拍手したい。もうひとつ、これは既に「ユナイテッド93」で使われていたが、同時進行しているものに関しての人間の記憶のいい加減さであり、十人十色な解釈である。今更理科の時間でもあるまいが、人間というのは、眼でみえたものを脳で解析する。つまりは脳には「瞬間」を捕らえる能力と「記憶」を再生する能力があるが、時としてこのバランスが悪くなることがある。脳神経の疾患や症状というのは医学が解明されてここ数年で飛躍的に進歩しているが、同じものを見ている複数の人間が次の瞬間違うものだと判断し、記憶する。これは現代社会の情報供給量の膨大さを皮肉っていると同時に、情報分析力に欠ける人間の絶望を語っている。筆者には今回出てきたモンスターは情報社会って奴が形を変えてきたのだ(だから格好も陳腐だし、かなり行動も間抜けな野郎だった)と思っている。このあたりのテーマに関しては正直、受け止めるものがたくさんあった。もうひとつ、情報ソースが全くなくなったときの人間の行動の愚かさと結末も説いているが、ここになると全部ネタバレすることになるし、かなりな長い文章になってしまうのでここでやめたい。

奇しくも(まさかこの作品が公開されるまで長引いているとは誰もが思わなかったが・・・)、民主党の大統領候補者選びが終着していない中、オパマ氏が指示される中に「サウンドバイト」が影響力を失いつつあることを証明しているが、この作品もそういう意味でのメディア批判のてんこ盛りであるということを筆者的には評価した。但し、映画作品としてではなく、である。巷には続編があるという噂だが冗談じゃない。もし、続編があるのなら、この出来事をちゃんと「ゴジラ」みたいに撮って欲しいと思うだけだ。無論、筆者はあのモンスターじゃ観にいかないが・・・。


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by turtoone | 2008-04-26 22:42 | 映画(か行)

歓喜の歌

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邦画って独特のスピードがあって、所謂本作品のようなコミカル物っていうのは、独特な中にもテンポが全てであり、逆にそのテンポを失ってしまうと色々と突っ込みたいところが沢山出てきてしまう。最近わかったのだが、その独特のスピードって筆者が勝手に思い込んでいる先入観であって、要するに原語だと分からないから頼りにしている「字幕スーパー」との時間差だったのだ。だから例えば家内みたいに英語で日常会話が出来る人間は、洋画を観ても殆どスーパーを見ていないから、時間差がなく余裕があって筆者とはいつも観ているところが違うのである。だから筆者の言う、独特なスピード感というのを彼女は全く感じないらしい。さて表題作品は、筆者が信頼を於いているブロガーの皆様方の間で結構評判が良く、且つ、自身の期待度も高い方だったので予定を変更して鑑賞した。ただ、この作品は良い部分とそうでない部分(決して悪い訳ではないのだが)がはっきりしていて、結構途中で感動もしたが、突っ込みところも多かった。鑑賞の記念にそれぞれを少し記す。

まず、突っ込みは、そもそもの設定。6月の予約から公演の間際まで、何も会場と打ち合わせをしていないということなどは全くもって有り得ない。しかもこの都市は何処を想定しているのかは分からなかったが、シャトルが走っている。シャトルを市内に誘致できるほど国や都道府県から助成金を引っ張ってこれる様な、都市は監査も厳しいし書類もしっかりしているわけで、電話一本で市民会館の貸借を決めてしまうことはない。大体チケットが完売といっているから頒布しているわけで、有料コンサートだから公的な施設には決まった書式の手続きが必要。この辺りは少し設定が甘く、揚げ足を取っているわけではなく、大事なところだからしっかり抑えて欲しいと思う。大体、6月から12月31日の予定が書き込めるってどんなに大きなホワイトボードを持っているのだろうか。また、でんでんの場面一式は全くいらなかったのでは? 何か主任が飛ばされた後付になってしまい、先に(電話は掛かってきているが)でんでんが出ていればまぁ良かったかもしれないけれど、そのためにらんちうが絡んだり、はっきり言って必要のないエピソードだ。その分、もう少しみたま町ガールズの面々の私生活を掘り下げた方が良かった。それから肝心の第九なんだが、筆者は良く年末なんかにやる市民コンサートって行ったことないから分からないが、第九をカラオケでやるの? 確かピアノしか楽器はなかったし、椅子を増設した場所って本来、オケが配置されるところだよね。カラオケで指揮をするって、筆者の音楽経験では理解できない。みんなすごく耳が良い人たちなんだなぁって関心した。それからここではアンコールをやらなかったが、(その代わりに良いエピソードがあったけど)普通はやるし、アンコールの声もかからないのだから、演者はとても音楽性の高い耳の良い人たちの集まりなのに観客は仕方なくノルマでチケット買わされた人なんだなぁと心配してしまった。「五木の子守唄」は良かったが、そもそもなんでそういうきっかけになったのか分からないし、由紀さおりの役どころって何者?安田祥子が最初からずっと地味に出ていたのでなんかやってくれると思ったら、トルコ行進曲でも絡まなかった。折角のお姉さまを活かしなさいって、これ「お約束」なんじゃないかなぁ・・・と。

逆に予想外かつ感動したところ。なんといっても感動はまつり縫いの展開は読めなかったな。あと、渡辺美佐子は最初からスペードのエースって分かったが(多分、誰でも・・・)、どこで出てくるのかと思ったら、ここね。なんでもかんでも歌だけで人を動かせないところは気に入った展開。それから平澤由美のボーカルは驚いた。あと根岸さんの調理の早さはすごかったね。麺を入れていたから海鮮あんかけやきそばを作っていたのかなぁ。ラストは勿論泣かせて頂いた。筆者も少し被るところがあるなぁって、家内や家族への感謝は大事だよ。というかこの夫婦の問題だけでなく、全編に家族愛(でも斉藤洋介と片桐はいりの子供ってどんな顔しているのか、出てきて欲しかった?)が謳われていた作品だから、最後の感動に繋がった。そういう愛が根底にある人たちだから大きなトラブルもなく、ジョイントできたのだと、そんな優しさ一杯の感動をくれた作品だった。

ただ、邦画なのに季節外れの公開なのはなぜ。昨年末公開だったらもっと感動したし、今、「これから年越しそば」っていわれてもピンと来ない。旧正月だし、やっぱりこの後親子三人で、タンメンとギョーザじゃないのだろうか。


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by turtoone | 2008-02-10 17:06 | 映画(か行)

クリムト ~新作DVD~

b0046687_22242614.jpgクリムトというと思い出すのが、昨年だったか、史上最高値で、彼の作品「アデーレ・ブロッホバウアー1」が売却されたことであろうか。実際、偉大なる画家グスタフ・クリムトの物語であるが、彼は生存中にその才能を認められた数少ない幸運な画家という言い方も出来る。又、クリムトというとやはり「エロス」という単語とは無縁ではいられない。考えてみれば映画作品の画家モノも結構多い。しかし、大体が芸術家なんていうひとたちは、ハチャメチャな人生を送っていて、その生涯がそのまま芸術みたいな人ばかりである。筆者なんかもも若い頃は芸術家っぽく振舞ったりしたことがあるが、本当の芸術家ではないからどこかで常識に填まってしまって結局偽者だって自覚してしまうのである。だが、筆者の周りには、やはり芸術家っていうのが何人か居て、勿論、こんなクリムトの時代と違うから、それなりに食うに困らないでやっている輩も居たりする。でも彼等に共通していることといえば、やはり常識という枠には絶対の填まらないという事である。

ところで、この作品は「クリムト」の一体何を描くのか、公開の時から気になってしまったが、それも良く分からない内に見逃した。というか、筆者が知っているクリムトは、筆者の感覚では全く理解できない後期印象派の作品の数々と、もうひとつ、人間クリムトという部分では、最愛の弟、エルンストを若くして亡くしたことと、何といっても、ウィーン大学大講堂の天井画の『学部の絵』である。この天井画は『哲学』、『医学』、『法学』の3部からなり、人間の知性の勝利を表現するという依頼者の意図を全く無視し、これら3枚の絵は理性の優越性を否定する寓意に満ちたものを製作することで、後々までにも大論争を引き起こした。つまりは、筆者の知っているクリムトというのは、そんなにストーリーにするのに面白い人物ではないということであった。前述したエロスというキーワードもあるが、芸術なんて所詮、エロスも求めるものの中のひとつの選択肢で、自画像を書かない画家はいても、裸体を書かない画家はいない。そんな、クリムトに対する大きな期待と誤解が入り混じって余り良い鑑賞にはならなかったのかも知れない。映画作品としても、芸術家としての想像力の一端を表現することに成功したが、物語としの繋がりは良くなかった。

ところで、ジョン・マルコビッチであるが、驚いたのはクリムトに良く似ているということ。この俳優は個性の強い人で、余り役作りはしない人なのかと今まで思ってきたが、それは大いなる誤解だったのかも知れない。この演技で観る彼は、随分アクが取れ、年齢と共に渋さを増してきた。但し、奇妙な俳優だけに、これも演技だとしたらやはり恐ろしい。又、画家の作品だからかも知れないが、美術は良かった。特に前半で全裸のモデルが何人も天井から下がっている布のブランコに乗っているシーンなんて、何とも美しい。そう、完成品の絵画から想定した創作現場は見事であった。こんなシーンばっかりなら良かったんだが。

彼が出ているので作品の合間合間で「ジョン・マルコビッチの穴」に通じるものを感じてしまったけれど、考え過ぎの様で・・・?


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by turtoone | 2007-05-02 23:25 | 映画(か行)

クィーン

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今年期待度第1位に上げた待望の鑑賞であったが、予想通り、いや、予想以上の出来であった。

Great Britain すなわち英国と日本は地球の中心と極東という地理的に大変離れた場所にある一方、島国であり、又王室が現在も存在するという共通点が沢山ある国として、単純な興味から真剣に学ぶ点にまで、色々と比較・参考にする事が山積している地域である。最近特に思うのは、国民の誇りというものに関して言うと、英国が大変高いのはもとより、わが日本も本来的にはそういう基盤を持ち合わせている国民であるということだ。日本は鎖国という時代が長かったが、結果論としてこの時代があったから中国のように欧米の戦略をされなかったという意見と、一方で長崎出島を中心に世界との交易の窓口を一本化し、厳選していたから、植民地化されずに対等な扱いを受けたという考え方があり、両者ともに正答に近い。王室が存在しても、唯一、英国と違うのが宗教観である。神道というのは、言い換えれば皇室の宗教であり、天皇という存在は民衆のトップであると同時に、この神道を司るトップでもあるということだ。少なくともキリスト教圏には現代英国のように形式的にはそうであっても、こういう発想はない。英国、グレートブリテンが創設したのは、1707年で、イングランドのアン王朝が継承、アン女王は初代の王位保持者である。国旗に示されるように、十字のイングランド、×模様とスコットランドとウェールズの三国を併せて現在のユニオン・ジャックになったことは有名だ。

エリザベス2世、正しくはエリザベス・アレクサンドラ・メアリー・ウインザーは連合国王のジョージ5世の第1子として誕生し、王位継承権は第3位だったが、父が病弱で早逝したために、1952年に即位して既に50年を越える。こう考えると、最早、「生ける権威」である。わが国の象徴天皇とは違い、英国における王位とは君主と政府の両方を表し、現在では英国連邦の君主であると同時に英国国教会の長でもある。チャールズ皇太子がダイアナ・スペンサーを皇太子妃に迎えたのが1981年、ダイアナ妃が20歳の時であるが、その美貌と境遇から現代のシンデレラストーリーとして世界中から憧憬の眼差しで見られた。同時に、積極的な彼女の行動は、この王室が一般に開かれる、そんな期待を一身に集めたのである。2児の母、いわんや王室後継者の母となっても、彼女を取り巻く環境で起こる出来事は、マスコミの過剰発表も重なり、必要以上に世界中に注目をされ、脚光を浴び、無責任な意見や誹謗・中傷が常に彼女のまわりを取り巻いた。一方で、皇太子の不倫問題も重なり1996年正式離婚、彼女のコメントにもあるように私人となった。又、この作品のもうひとりの主役である、イギリス第73代首相トニーブレアは、労働党党首としてその手腕と主張、更に若さを評価され同党の大勝利と共に、1997年5月2日、議会の最高責任者となる。この事件はそんな最中、その年の8月31日にパリで起こる。

この作品によると、兎に角ブレアの判断が素晴らしい。若くして、革新から首相になりいきなり世界中を驚かせた事件がこのダイアナ元皇太子妃の事故死であるが、その対応を大変早く、それは当時18年ぶりに政権をとった労働党の不安定と若いということで不安視された英国民の疑念を払拭した。しかし、それだけではなかったのが、この作品に現れている、ブレアの葛藤である。彼の葛藤があって始めて、女王を理解し同時に国民をも理解させた。同時にそれは、当時在位50年の偉大な女王のこれまでの様々な苦悩も、このブレアの取組みにより、国民と、何よりも女王自身に振り返させることに繋がった。

人物作品は、亡くなった人間を描くより、存命中の人物を題材にする方が難しい。特に、エリザベス女王とは、恐らく、全世界的に最も知名度の高い人である。そしてブレアでもある。イラク侵攻問題でのアメリカ同調作に英国での支持が下がりつつあるが、この様に作品で当時の彼の活躍を紹介されると、所詮は映画であったも世論は少し変わるのではないか。

そして本作は作品のコンセプトが良い。王室のバッシングに走らず、当時、全世界から非難された王室を悪戯に擁護するのでなく、ひたすら理解しようとした。勿論、前半のパリ事件の映像の部分は編集にもう少し工夫が欲しかった。例えば、「JFK」があれだけ古い映像を使いながら、全く違和感を感じない編集の妙をみせたのに比べると、正直、実写報道映像のクオリティはずっと高いのだから、ここは残念だった。もっとも、ここを必要以上に強調しなかったのも作品の趣旨から考えれば良かったのかもしれない。作品後半のブレアの女王を理解した台詞は、筆者的には映画史上に残る戦慄を与えてくれた。また、事故死時に出た、殺人説等の風説も全く無視した作品つくりも高い評価に繋がった。

これがイギリス映画だというのが、又、良い。欲を言えば、証言がもう少し欲しかった。それもテレビに出ていない様な、そして一般人のもので、それがあれば、歴史的資料としての意味合いも出来て、だとしたら筆者の評価も特Aまでいったと思う。物語と脚本が良かっただけに、このプラスアルファがあればと思うと少し残念だ。また、他の要素に比べると音楽がいま一つだった。美術はホワイトハウスの様に、良く一般に紹介される施設ではないから、中は良く分からないが、コスチュームデザインや女王のメイクアップなんかは、王室の私生活が現れていて良かった。

そして何といっても、ヘレンミレンの演技は、オスカー史上、屈指の主演女優賞的名演だ。


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by turtoone | 2007-04-21 23:54 | 映画(か行)